主の降誕(日中) イザヤ52・7-10 ヘブライ1・1-6 ヨハネ1・1-18 23-12-25
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 万物は言によってなった。言によらずに成ったものは何一つなかった。また言われます。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
イエス様はまことの人です。そして、まことの神です。イエス様のうちに神様を見る。イエス様は弟子たちと一緒に、わたしたちと一緒に生活なさいました。目を覚まし、祈り、朝ご飯を食べ、外に出て行きます。人々と語り合います。夜帰り、祈り、食事をなさり、祈り、寝ます。弟子たちと一緒に生活していました。イエスはまことの人です。 しかし、イエスの言葉、行いはわたしたちの思いをはるかに越えているのです。イエスは神様を語ります。心から神様を語るのです。言葉の端々から神様のみ心が顔をのぞかせるのです。行います。しかし、その行いは、自分が損をしてでも、その人に安心を与えるためなのです。イエス様の行いは神様のみ心です。イエス様の言葉は聞く人の心に
入って行きます。その人の思いがイエス様の言葉に溶け込みます。イエス様の思いがどんどんその人の中に入って、イエス様の思いのうちに語り、イエス様の思いのうちに行うことが出来たらいいと思うのです。
イエス様は人ですか。人です。しかし、イエス様の思いは、神様のみ心なのです。イエス様の行いも神様の思いなのです。だからわたしたちは宣言します。イエス様は神様の言葉が人となってわたしたちの間に宿られたのです。
イエス様は言であると言います。言は言葉なのですか。語る言葉、文字にあらわされる言葉ではありません。思いが言葉です。決心が言葉です。優しさ、温かさ、恵み思いやりが言葉です。心全体が、体全体が言葉です。存在が言葉です。イエス様は神様の存在です。言のうちに命がある。イエス様の存在が神様の命の在り方です。命は光。光は命の働き。暗闇を照らします。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられるのです。
いや、恵みと真理は律法が求めているものです。モーセに与えられた律法を完成するために恵みと真理が与えられるのではないでしょうか。神様を見た者はいない。多くの人たちが出会った方、その方と出会った人々の証言です。わたしたちはイエスのうちに神様の姿を見た。
今日、わたしたちはイエス様の誕生をお祝いします。イエス様に神様の姿を見るのです。
ここにいる何も出来ない子供が神様の姿なのですか。羊飼いたちはイエス様に神様の姿を見た。東洋の博士たちもこの子に会いに来た。献げものをささげながら、旅をして会いに来たのです。
幼児の顔はまさしくまことの顔です。その笑顔に心を洗われたらいい。イエス様の誕生を祝う心で自分の心が清くなりますように。
イエス様の誕生を祝います。イエス様の出発、そして、それが自分の出発となりますように。