年間第4主日B 申命記18・15-20 Ⅰコリント7・32-35 マルコ1・21-28 24-1-28
安息日にイエス様はカファルナウムの会堂で教え始められました。カファルナウムはガリラヤ湖の北のほとりにある町です。カファルナウムの会堂はエルサレムから遠く離れた田舎の会堂、ガリラヤ湖畔にある会堂です。しかし、安息日に多くの人が集まっている。安息日は共同体にとって大切な日です。イスラエルが不安な社会になっている、今日この頃、安息日の礼拝でより一層神様を求めている。より一層共同体の一致を求めるのです。
イエス様は、神様のみ心の温かさを語ります。自然の豊かさ、いのちの素晴らしさ、季節の実りを静かに語ります。人は自然の力のうちに生きている。神様によって造られた自然に支えられて生きている。それを感じとる心があったらいい。感謝を感じる心があったらいい。 イエスの話に、会堂にいる人たちは皆驚いたのです。今までの話は、聖書の勉強であった。この部分を覚えなさい。律法の勉強であった。律法をもっと知るように。そして、悔い改めの心を求められた。
礼拝の集まりは司式の先生たちから教えられる集まりだったのです。
イエス様の話は、律法学者のように話すのではなく、父さんが子供に話すように話される。父さんの言葉が子の心に入ってくる、子供の、わたしたちの心に入ってくる。わたしたちの心がその言葉を待っていたのです。その言葉で心がほのぼのとしてくる。皆は神様の心がイエス様を通して語っていると思ったのです。 会堂にいた皆はイエスの言葉に非常に驚いたのです。
皆は、会堂で静かに会話を聞いている。急に、汚れた霊に取りつかれている者が叫んだ。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。もう語らないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。あなたは神の聖者だ。」イエスは叱る。「黙れ、この人から出て行け。」汚れた霊はその人から出て行った。人々はその出来事を目の前で見た。わたしたちは、今、神様の力を見た。この方は権威ある教えを語る、行う。この人が汚れた霊に命じると汚れた霊はその言うことを聞く。 権威ある新しい教えだ。その方は汚れた霊に命じる力を持っている。汚れた霊を超える力を持っている。
今日、「世界子供助け合いの日」の主日です。
「大人の責任」 子供を育てる、これこそ大人の責任です。子供は何も出来ない。幼児、子供はお父さん、お母さんにべったりです。それが幸せなのでしょうか。家庭に温かさがある。我儘な自分がいる。子は自分に必要な物をいつも親に求めている。お母さん、お父さんがその子に必要なもの与えられたらいい。与える知恵、親の責任です。
学力がついてきた。何も出来ない自分を見つめていると思います。それは、何か出来るものを探す時期だからです。この時、わたしたちは、子供は社会にとっての一人と考えてはいないでしょうか。社会を作ってゆく一人ではなく、世界を作ってゆく一人の目を与えられたらいいと思うのです。
何も出来ない一人の若い学生に大きな目を与えることが出来ればいいのです。
苦労している人がいる。父さん母さんがいない人がいる。体の不自由な人がいる。
多くの人と出会うことが出来ればいいと思います。
優しい言葉のうちに力がある。語るより聞く。心で人と対応する。語るとは心を開くことだと思います。
イエス様が神様を語られた。人の心に入っていった。心からの思いで語られたと思います。