四旬節第1主日B 創世記9・8-15 Ⅰペトロ3・18-22 マルコ1・12-15 24-2-18
創世記、天地創造の水の部分を読みました。
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。第2日です。天の水は雨となって地を潤し、地の水は泉となって、井戸となって地上に木が茂り、人、動物を助けます。
神様は人を造られた。愛し、命を与え、この世に住むものとされた。子供たちが「やんちゃな」、「いたずらな」時は過ぎ去ったのです。子供たちが大人になった。「やんちゃな」「いたずらな」出来事が罪となってゆく。罪、自分が得をしようとして「ずる」をする。ごまかす、盗む、抑圧する、暴力を使う、権力を握る。神様は決心します。わたしが造ったすべての生き物を地の面から拭い去ろう。
神様は天から激しい雨を送り、地を水で拭い去ったのです。ノアの家族が神様の目に留まった。
ノアは山の中で大きな箱舟を作った。何日も何日もかかって箱舟を作った。それを見ていた人たちは言う。何で舟を山の高いところで造るのだ。食べ物はたくさんある、飲み物もたくさんある。
ノアは言う。「この地上に雨が降る。神様はそう言われる。」皆はその話を聞こうともしない。手伝いもしない。洪水が起こった。命の水が洪水となった。滅ぼす水となったのです。
お歩む。
ペトロの手紙でペトロは言います。この箱舟に乗り込んだ8人だけが水の中を通って救われました。箱舟が教会、水が洗礼。そういわれる。 えっ、洗礼って何ですか。
洗礼とは、イエスを見つめることです。イエスの姿を見る。イエスの姿の中に入る。イエスの道を歩む。 ペトロは言います。ノアの箱舟の時代、ノアが箱舟を作っている間、なぜ、山の中腹で舟を作っているのか、何を馬鹿なことをしているのかと、手伝いもせず、酒を飲みながら理屈を言い、遊んでいた者たちに洗礼を授けたいのです。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」 これをこのように考えました。「今、自分に取りついている肉の汚れを取り除くこと」をしなければいけないと思う事ではなく、今、周りにある出来事を見据えて、何をしなければいけないかを見る、何を手助け出来るかを知ることです。人とのつながりを見るのです。
イエスはヨルダン川で洗礼を受けました。洗礼を受けるとイエスの心と体に聖霊が満ち溢れたのです。その時、霊は言います。「あなたは荒れ野に行きなさい。」「洗礼を受けた、神様のものとなった。何故荒れ野に行くのですか。」「あなたは人として、人の中に生きる。あなたは、人は何であるかを知らない。」「わたしは人をよく知っています。人の心を受け取ることが出来ます。人の小ささ、弱さを知っています。」「いや、あなたは人の小ささ、人の弱さが何であるかを頭の中で、心の中で知っているように思っている。人は、その弱さ、小ささを『うっとうしい』と思っているその思いを知らない。あなたは恐怖を知らない。高いところから飛び降りる、その怖さを知らない。骨が折れる、肉が避ける苦痛です。人をあなたの体で知りなさい。荒れ野が、生きる人を知る場所です。」
洗礼は、「洗礼の道」を歩く出発です。祈りを十分にすることではない。聖書を深く読むことではない。隣人を友とすることです。そして、あなたの体が苦しむことです。