四旬節第4主日B 歴代誌下36・14-16,19-23 エフェソ2・4-10 ヨハネ3・14-21 24-3-10
わたしたちは今、むしろ、貧しい生活を送っている。物が余っていると言われる。スパーマーケットに行けば様々な食べものが並んでいる。今はもう当たり前、しかし、驚いてしまうのだけれど、バナナが安い、パイナップルがその姿のまま並んでいる。どうやって食べるのか分からない物がたくさん並んでいるのです。豊かではないですか。いや、考えて買います。安く、選んで買います。
一方では、この間テレビを見ていましたが、東京のマンションの値段が、一億何千万円だと言うのです。売り切れだと言うのです。 わたしたちは自分の生活を送ります。そして、思い起こすのです。社会に押しつぶされている人たちに、わたしたちは何が出来るだろうか。家庭の温かさが消えてしまっているように見える。年寄りが、家庭にいても、のんびりと、ゆったりと過ごせない。夕食を家庭のみんなで食べられないのが普通になっているように思うのです。社会のスピードにみんなが追い立てられているのかな。便利になってきた。便利さが人をものぐさにしてしまっている。努力してやった、苦労してできた、そんな喜びが消えてしまった。 人は何とつながって平安を得るのだろうか。欲求とつながるばかりではないのでしょうか。押しつぶされている、ちょっと苦しい生活を送っているわたしたちはキリストに出会ったのです。 キリストは言われます。「あなたたちは、苦しいから慰めをもらう、不自由だから助けをもらう。あなたたちは自分の便利さだけを求めているのではないですか。あなたも人を助けする者になりなさい。」「何をするのですか?」「人と出会い、その人の話を聞くのです。一緒に時を過ごす。まったく聞く者になるのです。お互い和やかになったらいい。一緒に笑えたらいい。一緒に時を過ごす。これが愛の一歩ではないでしょうか。」
神様はキリストによってわたしたちに慈しみを示されました。
働かなければ、人とつながらなければ、生きる喜びは生まれません。生きている安心は生まれないと思うのです。わたしたちは神にかたどって造られた。(創世記1・26-27) わたしたちはキリストであるイエスに似せて造られたのではありませんか。 キリストの道を歩みます。わたしたちも善を行って歩むのです。
モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。
荒れ野はわたしたちの社会、蛇は社会の中にうごめく力強い欲望、権力、歴史的な伝統を持つ宗教の力。モーセが、今の社会に巣くって悪を行っている力を旗竿に掲げたのです。神様は人の子十字架につけ見世物としたのです。十字架のイエスを見なさい。見続けなさい。 そして問います。イエスは何をしたのですか。自分の力で社会を変える強い力、欲望を持っていたのですか。イエスの思い、行いは社会にとって何だったのですか。どんな悪だったのですか。そして、イエスを十字架にかけたのはどんな力ですか。 御子を十字架にかけた。それは人の仕業です。世の力が神様を裁いた。人が神様を十字架にかけた。人は強い力を持っている、神様を超える力を持っている。見える物は全部、人が支配することが出来る。王様、国の支配者はそれを宣言するのです。神様は、それを人に知らせたかったのではないでしょうか。十字架につけられたイエスを見つめなさい=イエスの前にいる自分を見つめなさい。 神様は世に光を送られた。人は光が見えなかった。光を見なさい。光を見るために今の生活をやめなさい。この世の考え、行いを変えて行く。今のあなたをやめるのです。社会で力ある者は光より、暗闇を選んだ。悪を行う者は光を憎んだ。光を消せ。
神様に出会った人は光の方へ行きます。