四旬節第3主日B 出エジプト20・1-17 Ⅰコリント1・22-25 ヨハネ2・13-25 24-3-3
新しい年を迎えて、もう3月に入ってしまいました。新しい年が出発の時、信仰の道をしっかり、1歩ずつ歩もうと思って、ついに3月に入ってしまう。あなたにとって教会とは何ですか。神様のみ言葉は何ですか。生きるとは何ですか。今日、神様は言われます。ゆっくり、静かに考えよう。
神様は言われます。わたしは神、あなたの主、あなたを奴隷の家から導き出した神である。
わたしは昔、洗礼を受ける前、思っていました。神様という方は人を支配する方。見えない方、考えられない程の力を持ち、すべてを自分の思い通りにする方だと思っていました。洗礼を受け、聖書を読んで、また教えられて知りました。神様は見えるもの、見えないもの、すべてを造られた方。最後に人を造られたと知ったのです。 今日、神様はわたしたちに告げられます。
わたしは主。あなたの神である。あなたに命を与え、あなた生んだ。わたしはあなたを包んでいる。
あなたは生きる。わたしのもとに生きるのです。たとえどんな力を持っていても、どんな能力を持っていても、何者であっても、その支配のもとにあってはならない。わたしをおいてほかに神があってはならない。 体に不自由がある。能力がない。体力がない。助けがなければ生きられない。そのわたしもほかの人と対等なのですか。 あなたの命はわたしが与えた命です。命の尊さは皆同じです。人の能力の価値を決めるのは神であるわたしではない。人が人の能力の価値を決めている。
わたしたちは価値を決める人の支配下にいることになるのではないでしょうか。だから言うのです。人の支配下にあってはいけない。わたしのうちに生きなさい。どんな人もわたしに勝るものはない。
わたしたちは人の前では全く自由です。神様のうちに生きるのです。
主は十戒の掟を語られました。今日は、第1戒を話ました
過越祭が近づいています。イエスは神殿に向かいます。神殿の境内に入りました。大勢の人たちが歩いている。「ささげもの」、「いけにえ」の買い物客のにぎやかさだ。なんと、神殿の境内のにぎやかさは買い物客によるにぎやかさでしかないのか。イエスは心寂しくなった。虚しさが心を打つ。
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出した。両替人の金をまき散らし、台をひっくり返したのです。いきなりの騒動が起こった。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」「あなたがこのようなことをする権威はどこから来るのですか。どんなしるしをわたしたちに見せてくれるのですか。」これを行った人が誰であるか、イエス家であるとすぐにわかりました。イエスは神殿の境内を荒らした。皆は求めます。それだけ大きなしるしを見せてくれ。 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
イエスはわたしたちのために言っているのです。あなたの教会はあなたにとって何ですか。
教会に来る。何のために教会に来るのですか。 ミサにあずかる。ミサの中で祈る。ご聖体を受ける。祈る。み言葉を聞く。 清められます。この世の恵みを受けます。自分の世界の出来事だったら、それは信心です。信心は信仰ではありません。
信仰の道を歩む。教会が祈りで満たされる。イエスのみ言葉のうちに生きる。それがわたしたちの約束ではないでしょうか。教会が隣人のために働くものになる。信心が信仰となる。教会が新しい力に満たされる。まことの供え物は「人のために働く心」ではないでしょうか。
わたしたちは奴隷の家から導き出されたもの、神様の道を歩むものです。