Paris


        ステファノ・ボナベントゥラ 加藤 英雄 神父
  • 東京教区での加藤英雄師の略歴

    • 司祭叙階     1989年2月26日
    • 西千葉教会助任    1989年3月~1992年4月
    • 関口教会助任     1992年4月~1994年4月
    • 秋津教会主任     1994年4月~1999年4月
    • 鴨川教会主任     1999年4月~2005年4月
    • 高幡教会主任     2005年4月~2011年4月
    • 本所教会主任     2011年4月~2017年4月
    • 木更津教会主任    2017年4月~
    •      
        

  •              
  •                
    主日の説教  
    • 年間第29主日C  出エジプト178-13 テモテ314-42 ルカ181-8       19-10-20   

        「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」  

      一人のやもめがいました。神様、裁いてください。こんな苦しみを与える人を、神様は許すはずがない。正しく裁いてください。やもめは執拗に、必死に、絶えることなく祈り求めます。ついに恵みが与えられた。わたしが受けたこの恵みを、わたしだけのものではなく、隣人のために使います。そして、自分の力によって自分を豊かにしようとしているその人に、恵みの豊かさを教えてください。あなたも神様の力、支えの中に生きているのですと知ったらいい。

      あなたは力がある、知識もある、物も持っている。あなたには隣人を支える大きな力がある。人を支える素晴らしさを味わったらいい。自分が支えられて、豊かに生きているように、わたしがあなたを支える力となる。支え合って心が豊かになる。

       

      そのお方は人を支えるために、恵みの尊さを知らせるために、命の大切さを知らせるために、愛の重さを知らせるために、ご自分の命を捨て去りました。神様への献げものとなさいました。

      自分が苦しんだのは、いや、苦しみを受ける道を選んだのは、苦しみを逃げてはいけなかったからです。その人たちが生き生きと生きるために、自分たちも愛されている事を知らせるために、あなたたちも神様の命が与えられている事を知らせるために、人の子イエスは十字架の上で苦しみながら命を失う刑が下されたのです。

      その夜、捕らえられ、ヘロデの屋敷、ポンティオピラトの屋敷と連れ回されました。そして、ローマの判決。十字架につけよ。ユダヤの信仰の仲間の判決ではない。ユダヤからローマに渡された。仲間から外され、ローマに引き渡されたのです。そして、血が流れるほど、背中を鞭で打たれました。十字架を担いで人々の中を、人々の前を歩かされ、ゴルゴタに着きました。そのお方イエスは十字架の上で苦しみながらいのちを取られました。

      気を落とさず絶えず祈られた方は、そうだ、イエス様ではないですか。

       

      詩編を輪読する会がありました。指導神父さんは休憩を取って、有志と一緒に体の不自由な人たちの施設に行きました。一人一人を見舞います。こんにちは、会いに来ました。静かに会話する。ある人は車椅子のおじさん、その人が言います。口ごもりながら言います。その人は全身が動かない。わたしは神様に出会ったと思った。しかし、この病気は治らない。なぜ俺だけがこんなに苦しいのか。癒される恵みは俺には来ないのか。神様はいるのだろう?わたしを見てくれているのか。その神父さんは黙って聞いていた。そして静かに祈り始めた。

      「アベ・マリア 恵みに満ちた方。……

       

      気を落とさずに祈り続けなければならない。 

      わたしはあなたの友。あなたと深く結ばれたい。あなたはわたしを求めて祈っている。求める、求める、ずっと求めた。わたしの心はあなたのもとに入る。わたしの中に生きなさい。

       

      祈り果てた時、神様が見える。今のわたしが幸い。祈ることが出来た。祈ることを知った。祈り疲れる程、何回も祈った。今、いろいろな人たちに支えられている。特にわたしは支えられている。助けながら食事をする。助けられながら排便する。全部支えられている。感謝。わたしのまわりは感謝でいっぱい。神様の恵が見えた。まわりの人たちが見えた。感謝が生まれた。

       

    • 年間第28主日C  列王記下514-17 テモテ28-13 ルカ1711-19       19-10-13 

        重い皮膚病はつい最近まで特別な病気でした。そのために施設がありました。特別という言い方は良くないと法律が変えられました。その人たちは無残な姿になっています。近寄ろうとも思わない。以前に話しましたが、毎月一度、その施設にミサに行きました。その人たちと仲間になる。一緒にお茶を飲む。話し合いがある。抱き合ったりします。

       

      重い皮膚病の人たちの心、村の人々の心、そしてイエスの心を思い巡らしたいと思います。

      イエス様の時代、その人が重い皮膚病を患った時、祭司のところに連れて行かれます。祭司は調査をして、「あなたは汚れている」と言い渡すのです。律法は言います。その人は一人宿営の外に住まわなければならない。(レビ1345) 社会生活が出来ない。宿営の外に住む、食べ物は親子が用意し、場所を決めて、毎食、持って行くのです。触れてはいけない、病気がうつってはいけない。別な世界にいなさい。人は皆言います。あの人は神様から罰せられているんだと。近寄ってはいけない。

       

      ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎えている。遠くに立って叫んでいる。

      父さん、母さんに聞いたのです。イエス様という力のある預言者が、何日、何時ごろ、この村に来られる。その方は病気を癒す力を持っている。悪霊を追い出す力を持っている。 

      その日、その時が来た。村に入る。集まって待っている。村に入る時、重い皮膚病の人たちは「わたしは汚れている者です」と言いながら歩かなければいけない。それを聞くと、それを見ると、人たちは皆よけて行くのです。

       

      「イエス様、先生、わたしたちを憐れんでください」声を張り上げ、叫ぶ。

      イエスは重い皮膚病にかかっている人のところへ行く、その人たちを見つめる。心を見つめる。一人一人の頭に手を置いたと思います。そして言います。「祭司たちのところに行って体を見せなさい」

       

      彼らは祭司のところへ行く途中で、自分の体が清くなったと感じた。癒された。心が弾んだ。喜んで祭司のところへ行く。その中の一人は自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

       

      「十人皆が清くされたのではなかったか。このサマリア人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」イエスはサマリア人に言われる。「あなたの信仰があなたを救った。」

       

      サマリア人とユダヤ人は対立していたのです。サマリアはユダヤの支配下にはない。サマリア聖書を作成した。我々は我々の神殿を建造する。ゲルジムに神殿を建造した。エルサレムにある神殿に礼拝してはならない。

       

      清くなったサマリア人は、この喜びを感謝を込めて現わしたい。イエスと出会って心と体が清められた。神様と出会った。イエス様と一緒に神様をほめたたえたいと思ったのです。

      イエスは言われます。あなたは体を癒された。それ以上に、心が癒された。

      サマリア人はサマリアの司祭のもとに向かう。そして社会に復帰する。神様への道を歩きなさい。

       

      ついこの間、葬儀をしました。悲しみのうちに一緒に生きた喜びを思い巡らします。天の国に行かれた。それを信じます。ついこの間、ある方の7回忌の追悼ミサをしました。天の国で生きている。昨日一日、今日、明け方に至るまで、力ある台風が襲いました。台風で苦しんでいる。もうこの家には住めない。こんな苦しみはもう嫌だ。 そうです、全く始めから出発したらいい。

    • 年間第27主日C   ハバクク12-321-4 テモテ16-813-14 ルカ175-10  19-10-6

        使徒たちがイエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください」

      弟子たちはイエスと一緒に生活している。いつもイエスと共にいる。イエスの話を聞いている。イエスの業を目の前に見ている。イエスと一緒にいることが感動を与える。しかし、イエスと一緒に歩いている、その重さがない。イエスの中に入れない、そんな心持ちがあるように思います。イエスの信仰の道に入りたい。信仰がわたしたちのうちに芽生えますように。本当の信仰の道を歩みたい。

       

      信仰とは、自分の内から外に出て人と接することです。自分の信心を現すのです。信心が深ければ深いほど、あなた自身が大きな信仰の力となります。深い祈りの生活を送りたい。聖書を読みたい。 信仰とは愛の行いです。神様から、あなたには愛する人がいますか、と問われています。隣人をあなた自身のように愛しなさい。これが、わたしからあなたたちに与えている新しい掟です。

      その人を大切にする。その人の生きる命を大切にする。その人の求めていることに対応することです。信仰、求めている人に受け入れてもらえること。自慢げに、偉ぶっていては受け入れてもらえない。自分の行いが、その人の負担にならないようになったらいい。その行いが自分の喜びとなったらいい。その行いが損になったらいい。出来ている事を自慢しない。 信仰の道はそんなにも難しいのですか。

       

      なぜ信仰の道を歩むのですか。 あなたが今生きている。今あなたに必要なものは全部与えられているからです。あなたが生きているのは、知らないうちにそれほどまでに支えられているからです。支えられている、今から支えるものになりなさい。

       

      聖書を読む。心で聖書を読んでほしい。わたしは聖書を読んでいるあなたの前にいる。聖書の書き記す出来事の中で、あなたはわたしを囲む人々の中にいる。聖書の中でわたしと出会っている。わたしの心を感じてほしい。わたしの憐れみを心に受け取ってほしい。

       

      ご聖体をいただく。神様がわたしの中に入ってくる。ご聖体をいただけばいただくほど、心と体がイエスのものになってゆく。少しずつ神様のものになってゆく。わたしの心を知ってほしい、わたしの業の思いを知ってほしい。知ってほしい:心と体全体で受け取ってほしい。

       

      信仰の道:自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。

      イエスがそう語られる。それが本当の事でしょう。

      神様、からし種の信仰から、出発させててください。

       

      人のために何かをやって行きたいという目標があったらいいと思います。ほんの小さなことでもいい。神様を知った時、イエスの生活の姿を知った時、イエスの道を歩みたいと思った時、神様の道具となったらいい。ずっとよい事を続けて行きたい。

       

      小さいけれど、今日、善い事が出来た。

    • 年間第26主日C  アモス6‐1a 4-7テモテ611-16、ルカ1619-31      19-9-29     

        イエスはお金持ちと貧しい者ラザロのたとえを語ります。

      わたしは神様を信じています。典礼に欠席したことはありません。エルサレムに住んでいます。祈っています。律法を大切にしています。この人はお金持ちです。

       

      この人の屋敷の前にラザロという貧しい青年が横たわっています。全身にできものができ、犬ができものを舐めに来ます。食べる物がない。金持ちの食卓から落ちるものでもいい、食べたい。

       

      このお金持ちはひどい人だと思います。その人は紫の衣、柔らかい麻布を着ている。たびたび宴会を催し小羊、子牛を食卓に盛っている。高級なお酒を飲む、毎日贅沢に遊び暮らしている。この人は特別な金持ちかも知れません。 しかし、わたしたちもちょっとそんな願いを持っているかも知れないと思うのです。見栄えのいい一軒家に住みたい。ちょっと色遣いの気に入った服を着てみたい。

       

      わたしが若い頃、一人でセールス、会社に飛び込んで物を売る、そんな事をしようと思ったことがあります。その時、ちょっとお金がかかりますけれど、コーデロイのスーツを買いました。黄色の下地のしゃれたネクタイです。セールスマンが来た時、服装を見る。品の良い服装に人の良さが見えるのではないかと思ったのです。

      服装に気を使う、食べ物に気を使う、わたしたちの日常の生活ではないかと思うのです。自分の生活がお金持ちの世界に入っていないかそれを考えたいと思います。

      お金持ちの生活を送っていると目の前のラザロの生活が見えないのではないかと思います。

       

      ある青年と親しく話すようになりました。その青年には信仰はないのですが、偶然、度々会うのです。何回か会ううちに話をするようになる。その青年は仕事がない。仕事を辞めた。捜している。今まで34回仕事をやめ、仕事探し、働いている。しばらくして、青年は言います。バスの運転手になりたいから、免許の講習に行っている。大きな会社に就職したい。ある日、免許を取り、就職できた。しばらくして、また問題が起こったという。人間関係がうまく行かない。年をとって新規採用。上手に出来ない。そしてその会社をやめてしまった。ある時、電話があり、お金を借りたいという。3000円ぐらい。そうか、こっちに来なよ。3000円を貸した。ややあってから、また電話があった。お金を借りたい。いくら。3000円。来なよ。3000円貸した。そして言う。もうお金の貸し借りはやめよう。今度は貸さないよ。だいぶ経ってから、アパートの契約が切れる。継続にお金がかかる。今持っているだけでは、足りないから金を貸してくれ。心を鬼にして、駄目だよ。金はもう貸さない。何言ってんだよ。あんたは神父じゃないか。困っているのに貸さないのか。それから、教会の悪口を言い始めたのです。じゃあな、と言ってしばらくして、話している途中電話を切ったのです。何度か電話があった。悪口を聞いた。 新しい赴任地に来たが、たまに、電話があった。もう電話はしない。今は全く縁が切れた。

       

      ふと、この青年もわたしの目の前にいたラザロではないかと思ったのです。このラザロは悪いラザロに見えました。この青年は自分にとって荷物でしかない。普通に接した。神様の事など話さない。求めても求めても手に入らないから、悪口を言う。言いたい放題怒鳴り散らす。疲れるから行き愛は止めた。もう、あなたはわたしの友達ではない。ラザロの心を見ようとはしなかった。見たくなかった。自分の心の中に入れて、考えようとはしなかった。その者と同じだった。怒り、優しさ、自分の世界。自分の思いの中に生きている。金持ちの世界だったと思うのです。

       

      間に話したと思うのですが、父さん、母さんと一緒に生活出来ない子供たちの施設があります。その施設とかかわりがありました。8月の始め、その子供たちが興津海水浴場で合宿があると聞いて、車でその家まで行きました。鴨川から戻るようになる所です。ナビゲータでは2時間ぐらいとの案内です。道に迷い3時間と少しかかりました。車がその家の前につくと、ちょっと離れた所にいた青年が急に家に入りました。合宿の青年だと思いながら、家に入りました。その青年は高校2年生でした。明るい青年です。海を眺め、青年たちを眺め、夏の日を飲んびり過ごし、お昼を一緒に食べました。 その青年たちの心にある苦しさを知っている。施設の中では自由に生きている。就職する。社会の中で人生が始まる。自分を見つめる。父さん、母さんを見つめる。社会を見つめる。そのような生活を知っていながら、青年たちの事を20数年思いもしなかった。ラザロを見ていなかったんだと思ったのです。 その青年に手紙を書こうと思います。

       

      お金持ちの生活になっていませんか。ラザロが見えていますか。

      キリストの言葉に心の耳を傾けていなければ、何も見えない。

      まことのいのちは何か考えない。

      まことの愛は何か、まことの父、母は何か、

      まことのつながりは何か考えない。

    • 年間第25主日C   アモス84-7 テモテ21-8 ルカ161-13         19-9-22

        「不正にまみれた富について忠実でなければ、誰があなたがたに本当に価値のあるものを任せるだろうか。」

       

      不正にまみれた富に忠実になるのですか。神様は正しいものでありなさいと言われているのではないですか。不正を退けなさいと教えられている。第一朗読アモス書はお金を儲けようとしている商人を非難しています。律法によれば新月祭、安息日に商売をしてはいけない。穀物を売りたい、麦を売りつくしたい。早く新月祭、安息日が過ぎ去ればよい。偽りの天秤を使っても、もっと利益を得たい。お金の力で弱い者、貧しいものを安く買い取ろう。 主はこの時言われているではありませんか。「わたしは、彼らの行ったすべての事をいつまでも忘れない。」

       

      不正にまみれた富に忠実になりなさい。イエス様、あなたの教えられることがよく分かりません。

       

      神学生の時、神父さんに質問したことがあります。もう40年ぐらい前の事です。日本は経済大国になっています。しかし、今も、もっと経済的に大きくしようとしている。日本の企業は儲けることを第一にしています。働きなさい、働きなさい。わたしが働いていたころ、もう50年も前になりますが、土曜日も1日の労働でした。残業が1か月50時間ぐらいは当たり前でした。わたしの勤めていた会社は、残業50時間以上の賃金は、その月に支払わない、翌月に回すというものでした。当時は残業は当たり前の社会でした。お酒を飲んで家に帰る。仕事をするのは自分の生活があるからというより、会社のために働いたのです。会社が利益を出す。生活を味わう、生きる喜びを味わう、それは仕事につながらないよ言われてしまいます。それを変えなければいけない。それが第一ではないですか。 神父さんはハンガリーの出身です。神父さんは言われました。言われたことを考えました。日本は経済的に豊かで、国として強い。お金を持っている。東ヨーロッパの国は貧しい。経済力がない、弱い国です。日本の人たちはお金がある。お金のある生活を考え、生活を変えたらいい。豊かさをどこに使っているか考えるのです。そのお金を発展途上国のために使ったらいい。援助を必要としている国のために使ったらいい。助ける者になったらいいのではないですか。 それが行われるようになったら、仕事のやり方も変わってくるのではないですか。会社も労働はわたしのためと命じている。会社員も自分の利益のために働いている。会社のために働いている、それが自分のためになっていると思っている。会社も、人の、労働は人が豊かになるためと言いう余裕がないのではないですか。

       

      「日通」と言いう大きな会社がありました。これももう50年ぐらい前の話ですが。その会社が利益を上げている。重役のボーナスに金の延べ棒が密かに支払われたという新聞記事が出ました。不正に得た利益で金延べ棒がもらえた。その時わたしは56回続く講座に出ていました。夜、サラリーマンが勉強するのです。その中の一人がその会社に勤めていた。その人は会社を辞めました。恥ずかしくてその会社に勤めてられないと言いました。

      その人は真面目に勤務していた。何も悪い事をしていない。

      リクルートという会社が大きな不正を起こした。社会問題になった。多くの社員が会社を辞めた。 あなたはその会社の中にいて、不正な事をしましたか。

       

      少し前の日本は経済でアジアを侵略していると非難がありました。わたしたちは豊かな生活を味わっている。悪いことにかかわっている。でも、何も出来ない。

       

      不正な富でむしろ良い事を行いなさいと教えられたと思うのです。今、働いているところで正直に働くのです。心を込めて仕事をする。喜ぶ仕事ができればいい。仕事を愛する。隣人を愛する。

      神様の前に善い事を行って行きたいと思います。

       

    • 年間第24主日C   出エジプト327-1113-14 テモテ112-17  ルカ151-10   19-9-15

        イスラエル、わたしはこの民を選んだ。イスラエル:神を知る者。神を求める者、神に従う者。神のみ心を告げ知らせる者。それなのにイスラエル、今、あなたはかたくなにわたしを見ようとしない。わたしの言葉を聞こうとしない。あなたがたは、まことにイスラエルなのか。

       

      神様はわたしたちに言われます。あなたはキリストに出会ったのではないか。キリストに神様に姿を見たのではないか。キリストこそ神様の姿。キリストは神。そして、キリストに従う約束をした。洗礼を受けた。洗礼の道を歩きなさい。その道は神の国への道。細い、石だらけの道です。荷物を背負って、キリストに従って歩く。まことにキリストの道を歩いていますか。

       

      百匹の羊がいる。そのうちの一匹がいなくなった。九十九匹は皆、優等生。牧者・先生の教えを守る。静かに暮らしている。一匹はその枠のうちにいるのがたまらなく嫌になっている。ついて行けない。一緒にいたくない。九十九匹は一匹を見ようとしない。いなくなっているのも気づかない。仲の良い者どうし付き合っている、仲良く話している。 

      善い牧者は九十九匹のその心を悲しんでいた。一匹は九十九匹から離れた。九十九匹は一匹を見捨てた。自分たちに合わないものを仲間に入れない。九十九匹は自分たちはまことに優等生だと思っているのか。一匹を見捨ている、それに気づかない。お互い知る者となりなさい。

       

      徴税人、罪人がイエスのところに集まってくる。イエスは徴税人の仲間なのか、罪人の仲間なのか。それどころか、徴税人、罪人と一緒に食事までしている。食事までする深いつながりを持っている。イエスは自分のもとに集まってくる徴税人、罪人を排除しないのです。徴税人、罪人の苦しみ、悲しみ、悩みを聞きます。拒まないで聞きます。一緒に会食をする。彼らも神の国の喜びを味わうのです。もし、イエスを心で受け入れなければその人はイエスから去って行きます。厳しい事を思い、示しているイエスはわたしたちを拒まない。優しさのうちに、柔らかさのうちに、温かさのうちに厳しさを示している。

       

      ある家族の内、一人が、次男の足が不自由でした。不自由なまま生まれた。小さい頃は兄弟、姉妹一緒に遊んだ。誰も、お前は足が悪いから一緒に遊べないとは言わない。そんな事は思いつかない。兄弟だから助け合って過ごす。次男は自分がみんなと違うなど思わない。父さんも母さんもそんなことは指摘しない。小学校に入る。ある時、「びっこ」と呼ばれた。足が動かない事が悪い事だと知った。心に石が投げ込まれたように思った。「母さん、僕はなぜ生まれつきびっこなの。」

      「お前の体がびっこ。神様の考えが何かあると思います。」「僕はこんなの嫌だ。皆と一緒の方がいい。」  少年は高校生になった。自分の世界を造っていった。ますます本を読んだ。ますます音楽を聞いた。ますます絵画を見た。自分の世界が大きくなって行く。それを楽しんだ。

       

      ある日、障害の授業を聞いた。障害と言うのは心、体が不自由だという意味です。障害がある。障害がある分不自由です。障害の人たちを応援しなければいけません。社会は障害者に対して配慮しなければなりません。先生のそんな話を聞いた。

       

      ついに青年は自分の持っている不満を神父さんに話したのです。障害者は普通の人に見られていない。弱いものなのですか。神様は人に、僕に障害を与えられた。これは何なのですか。神様はそんな悲しい出来事を造られるのですか。

      神父さんは言います。今君は高校生。受験戦争、受験の競争の中にいるんだね。この世の競争だ。優秀なものがよい。人よりも優秀になりたい。よい能力を努力してもっと伸ばす。悪いところを努力して直す。それは善いように見える。でも、わたしたちの考えは少し違う。知識を得て偉くなるのかな。音楽をよく聴いて、音楽を知っている、絵画をたくさん鑑賞して、絵の世界を知るようになる。あの人は何でも知っている。その人は何を目指しているのだろうか。この社会の中で偉くなりたいのではないかな。能力があれば高い賃金で雇ってもらえる。課長、部長、上司になれる。努力して、ぶつかりあうのではないかな。 そんな社会じゃ障害は力不足になる。戦えば負ける。障害は損するね。 わたしたちはイエス様と出会った。神様と出会った。神様の思いを聞いたらいい。皆が喜びを味わう世界を造いなさいと言われる。子供の時、障害なんて思わなかった。兄弟、姉妹が一緒になって遊んだ。今、大人になっても皆が兄弟になればいい。出会った人が皆兄弟になれたらいい。兄弟が障害者。兄ちゃんが足が悪い、助けるのは当たり前だ。姉ちゃんの耳が聞こえない。助けるのは当たり前だよ。だって兄弟だもの。君は、足が悪い。子供の頃、当たり前に助けられていた。助ける、助けられる。当たり前。その心がみんなにあったらいい。

       

      能力がある。力がある。大いに働く。その人は能力があるから、力があるから、体の不自由な人のために働ける。体の不自由な人、隣人のために働ける。体が不自由で何も出来ない。感謝を心であらわしなさい。人のために祈りなさい。大いに祈りなさい。これこそ一番大きな働きです。心も体も不自由で何も出来ない。その人が目の前にいる。その人のために祈ったらいい。その人のために世話をしてあげられたらいい。その人は何も出来ない。しかし、その人は神様から命を与えられた。役に立たないからといって命を奪うことは出来ない。

       

      障害者はこれからの世を造って行くしるしだと思う。人のために働く。自分の心の豊かさがそこにある。皆が、生きている自分に何が出来るか考えたらいい。

       

    • 年間第23主日C  知恵913-18 フィレモン9b-10,12-17  ルカ1425-33    19-9-8

        神様のみ旨を知る者がいるでしょうか。神様のみ心を悟るものがいるでしょうか。 (人が生まれる時、神様は一番大切のものを人にお与えになります。生きたい心、ありがとうの心です。)

       

      疑問が起こった時、わたしたちはその場、その時、神様に向かって問うのです。神様のみ心は何ですか。わたしたちは何で造られたのですか。しかし、神様の、深いどこまでも深い、神様のみ心を知ることは出来ません。

      丁度、わたしたちが命の何であるかを知ることが出来ないように。わたしたちの考えはいつも完全ではありません。不十分です。 

      わたしたちは体によって、わたしたちの心を現わします。今、わたしたちは体を大切にするあまり、心の純粋さを失っているように思います。わたしたちは体によって悩んでいるように思います。

      しかし、体を大切にする薬がいかに多いかを知りました。顔のしわを伸ばす薬、顔のシミを見えなくする薬がある。便秘の薬もあるのです。その薬を飲んだらどさっと出る。婦人からそんな言葉を聞きたくないと思ってしまいました。若さを保つ薬がある。今まで通り食べても太らない薬があります。以前と以後の姿を見せるのです。

      体によってわたしたちは自分を現します。人との付き合いで、聖なる教会の中にあっても、まことの神様のみことばを忘れてしまうこともあります。

       

      教会の事であっても真面目過ぎるのは問題だな

       

      わたしたちは地上の事で精一杯です。地上の事で精一杯なら、天上の事をどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。 神様が霊を送ってくださらなかったら、力づけてくださらなかったら、わたしたちは誰も神様を知ることは出来ません。神様、あなたはわたしたちにまことのしるしを送られました。その方はまことの命、まことの愛を示されました。その方は神様の思いを示されました。神様の憐れみを行われました。わたしたちに神様への道をまっすぐ歩くように示されたのです。

       

      心が神様のものになったらいい。体が心のままに動いたらいい。心と体が神様のものとなったらいい。心を空にしなさい。自分を捨てなさい。そうすれば体は神様のみ心のまま動く。

      愛は自分を捨てることです。自分の持っているものを与えることです。苦しんでいる隣人を見たら与えたくなってしまう。心から損をしなさい。

       

      福音書を読んで思いました。イエスは言われる。「この世のものを憎みなさい。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならわたしの弟子ではありえない。」

       

      神様は人の命を与えられ、この世に送られる。この世は神様の力に満ちている。人に必要なものはすべてこの世にある。この世にあるものを、必要なものを人は労働によって受け取る。自然によって人は満たされる。人によって人はどのように生きるかを知る。

      しかし、イエスは言われます。この世は今や、悪の誘惑に満ちている。欲求の戦いの場である。この世の悪の誘惑、欲求の場から離れ、わたしと共に歩きましょう。

      あなたは父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命が自分を支えるものとしているのではないですか。それは子供の世界です。子供は父、母、兄弟、姉妹の支えがなければ生きて行けない。支えとして必要です。なくてはならないものです。あなたも子供の時、周りにいる父さん、母さん、兄ちゃん、姉ちゃんを喜んだ。 

      しかし、あなたは社会を作って行く大人です。あなたは受け取るものではなく、与えるものなのです。

      今、あなたは自分の命を見つめる、そして、神様のいのちに生きる。あなたを支えてくれたものすべてに与えるものになるのではないですか。与えられるものではない、支えられるものではない、今から与えるものになる、支えるものになるのではないですか。父、母、自分だけを支えてくれる優しさ、思いやりを憎みなさい。自分だけ包まれている、特別であることをやめるのです。

      父、母、妻、子供、兄弟、姉妹にも与えるものになる。それが出来なければ、まことの愛はない。

      出会う人が求めているものを、生きるために必要なもののために働くのです。

      特別に思いやりのある人を造ってはいけない。 

      この世の中で計算して強いものに味方してはいけない。この世の利益から離れて、損するものになりなさい。目の前に、苦しんで求めている人がいたら与えたくなる。そんな損です。

       

      神様を見つめて、自分の持っているものをすべて捨ててわたしのもとに来なさい。

      その時、あなたは十字架につけられている。与えるものになる十字架です。

       

      信仰:イエスと一緒に歩くことではないでしょうか。

    • 年間第22主日C シラ317-1828-29 ヘブライ12-18-19,22-24a ルカ1417-14  19-9-1   

        安息日は神様を思い巡らす日です。日常の生活を離れて時を過ごす。一人で過ごす。家族と一緒に過ごす。心安らぐ日です、喜びに満たされる、すべてのものを感謝する日です。

       

      会食を設ける。きっとお金持ちです。会食は天の国の喜びにたとえられます。仲の良い人たちが集まって、食事を共にする。神様の造られたものを一緒に食べる。話をしながら、笑いながら、食べ物を味わいながら、時を過ごす。招きたい人と一緒の食事が出来る事は本当に嬉しい事です。しかし、食事を共にする基本は家族です。家族が家庭となる。父さんによって食べ物が用意され、母さんによって料理される。父さん、母さん、兄弟、姉妹が一緒になって食事をする。

      いつもお腹が空いていたわたしたち子供は食事が一番の楽しみでした。でも、キリスト教と違って食事中お喋りは出来なかった。喋ろうとすると、食べているのに、つまらない事をしゃべるな、とすぐ怒られた。

       

      また、同じたとえですが、あるイギリスの学生が講義を聞いた。イギリス、大英帝国は全世界にキリストの愛を知らせる大きな使命、希望がある。しかし、インドの生命観わたしたちと全くは違う。インドの人たちの貧困は命の問題だ。その青年はインドに行くために懸命にアルバイトした。インドに行って見たい。夏は過ぎ、秋が来た。青年はインド、コルカタ(カルカッタ)についた。ホテルからすぐに、町に出た。夕暮れであった。道路には寝転がっている人、座っている人がたくさんいる。町を歩く人たちは、その人たちには無関心で過ぎて行く。その人たちは食べる物もないという。青年は心が静まらない。その時、少女が寄って来た。食べ物をください。お金をください。どうしたんだ。わたしはもう2日も食べていません。少女は夏の服を着ている。汚れている。青年はポケットを捜す。これしかない。十分にならないかも知れないけど食べたらいい。けれど、あなたの今一番したいことは何ですか。わたしは一度でいいから、家族がみんな一緒に集まって食事がしたい。明るい食卓で、食べ物がたくさんあって、話ながら、笑いながら、お祈りをしながら、父さんと、母さんと、弟と、妹と、みんな一緒に集まってご飯を食べたい。心から笑いながら一緒に食事をしたい。

      青年はそれを聞いて心を打たれたのです。

       

      イエスが会食に招かれた。預言者イエスと一緒に食事がしたい。ほかの人も招かれています。

      イエス様、ここにお座りください。招いた人が勧める。ほかの人たちはそれぞれ自分の席を選んでいる。教会の人たちも同じだと思います。会食をするので部屋に入る。皆が、ここが上席だね、暗黙のうに了解し合うのです。皆が遠慮し合う。 ここは違う。上座に座れることを誇りに思うのでしょうか。社会に対する貢献度を自ら思い、その誇りを見て貰いたいと思っている。イエスは言われます。上座を気にする。この世の事ではないですか。この世で得をしたいのですか。その人を見る。心の目でその人の心を見たらいい。しかし、自慢しない人は嬉しい人ですね。

       

      一緒に食事をする。嬉しい事です。少年がイエスのところに来ました。僕はもう何日も食事をしていません。イエスは食事をしている弟子たちのところへ連れていった。話をしながら食べている。笑いながら食べている。パンがある。野菜がある。果物もでる。いつの間にか、皆のところに入っている。気兼ねがなくなっている。その少年はイエスと、イエスの皆と一緒に食事をしたことを決して忘れない。

       

      もし会食を催すことが出来るなら、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。その人たちは心がいっぱいになる、空腹が満たされると同じように、それ以上に心が満たされる。あなたも心に喜びが生まれます。それが本当の喜びです。
    • 年間第21主日C  イザヤ661821、ヘブライ125-711-13、ルカ1322-30      19-8-25  

        毎日の生活の中で苦しいことが起こる、悲しい事が起きる。また、何かの集まりの中でも、苦しい事を押し付けられることがある。悲しい事に出会う。真面目に生活しています。努力しています。ある人は嘆きます。貧しい生活がまだまだ続いている。 

      神様、わたしたちに恵みをお与えください。苦しみから遠ざけてください。悲しみに会わせないでください。 神様があなたたちを苦しめるために苦しみを与えていると思うのですか。悲しませるために悲しみを与えていると思うのですか。そうではない、ヘブライ書は言います。試練、鍛錬としてとして与えているのです。

       

      それ以上に、苦しみ、悲しみをわたしたちは知らなければならないと神様は考えておられると思います。ある時、自分たちの力では、自分の力ではどうしようもない苦しみの襲われる。それを受け留めなさい。逃げずに受け止める。自分たちの、自分の無力さを知る。 人間関係で苦しみが始まることがあります。挨拶も出来なくなった。その時から、静かな生活が出来なくなった。心の余裕がなくなった。また、自分の失敗によって莫大な借金を作ってしまった。責任を負わされる。何も出来ない。灯の消えてしまった家にいるようなものです。イライラだけが残る。

      また、人の力を越える出来事が起きる。大地震が起きた。家が壊れた。火災にあった。持ち物が一切なくなった。 苦しみがある。悲しみがある。そんな時、人の尊厳、命の尊さ、生きる意味が見えなくなってしまう。消えてしまう。

       

      そのすべての苦難を何を受け入れなさいと主は言われるのです。人がいかに小さいかを知るのです。何も出来ない、それを知るのです。辱められる。口もきいてもらえない。相手にされない。それを受け止められたらいいのです。自分の小ささを静かに知る。人の嘲りを静かに受けとめる。屈辱を受け止める。どんな出来事にも対応できる。何ものをも恐れない。器が大きくなるのだと思います。

       その時、神様のみ心を行うことが出来る。隣人と共に歩むことが出来るのだと思います。

       

      イエスに、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか。」と問う人がいる。

      イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るよう努めなさい。」

      救われたい:いつも安心がほしいと願っているのですか。危険から遠ざけてください。危険など来ないようにしてください。困難に出会った時、それを容易に解決できる力を与えてください。事故のない生活、すべてがうまく行く生活がしたい、それを求めているのですか。

       

      イエスはその思いを戒めておられるです。 救ってほしいと願えば、天から救いの力がその人に注がれ、平安が与えられる。自分のすべての罪が赦される。そんな事はありません。

      救いを求めるのなら、狭い戸口から入り歩き始めなさい。狭い戸口から始まる細い、石だらけの、茨が生えている道を歩く。そして、隣人のための荷物を背負って歩くのです。

      救いを求めているのに苦しむのですか。救いは苦しみなのですか。

      苦しみを知らなければ救いはない。苦しみを越えて喜びがあるのです。

       

      わたしは神様を知っています。毎日祈っています。寄付をしています。救いは与えられないのですか。神様は言われます。わたしはあなたを知らない。自分の思いのうちに祈っているのではないですか。寄付はあなたの生活の一部ですか。隣人を自分のように愛していますか。あなたの祈りは、あなたの隣人への思いは、わたしに届かない。

       

      静かに、狭い戸口から入り、隣人のために与えるものになりなさい。

      神の国の宴につきます。神様と楽しい、和やかな、心温まる食卓に着きます。

    • 年間第20主日C  エレミヤ384-68-10、ヘブライ121-4、ルカ1249-53     19-8-18

        イエスは言われます。わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。わたしはまことの平和をもたらす。地上が悪との戦いに燃えていなければ、平和は来ない。平和を求めるのなら分裂を知りなさい。家庭にさえ分裂が起こる。

      父は子と、子は父と、 母は娘と、娘は母と、 しゅうとめは嫁と、 嫁はしゅうとめと、 対立して別れる。 分裂を知り、分裂を超えて、分裂を飲み込んで平和を知る、平和を作り出すのです。

       

      神様はわたしたちを平和、平安に導かれるのではないですか。出来事が起こった時、おおらかさをもって、優しさをもって、穏やかさをもって、不安な出来事を見つめる。その出来事の中に入って行く。人と接する。そして、その人の考え方の違い、やり方の違いを受け入れようとするのではないですか。 イエスは言われます。自分たちを受け入れようとしないその人たちと平安に接することが出来ますか。父さんだから、母さんだから、表面従って来た。先生だから従って来た。従わせるのは社会の力だ。会社の上司だから、何も言えない。個人的なことにも入ってくる。

      自分が考えを持って来た時、おおらかさを持てますか、優しさを持てますか、穏やかさを持てますか、その人たちの考えを全部受け入れることが出来るでしょうか。

       

      争いを避けるために妥協しているだけではないですか。違いを見えるものにしなさい。違いを安心して受け入れるものとしなさい。

      (民族、国と国、文化、文明の違い、経済の違いを知っている。違っていい。誇りをもって生きる。経済によって生きるのではない。)

      安心して、お互いに、自由に考えを言えるつながりになりなさい。不満、不平を持っていては本当の大らかさではない、本当の優しさではない。本当の穏やかさではない。考えの違いをはっきり分かりやすくする。自分の求めることを口に出すことが出来る。それが平和ではないですか。相手の語らいたいことを聞く。それが平和です。

       

      今、自分が何のために働いているか。何を求めて働いているか。自分にかかわりのあるもの荷関心を持っているか。考えてほしいと思います。

       

      苦しみを受けることを、悲しみを受けることを恐れてはいけない。苦しみの中、足りないものを見出しなさい。悲しみの中に失ってしまったものを思い巡らしなさい。苦しむ自分がいる。悲しむ自分がいる。苦しみ、悲しみを受け取ります。そして大きな器になったらいい。

       

      小学生がお母さんに聞きました。 なぜ戦争はあるの。人を殺すのでしょう? お母さんは平然と言う。難しい問題ね。今度学校に行った時、先生に聞いてみるのがいいわ。そして、お母さんにも教えて。 戦争、平和は自分たちの問題ではないですか。子供の命、自分たちの命ではないですか。

       

      百匹の羊がいた。一匹がこんな暮らしは我慢できないと思っていた。ある時、土塀に穴があるのを見つけた。穴を通って外に出た。自由だ。歩き回った。喜んで歩き回った。日が暮れた。食べ物がない。落ち着いて寝るところがない。牧者は一生懸命一匹を探した。そして見つけた。喜んだ。皆と一緒に喜んだ。しかし牧者はその穴を知って、ふさごうとは思わなかった。

       

      ココナッツの木の上に猿がいる。ある男の人が通りかかった。木を見る。猿を見る。通り過ぎようとするその時、猿はその男に向かってココナッツを投げつけた。ココナッツはその男にぶつかった。男は倒れた。しばらくして起き上がり、頭を振りながら、ほほ笑んだ。ココナッツのを見つけ、中のミルクを飲んだ。実を食べた。殻でお面を作った。そして猿に向かって言う。何も気づかないわたしを気づかせてくれてありがとう。 イエスの平和とは何ですか。イエスの自由とは何ですか。イエスのつながり合うとは何ですか。 勇気をもって苦しみを受け取りたいと思います。
    • 年間第19主日C 知恵186-9、ヘブライ1128-19、ルカ1232-48   19-8-11

        「小さな群れよ、恐れるな。」

      イエスのまわりに大勢の人体が集まっています。あなたたちは力ある者ではない。あなたたちは、あなたたちを苦しめる者たち、力ある者たちを恐れなくてもよい。彼らはあなたたちの体を傷つけても、それ以上の何も出来ない。清さを奪ってしまう力、貧しさを嫌う力、命の尊さを知らない者たちと戦いなさい。

      豊作になったら、新しい倉を造らなければいけないなどと考えたりしない。あなたがたはそれなりに貧しい生活をしている。あなたたちが、もし、豊かな物に包まれている生活をしていたら、あなたたちは物の事に気を使い、力を使います。興味ある物、もっと豪華なものを求めるようになります。物によって自分の世界を造ってしまうのではないですか。

       

      あなたたちは小さく、弱い。小さい、弱い者であることを誇りに思いなさい。小さいが故に、弱いが故に神様のみ心が見える。小さいこと、弱い事の意味が分かる。小さくて生きる、弱くて生きる、神様の恵みを感謝するのです。あなたはあなた自身が貧しいから、貧しい仲間の生活がよく見える。そして、その人たちが生活できるよう応援したい心が湧き上がってくる。応援し合って生きる。一緒に生きなさい。あなたは持ち物を売って施しなさいと今日イエスは言われます。

       

      生きている、生きることが出来る。それを感謝する。ある人は助けがなければ生きられない。その人も小さい、弱い。その人が自分の隣人。隣人が生きることが出来るように与える者になる。自分の地上の富、今、自分が持っている物を与えて行く。それは天に富を積むことです。天に富があるようになる。あなたの心は天に向かいます。富のあるところに心は向かうからです。

       

      勉強して知識をたくさん得る。その知識を自分のために使うのではない。共同体のため、隣人のために使うのではありませんか。 働いて収入を得る。その働きが自分のためでなく、共同体のためであったらいい。自分たちが働いて皆がよくなる。隣人が生きるようになる。

       

      そうとう前の出来事ですが、広島にある障害者施設の人たちがディズニーランドに来ました。その施設長さんはよく言っているのです。障害者施設は出来ない者の寂しい、集まりの場ではない。この体が出来る事をするために前を向いて歩くのです。この体が出来る事を味わうのです。広島から浦安に来た。大旅行です。皆、緊張しながら、いろいろな乗り物に乗った。スリルを味わった。大喜びです。皆にとって大冒険です。しかし、手伝う人は大変です。バスで来た。一人一人、バスの乗り降りの介助。お手洗い。ディズニーランドでの手伝い。しかし、手伝いが大変であればあるほど、皆の喜んでいる姿が嬉しい。皆はもっともっと遊びたい。もう一度来たい。

      その人たちが、もし、そばにいたら、その人たちの喜びのために働きたいと思うのではないかと思います。その人たちのために時間が作れたら嬉しいと思います。

       

      わたしたちには体の不自由な人たちの知り合いがいない。吃りで苦しんでいる友人がいない。父さん、母さんと一緒に生活できない、3歳からその施設にいるんだという高校生を知らない。

       

      腰に帯を締め、灯をともしていなさい。自分の世界から抜け出て、周りをしっかり、静かに、丁寧に見なさいと言われているのではないでしょうか。自分を包んでいる社会を見る。自分の中のその灯を点けて見る。灯は外を見る光です。 

      主人の帰るのを持っている。主人に会う。主人を見つけて、主人の思いを、また、新しい心で受け止める。 主人は言われます。遅くまで待っててくれてありがとう。一緒に食事をしようか。食べながら、飲みながら語り合おう。

      社会にはいろいろな人がいる。その人たちを身近に感じる。その人たちのために働く。応援してみる。出会いがあって、その人たちと心のつながりがあったらいい。新しい発見があったらいい。

      わたしたちは主人のもとで働く者です。主人の指示に従って歩みます。主人の心を知る者となる。主人の心を行う者となる。主人の世界を味わうために、主人の言葉を味わうのではないでしょうか。

       

      信仰とは、主人と出会い、主人の言葉を聞き、主人の心を見る、触れる、中に入ることです。

      信仰とは、主人の望まれている事が、見える、見えないのかかわらず、必ず存在すると確信する。見えない出来事のうちに事実を確信することです。

       

    • 年間第18主日C  [コヘレト12221-23、コロサイ31-59-11、ルカ1213-21]  19-8-4

        コヘレト、集会の指導者は言います。 

      なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。

       

      集まりの指導者ですから力がある方だと思います。心配りがある。進んで指導する。ある時、大きな出来事を頼まれた。よし、造り上げよう。皆の力を要請して、善いものを造ろう。苦労する。努力する。時間がかかった。しかし、それに手違いが生まれた。完成するはずが、壊されることになった。そんな筈じゃない。全部が無駄になる。こんなに誠意を持って働いたのに。きちんと計画していたのに。 ふと思ったのです。空しい。なんという空しさ。自分の力はなんと空しいのか。

       

      奉仕をしている。その人は感謝もしない。あなたはわたしたちの本当の助けとなっていない。奉仕をして褒められると思っているんでしょう。心配りが足りないよ。上から目線で発言しているよ。 奉仕をしている安心、善い事をしている安心がある。だからってそんなことを言われたくない。善い事をして悪口を言われる。むしろ、腹が立ってくる。もう、その人のところには行きたくない。

      役に立っていない。空しい。本当に空しい。

       

      ある人は軽薄にみられる。本人はそれが腹立しい。問題があるならちゃんと言ってくれ。議論すれば勝つ。徹底的にやっつける事が出来るんだ。 何を考えているんだ。そんな思いは空しいよ。相手に勝つことなんて空しいよ。自分が何かを思ったら空しいものさ。

       

      主は言われます。あなたは空しくて当たり前。あなたはもともと空しいものではないか。わたしはあなたを土の塵で造った。そして、わたしの命の息吹を注ぎ、生きるものとした。わたしはあなたをわたしの道具として造った。あなたはわたしの道具ではないですか。しかし、あなたはわたしの愛する子としてこの世に生んだのです。愛する者としてこの世で生きるのです。あなたはこの世で生きている。わたしはあなたを支えています。わたしの愛によって生きている。その愛を忘れてはいけない。わたしの愛を精一杯受け取ってほしい。わたしの愛を隣人に示してほしい。

       

      愛とは相手の人とつながることです。その人と一緒に生きることです。愛はただの言葉ではありません。愛とはその人の手助けをすることです。精一杯隣人とつながってほしい。

      もし、その成果を求めたら、それは愛ではなくなります。善い事をしていると思ったら、それは愛ではなくなります。奉仕でも何でもない。わたしはあなたを造った。その愛のうちに生きるのです。

       

      この世のものを、地上のものを求めてはいけないのですか。自分の思いがあります。自分の思いのうちに努力します。自分の得性を大切にしたい。力ある者になって人を助けたい。有能なものになりたい。 主は言われます。あなたは自分の思いのうちに手伝いたいと思っているのですか。相手は自分の手助けの道具ですか。自分の都合の良い方法で手伝いたいのですか。

      それは愛ではない。 そんなあなたには相手が見えない。相手の心が見えない。いや、相手の心を見ようとしない。 知識があったらいい。体力があったらいい。上手な会話が出来たらいい。あなたは求めている。貪欲は偶像礼拝です。有り余るほどの財産を持っていても、人の命はどうすることもできないのです。相手の心に入って行けないのです。

       

      8月は平和を考える時です。平和こそ愛の時です。与える者になる。皆が与える者になる。わたしたちはどのように平和を求めてきたかを考えたいと思います。武力によって紛争を解決しない。それが平和の第一歩だ。日本が起こした戦争の悔い改めだ。戦後わたしたちそう決めました。

      今、日本の軍事力はアジアでは有数の力を持っている。軍事力はますます大きくなっている。軍事ではない方法でどれだけ平和のために努力したか。何を与えてきたか。与えることを渋っていたのではないか。平和とは損をすることです。どれだけ損をしてきたか。平和を造って行きたいのか。損をする気があるのか。

      8月、平和を考える時です。

      今、自分にとって、自分の生活にとって、

      平和とは何ですか。愛とは何ですか。

      自分の生活で愛を行う。

    • 年間第17主日C  19-7-28  [創世記1820-32、コロサイ212-14、ルカ111-13] 

        弟子の一人が「イエスに、主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

       

      主よ、ヨハネの集まりでは弟子たちが、皆一緒になってよく祈っているようです。わたしたちも祈りたい。イエスの集まりは修道院のような生活ではない、そのような生活をイエスは望んでいなかったのではないかと思いました。神様を大切の思う心を忘れてはいけない。むしろ、神様を思う心を深めなさい。神様の道を歩みたい、わたしに従いなさい。しかし、イエスが指導して黙想をするのではない。イエスを中心として祈りの集まりを持つのではない。規則がない集まりではなかったかと思うのです。むしろ、黙想したい、祈りたい、その心が起こって来る時を待っていたように思います。 

       

      弟子たち、わたしの言葉を心の耳で聞きなさい。わたしの業をそのまま受け止めなさい。弟子たちは毎日、イエスを目の前で見る。イエスが人に話しかける。人に心を開く。人々がイエスに何を求めているかを見る。イエスがそれをどのように受け取るかを見る。イエスに従って歩くとは、イエスの道を歩くことだと知るのではないでしょうか。 イエスの中に何かが見えてきた。神様の憐れみが見えて来た。神様の温かさが見えた。じわっと光が見えて来た。祈りたい。神様との時間を持ちたい。        祈りましょう、イエスは弟子たちに「主の祈り」を与えられました。

       

      そして、イエスは祈りについて語られたように思います。祈りに安心してはいけない。祈りは神様の道を行く出発です。自分の小ささ、弱さを知りなさい。聞く者になりなさい。自分に向けられた出来事をすべて受け取りなさい。その時、神様はあなたに心を留められる。

       

      祈る。本当に何を求めるのか考えなさい。まことのいのちを求める。いのちのために働く。

      助けを求めている隣人のために祈り求めなさい。その人が求めているものを与えたい、しかし、持っていません。神様、支えてください。強く求める。しつこく求める。

      「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」

       

      第二次世界大戦中のヨーロッパ、ある山にある町の出来事です。老夫婦がいました。熱心に祈りの生活を送っています。ドイツ軍が世界を侵略している。ラジオでニュースにかじりついている。ある日、老夫婦はこの町が爆撃されることを聞いた。驚いた。老夫婦は近所の皆に知らせた。避難しましょう。町の偉い人のところにも行って、知らせた。しかし、誰も信じない。脅かすのをやめてくれ。こんな山の中にある町をドイツ軍が爆撃するはずがないよ。老夫婦は知らせるのをやめた。夜、爆撃される。その夕方、老夫婦は小さな荷造りをして、山に避難した。ここまでくれば大丈夫だ。町をを見降ろす。夜、暗くなってきた。そのうちに空襲警報が鳴り響く。爆撃が始まった。老夫婦は言う。やっぱりね。あんなに皆に注意したのに、信じなかったのがいけなかったのよ。仕方ないわ。老夫婦は勝ち誇ったのです。悲しい出来事です。悲しい老夫婦です。

       

      老夫婦がいました。こちらの老夫婦は子が出来ない。婦人は毎日祈ります。神様、子供を与えてください。善い子に育てます。毎日、毎日祈ります。ある日、旅する聖人のような人が通りかかります。婦人の願いを聞いて、一緒の祈りましょうと言ってくれた。翌年、子が生まれた。夫婦ともに喜んだ。子には何でも与えた。可愛がり、可愛がった。子が腕白少年になった。その少年は親のいうことをちっとも聞かない。青年になった。盗む、暴力を振るう。ついに殺人を犯してしまった。老夫婦は苦しんだ。そして言う。親を苦しめる子なんかほしくなかった。老夫婦は旅する聖人とまた出会った。そして言う。子供のために苦しんでいます。願いを叶えてくれなかった方がよかった。

      旅する聖人は言う。何のために求めたのですか。自分たちのための慰めのためだったのですか。子供も自分の楽しみのために育ったんですよ。 悲しい出来事です。悲しい祈りです。

    • 年間第16主日C  19-7-21

        イエス様はマルタ、マリアの家を訪問されました。マルタがイエスを家に迎え入れます。マルタ、マリアはイエス様の訪問を喜びます。イエスはカファルナウムに拠点を持っておられる。マルタ、マリアはエルサレムに近いベタニアに住んでいる。イエスがエルサレムに訪問されなければ会うことがない。久し振りに出会ったのだと思います。

       

      マリアはイエスの足もとに座ってイエスの話に聞きいっている。マルタはイエスを精一杯接待しようと、準備にかかる。お茶を出す、ありあわせのお菓子を出す。ちょっとしたものを作ってご馳走しよう。料理を始める。大切なお客さんには、そのようにするのですよと母から教わって来ている。

      あぁ、忙しい。ふと見るとマリアはイエスの足もとに座っている。何たることか。マルタはイエスのところに行って言います。マリアはわたしがこんなに忙しく働いているのに手伝おうとしません。先生のために作っているのです。先生、おかしいとお思いになりませんか。マリアはわたしに任せて何もしようとない。手伝うように言ってください。先生、マリアを叱ってください。 

       

      イエスはマルタに怒られてしまいました。イエスはマルタに苦笑いしながら答えます。

      わたしはマリアの心を感じている。久し振りに出会った喜びの心を感じている。先生の語りたいことに耳を傾けます。マリア、ありがとう。

      そして、マルタ、ありがとう。でも、わたしはマリアがわたしを心から迎え、わたしに熱心に心を向けてくれたことが何よりも嬉しい。 マルタ、あなたは迎える準備に心がいっぱいになっている。マルタ、あなたの心にはわたしがいなくなってしまったのではないですか。

      必要なことはことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

       

      マルタとマリアの出来事を読んだ時、ダミアン神父の事を是非、知ってほしいと思いました。ダミアン神父は1840年ベルギー生まれました。24歳で神父になりました。8年間ハワイで活動していましたが、ハンセン氏病患者の世話をする人が誰もいない事に気づきました。ハンセン氏病の人たちは見つかるとモロカイ島に送られ、そこで誰の世話を受けずに死んでゆく。ダミアン神父はそこに派遣される願いを出しました。モロカイ島には800人のハンセン氏病患者が隔離され、年間142人が死を向かえるのです。 ダミアン神父は1873年モロカイ島に赴任しました。患者たちのために生活整備を行う。きれいな生活を送る。ブラスバンドを作った。学校を作った。

      患者のため、上司、共働者と問題を起こすことが多かったようです。しかし、ダミアン神父は自分の意思を曲げなかった。自分の意志を貫いた。ダミアン神父は患者には優しかった。

      しかし、患者にとってダミアン神父はあくまでも部外者であった。あなたはわたしたちのために働いている。それは本当に嬉しい。しかし、あなたはわたしたちの本当の仲間ではない。あなたは与える者。わたしたちはあなたからもらう者。ダミアン神父はその隔たりに苦悩した。命をかけて働いているのに、わたしはこの人たちの中に入れない。 ダミアン神父は患部に触れることにも躊躇しなくなっていた。感染を恐れなくなっていた。1884年自らハンセン氏病を発症する。「我々らい患者」として立っている。1889415日帰天されました。49歳です。

       

      救いとは何ですか。出会った人が救いを求めている。救いの恵みをその人に示す、その人とつながることではないですか、あなたは神父だから神様の思いをその人に教えるのではないですか。神様が今、共にいることを告げることではないですか。 ハンセン氏病の患者は言います。あなたはわたしたちに生活のすばらしさを教えてくださいます。感謝します。でもあなたは与える者、わたしたちはもらう者です。でも、あなたはわたしたちの本当の仲間ではない。あなたはハンセン氏病の苦しみを知らない。体の苦しみ。心の苦しみを知らない。彼らが求めていたのは、ダミアン神父がまことの仲間、友であることだった。命のつながりを求めていたと思うのです。

      必要なことは何ですか。あなたはまことに何を求めているのですか。

       

    • 年間第15主日C  [申命記3010~14、コロサイ115~20、ルカ1025~37]      19-7-14  

        神様はこの世界の状況を見て思います。自然が壊れて来ている。人がこんなに苦しい生活を送っている。わたしは見えるもの、見えないもの、すべて善いものを造った。生きる命を喜びとした。今、悪いものが、悪い力が世界を支配している。悪いものも造った。それは事実です。それは人が悪いものを超えて、まことの善いものへの道を歩んでもらいたいからである。

       

      神様は言われます。わたしはあなたたちの前にいる。あなたたちがどこにいても、どんなときにもわたしを思い起こしてほしい。あなたたちがわたしの声に聞き従うならば、地の果てに追い散らされても、わたしはあなたたちを集め、そこからあなたたちをわたしの場所、祝福の場、いのちの場、幸いの場に連れ戻す。あなたたちは今、立ち帰って、わたしの声に聞き従いなさい。

       

      わたしはあなた方の前に祝福と呪いを置いた。いのちと幸い、死と災いを置いた。

       

      律法の書にある戒めと掟を守りなさい。心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい。

      わたしの戒め、掟は難しいものではない。遠く及ばぬものでもない。あなたたちの口で語られる言葉のうちにある。あなたたちの心の中にある。わたしはあなたたちに善い心を与えている。あなたたちが自分の思いを捨て、自分を空にした時、善い心が働く。自分の欲求を捨てなさい。

      あなたたちは生きる喜びを知る。自分が生きる喜びを求める。しかし、自分が生きているのではない。助け合って生きている、支えられて生きている事を知る。 

      全てを持っておられる主はあなたを見つめておられる。主の愛に気付きなさい。主の心に気付きなさい。主の心が戒め、掟です。主の心が律法です。まことの命、まことの喜びの道を歩く。

       

      わたしたちは律法というと法律のように、こうしなさい。こうしてはいけないと書かれていると思ってしまいます。律法とは法律のように条文が書かれているのではないと思います。

      律法の書は創世記から申命記までの五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書です。神様のみ心と人の動き、働きが書かれています。神様の愛と、人の権力の我儘が書かれているのです。

       

      ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして問います。

      「先生何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」

      「聖書には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

      「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

      「正しい答えだ。それを実行しなさい。」

      「わたしの隣人とはだれですか。」

       

      隣人は隣の人です。いつも隣にいる人、呼びかければすぐ返事が出来る人です。いでも声をかけられる身近にいる人です。お互いに声を掛け合う人です。イエス様は隣人と言う言葉を特別な人にも用います。助けを求めている人です。助けてもらわなければ、生活できない。体が不自由な人です。話せない人、耳が不自由な人、見えない人です。神様は本当に不思議なことをなさいます。ある人は生まれつき体が不自由です、一人では食べられません。歩けません。言葉も話せません。また、ある人は事故にあって不自由な体になりました。その人があなたのまことの隣人ですよ。

      助けがなければ生きて行けない。その人を造られた。ある人を体の不自由なそんな状態にした。 神様は「命について」言われているように思います。人は神様から命を授かって生きている。どんな人も神様の命によって生きている。命が生きるように手助けする。その人が自分の兄弟であったら助ける、兄弟じゃないかそんなことは当たり前だよと言って助ける。

      わたしたちは神様から命を授かっている、皆、兄弟姉妹ではないですか。隣人は兄弟ではないですか。その人たちのために働く。お返しはない。その人たちのために損をするのですか。そうだよ、兄弟だから、そんな事は当たり前じゃないか。

       

      祭司、レビ人の目の前に苦しんでいる人が横たわっている。ほかに大切な用事があったのでしょうか。見てみないふりをしてしまう。祭司、レビ人の人たちは命の大切なことを一番よく知っている。聖書をよく知っている。 よく勉強している、よく知っていてもだめですよ、よく祈っている、よく祈っているだけではだめですよ。行いなさい。

       

      隣人がどこにいるのか見えない。わたしたちに言われているのだと思います。

      あなたに隣人がいますか。その隣人のために精一杯手助けをしていますか。

       

      互いに愛し合いなさい。

    • 年間第14主日C  19-7-7

        「収穫は多いが働き手が少ない。」  

      昔は人生論など語った。中学生の頃か、高校生の頃か分かりませんが、小説をよく読んだ。自分の中に世界があったのだと思います。それが楽しかった。友人に絵描にのなった者がいますが、絵の世界を知った。たまに一人で美術館に行った。その頃の社会が話すことを求めていたのかも知れません。思い出すのが、安保闘争のテレビでの放送です。ベ平連のニュースです。「ベトナムに平和を!市民連合。」 皆が自分の意見を表現したかったのです。その運動の中に入りたい。サラリーマンでない人の思いだったように思います。

       

      今わたしたちの社会は、いろいろな出来事が多いと思います。よく理解できない出来事。例えば、パソコンで見るのでしょうか、危険な出来事が動画になって拡散されている。わざと危険なことをして映像にしている。こんなことが出来るんだと示しているのです。あれは犯罪だよと思うものです。あるいは、お母さんが自分の子供をほったらかしにして、家に帰らない。子供には23日食べ物がない。飢えて死んでいた。若いお母さんは言います。子供が煩わしかった。また、虐待によって傷を負う。そして死んでしまう。 

      わたしたちの中に、暖かさがないのではないかと思うのです。危険なことをする。評判をよくするために、画像多くの人たちに見てもらおうとして、わざとする。その人たちは寂しい。声をかけられたい。自分を受け入れてくれる場が欲しい、温かさに包まれたいのではないかと思います。

      今も競争の世界です。ますます激しい競争の世界になってきていると思いいます。

      スポーツに少年、少女たちが励んでいる。スポーツは楽しむよりはうまくなりたいものだと思っている。草野球などを馬鹿にする。今、草野球があるのか分かりませんが。草野球は面白い。時に、うまい奴がいる。そいつはみんなの評判になる。

      勉強する。よい高校へ行くために、よい大学に行くために勉強する。勉強の面白さは消えてしまう。わたしの小学生時代に塾と言う言葉がはやり始めていたころです。母ちゃん、塾に行かせてくれ。勉強しても仕方がないよ。お前はそろばん塾に行きなさい。そろばん塾に行きました。

      うまければいい。速く出来ればいい。皆が認めてくれるから。練習してうまくなる。人よりも何倍も練習する。そして周りの人よりもうまくなる。速く出来ればいい。物をよく知っていればいい。

       

      心はどこに行ってしまうのですか。昔、出張は旅のようでした。大阪に出張する。仙台に出張する。一泊どまりでした。懐かしい。

       

      収穫は多い。求めているのではないか。多くの人がゆったりとした時間を求めているのではないか。あなたがゆったりとした人になればいい。その人を押せば笑顔が浮かんでくる。静かな言葉出てくる。その人といれば落ち着く。苦しい事があった時、話さなくてもいい。その人といたい。

      わたしたちに宣教が求めらているのです。いつも受け取ることしか考えていないかも知れない。あなたが行きなさい。いつもの人と出会う。今日はいつもと違う心を持つ。出会って話す。いや、最初に、聞く者になってほしい。その人を受けとめる人になってほしいのです。

       

      おじいさん、おばあさんが多くなってきました。わたしたちもおじいさん、おばあさんです。ゆったりとお茶でも飲みませんか。話すことが目的ではありません。一緒に、一緒の時を味わうのです。目的のために一緒にいるのではありません。

      ゆったりた時を味わうために一緒にいるのです。田舎の方に行くと、今はもうあまり見かけなくなりましたが、おじいさんが道路の端に座って、じっとしている。何を見ているのか、どのくらいか分からないけど、じっとしている。今、それが分かりかけてきたように思います。ゆったりとした時を過ごす。

       

      シスターの経営する老人ホームがあります。時々訪問する。信者さんはいつも喧嘩しているのね。ある人がそう言います。どうしたんですかと聞きます。あなたはミサにでない。この間も出ていない。あなたの態度は信者しておかしいいよ。そんなことでいじめてる。仲のいい教会じゃないね。

       

      イエスは言われます。収穫のために働き手になってほしい。

      心の平和を造って行く。教会に平和がある。いえ、教会が平和を求めているからです。

      平和とは聞くことです。あの人に聞いてもらえる。どんなことでも、いつでも聞いてもらえる。

      平和とは与えることです。求めてはいけない。その人を受け取ることです。つながりを大切にすることです。

       

      キリストのうちいる喜び。日々を過ごす喜び。仲間がいる喜び。

    • 年間第13主日C 19-6-30 (列王記上1916b、19-21、ガラテヤ5113-18、ルカ951-62

        毎日の生活がありました。もっとお金が入ればいい。サラリーマンを辞めて、一人で稼ごう。そう思ったりしました。仕事をする。お金を得るために仕事をしている。そんな毎日の生活でした。毎日の生活が自分の思いの生活になっている。ふと自分がないと気付くのです。以前のわたしはよく本を読んでいました。 神様が呼ばれました。自分が神様に向かって勉強するのではない。わたしの内に入りなさい。神様の思いのうちに動く者になる。そして、洗礼を受けました。遅い洗礼です。神様は言われます。お前の生活はわたしが包む。洗礼を受ける時、決心しました。毎日祈ります。神様との時間を作ります。急に生活を変えた。純粋に生きたい。もっともっと純粋に生きたい。そんな思いが生まれたのです。

      サマリアでのヤコブ、ヨハネ兄弟の怒りがよく分かります。サマリアでイエス様が歓迎されていない。無視されている。ヤコブ、ヨハネが怒って言います。「主よ、お望みならば天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」ヤコブ、ヨハネは純粋にイエスを慕っていたんだなと思います。純粋はほかのものを排除する。ほかのものを見たくない。認めない。

       

      洗礼によって自分の人生に新しい道を求めていたのだと思います。新しい生き方をしたい。このまま社会に生きていると社会埋もれてしまう。イエスの声を聞いた。イエスの姿を見た。神様の世界を見なさい。あなたを包んでいる世界を見る。自然を見る。自然は生きている。自然のうちに生きる命を見る。雄大な世界がある。不思議な、神秘の世界がある。人を見る。一人一人が生きている。一人一人はつながりながら生きている。一緒に生きている。そうか、自然も一つ一つの生きているものも大地につながって生きている。木も、花もお互いにつながって生きている。お前の生きている世界を見つめなさい。命が動いている姿がある。生きるために動く、それは働くことです。そして、神様は言われます。すべてのものはつながっている。命によってつながっている。

       

      この世の命の煩いから、まことの命への道を歩きなさい。まことのいのちは神様のもとにある。

      洗礼によってあなたの道を歩いています。本当か? わたしと一緒にエルサレムへ行こう。

      いですはエルサレムに向かう決意を固められた。厳しい心で歩んでいる。

       

      イエスのうちに神様の心を見る。ある人がイエスに言う。「あなたと共に歩みたい、あなたに従って歩みたい。あなたおいでになる所ならどこへでも行きます。」 イエスはその人に言います。あなたは何を求めているのか。わしの生活は見るに忍びない、惨めなものだ。寝るところも十分ではない。食べ物もない時がある。わたしの生活は旅人の生活です。あなたはそれを受け入れますか。

      イエスがある人に言います。「わたしに従いなさい。」「わたしに父が亡くなりました。葬りに行かせてください。」「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬りらせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。あなたは今はもうすでに、父さんの死を偲んだのではありませんか。父さんを心にとめた。それで充分です。死の苦しみの世界にとどまっていてはいけない。死者の世界から、この世の世界から出発しなさい。死を超える命がある。その命を宣べ伝えなさい。神の国を言い広めなさい。」

       

      静かに神様に従います。一緒に喜ぶ。自然も、人も一緒に喜ぶ。支えられていることを感謝しながら、支える者となって生きる。働く。一緒に喜ぶとは、助けを求めている人のために働くことです。自然が生きる力を妨げないことです。(人によって空気が汚れてくる。水が汚れてくる。水が飲めなくなってくる。取りすぎて、魚がいなくなってくる。ペットボトルで海がおかしくなっている。木が無くなってくる。) 静かに今住んでいる世界を見ます。人はすべてのものとつながっている。

       

      イエスのエルサレムでの姿をわたしたちは知っています。支える者になる、その厳しさをもう一度思い巡らしたいと思います。

    • キリストの聖体C  19-6-23

        ご聖体、このパンの中にイエスがおられる。わたしを食べなさい。わたしはあなたと共にいる。

      ご聖体、命をかけられたイエスの愛を、神様のこの神秘を深く味わいたいと思います。

       

      神様は見える世界を造られた。この宇宙が神様の世界。何千億の星が動き、光を放ち、輝いている。小さい星の一つ太陽の周りをまわる地球を造られた。わたしたちの世界を造られた。この地球の、この世界を喜びにあふれる場にしよう。時間を造り、空間を造った。自然を造り、自然の中、最後に人を造られた。人は神様の似姿、いのちを喜ぶ、笑顔で語る、歌う者。

       

      神様は人に喜びを選ぶ自由を与えられた。自分を囲む世界を知り、出来事の中で何をするか、何を考えるか、自由に選ぶ。人は自分を知った。力の強いものは自分の自由を楽しむようになった。自分の思いのうちに生きる。力のあるものが自分の欲求のうちに動く、力のない者は捨てられて行く。 神様は力のある者、力のない者を造られたのですか。力がある、力を持っている、その力は自分のための力ではない。力のない人を手助けするための力です。皆が喜んで命を生きる。

       

      人はまことの命とは何かを忘れている。まことの愛は何かを忘れている。支えられて生きていることを思いもしない。神様は預言者を送られた。年月をかけて、何十人もの預言者を送られた。人は預言者を嫌った。預言者の話を聞こうともしない。ついに神様はご自分でこの世に来られた。まことを語ろう。語りかけ、その人の心に入ろう。神様はイエス、「主は救い」と言う名をもって、毎日、語りかけた。病を癒した。

       

      イエスは語りかけます。命のすばらしさを語ります。神様が人にどれほどの恵みを与えられているか、まことの愛を知りなさい。どれほど与えらえているか、どれほど支えられているかを思い巡らしなさい。 イエスの言葉は聞く人の心に響いたのです。力のない人たちはイエスのもとに集まる。イエスこそわたしたちに恵みを与えてくださる。イエスに力を求めた。イエスに安心を求めた。イエスに体の癒しを求めた。力ある人はイエスの言葉に耳を傾けようとしなかった。人は自分の思いを自分の力によって追い求める。求める、だから人は大きくなる。イエスは与える者になりなさいと言っている。与えてばかりいたら、身を滅ぼすだけだ。

       

      愛し合いなさい。互いに愛し合いなさい。わたしたちは神様から命を注がれて生きる者となった。わたしたちは神様の命によって生きている。それを忘れてはならない。神様は自然を造られた。人は自然にある人に必要なものを得て生きている。わたしたちは自然に支えられている。神様は人の恵みを与え続けている。神様に支えられなければ人は生きて行けない。人は小さい者、弱い者である。しかも、驚くべきことに、神様はある人にもっと不自由さを与えている。その人は不自由なために助けがなければ生きて行けない。

       

      その人が自分の兄弟だったら、助けるのは当たり前。兄ちゃん手伝うよ。悪いね。当たり前だよ、だって兄ちゃんじゃないか。でも、その体の不自由な人が、他人だったらほっておく。知らんぷりする。  神様は言われます。人は皆、わたしの命によって生きている。生きられない者がいたら、その人が生きられるように手助けしなさい。力のある者は自分の豊かさしか求めていない。力のない者、苦しめばいい。そんなことも思う。力のある者は人が見えない、見ようとしない。 イエスは言われる。力のある者、あなたは神様の支えがなければ生きて行けない、それを知りなさい。

       

      神様は弱い人を造らた。体の不自由な人を造られた。助けがなければ生きて行けない。一緒の生きる。だからあなたが助け手となりなさい。愛は助け手となることではないですか。物の支え合いではない。心の支え合い。人と人のつながり。その人とつながる。その人と兄弟になる。

       

      人は言葉によってつながっているように思っている。しかし、言葉は耳に入って話を理解しようとする、頭で言葉を受けとめているのではないか。 

      心の耳によって聞きなさい。言葉を心で受け止めなさい。

       

      イエスは言われます。わたしはあなた方を愛している。わたしのすべてを与えてもよいほど愛している。わたしの愛を知り、その思いで隣人を愛しなさい。愛は与えることです。自分が支えられていることを知って、支える者になるのです。人のために働きなさい。

      まことの命は与える者のうちにある。わたしは与える者である、だからあなたたちのためにわたしのすべてを与える。わたしの命をあなたたちのために与える。あなたたちにまことの命を知るように。まことの愛を知るように。あなたたちが支えられていることをまことに知り、まことに支える者となるように。 出来事を悟りなさい。聞いて、見て、触れて知ろうとするのではなく、心の耳で聞き、心の目で見て、心で触れなさい。その時に、相手の心が見える。出来事の命が見える。

       

      わたしはあなた方の心と体の中にあるあなたがたの思いを捨て去るように、わたしの命を捨てる。

      自分が生きたいと言いう思いを捨てなさい。あなたは自分のために生きるのではなく、神様の思いのうちに生きるのです。あなたの命の働きによって隣人が生きるようになる。一緒に生きるとは、生きられない人が生きられる出来事です。

       

      わたしは新しい命に生きている。 わたしはパンの中に入る。このパンはわたしの心と体。このパンを食べる。わたしを食べる。わたしの思いがあなたの中に生まれる。
    • 三位一体の主日C  19-6-16

        イスラエルは神様から選ばれた民。神様から言葉をいただいた。わたしたちは神様のみ心のうちに歩む。神様に従う、神様から与えられた道を歩むのです。 神様のみ心は、み言葉は律法です。律法のうちに神様はおられる。心を入れ替えて、生活を改めなさい。

      イエスは言われる。神様を律法のうちに閉じ込めてはいけない。律法は神様のみ心。神様のみ心に出会う。神様のみ心に会いに行きましょう。 神様のみ心に出会った時、律法が分かる。神様は今も、生きておられる。今も働いておられるのです。 イエスに出会った人々はイエスに神様の心を見た。イエスの業に人を超える力を見た。イエスによって、悪霊が追い出された。死んだ者が生き返った。イエスこそ神様の姿ではないか。

       

      希望のない、光のない生活を送っていた民はイエスに希望を抱いた。しかし、イエスは苦しみのうちに刑罰を受けて、世を惑わすという刑罰を受けて、十字架につけられて殺された。

      イエスを師と仰ぐ人たちは、イエスが死者の世界からわたしたちのもとに来られたと言い始めた。世を去ったイエスが新しい命生きる者となった。人には考えられないこと、死んだ者が生きている。

      この世を超えるいのちがある。いイエスは神様の命に入られた。人々はこれぞ神様の姿だと知ったのです。そして宣言します。イエスは神様です。

       

      天の父に、イエスが加わる。神様がお二人いることになる。それはおかしいではないですか。

       

      キリストを信じる人は言います。神様はお三方おられる。父と子と聖霊です。

       

      今日、三位一体の神様を見つめます。 イエスは言われます。神様は父さんです。人は父さんによって命を得、世に送られる。世で生きる。父さんによって支えられている。

      わたしたちはイエスの姿に神様の思いを見た。神様の慈しみを見た。わたしはお前を愛する。お前たちはわたしのいのちよりも大切だ。生きなさい。喜びをもって生きなさい。

       

      イエスはわたしたちを知っている。わたしたちの弱さを知っている。欲求のうちに苦しんでいることを知っている。そのわたしたちに心を開いて話を聞いてくださっている。わたしたちをそのまま受け入れてくださっている。弱いわたしたちの中に入っておられる。

       

      前にも話したと思うのですが、こんな話があります。 自閉症の子がいました。お母さんがわたしに言います。「神父さんは優しい方ですね。わたしの子が神父さんと話したいと言っています。うちの子は誰とも話したがらない子でした。あの子と話す時間を作ってくれませんか。」「どうぞ、話しましょう。」その子は今までの苦しみを話します。こんなに苦しい、こんなに悲しいのに誰も気に留めてくれなかった。わたしはずっと、聞いていた。この子はあまりに全部を人のせいにしている事が気になったのです。「そうですか。こうしたら、こんな事をしたらどうかな。」そう言った途端、その子は口を閉じてしまったのです。目の勢いがなくなりました。あー、しまったと思ったのです。その子の苦しみのうちに、悲しみのうちに入っていなかった。ただ聞いてやるだけだった。弱いその子と一緒にいなかった。弱くなれなかった。それは助けではない。その子はその時からわたしを無視したのです。

       

      誰でも弱い人、小さい人です。その人の弱さの中にいなければ、自分が小さくならなければ、一緒に歩けない。わたしのその助けは、その援助は自分の善い行いのために行ったのではないか。その助け、その援助は自分を助ける援助ではないか。善い行いのために助ける、与える、それは全く助けではない。 この出来事は、わたしにとって忘れることの出来ない事です。

       

      天の父のもとに息子イエスがおられる。神様の力を持っておられる。また、聖霊と言う神様がおられる。聖霊が父と子を包まれる。聖霊によって包まれた二方は、聖霊の中で一つです。

      天の父と子イエスは同じなのですか。天の父は神様です。この宇宙を創られた方。この世を造られた方です。息子イエスも神様です。しかし、まことの人です。イエスはまことの神、まことの人です。人の力のうちにいる。肉体の中にいる。弱い存在です、小さい存在です。行きたいところに歩いて行く。心を語るのに言葉を使わなければいけない。お腹がすいたら食べる。疲れたら休む。眠くなったら寝る。

       

      何故、神様が人となったのですか。何でも出来る方が何も出来ない方になってしまう。

      そんな事を考えた時、思い起こすのが、イエスの40日間の荒れ野での試練の生活です。神様が言われたのです。お前は何も知らない。お前は何もかも知っていて、何も知らない。人は何かを知りなさい。人の弱さを体で知るのです。欲求の強さ、誘惑の強さを知る。神様は何でも出来る、だから、弱い人の苦しみを知らない、貧しい人の苦しみをしらない。

       

      お前は断食していて、何も食べていない。お前には神の力があるのではないか。目の前の石ころにパンになれと言えばパンになる。お前は腹を空かすなんてない人だよ。わたしは断食が何であるかを知る。貧しくて食べることの出来ない人の苦しみを知るのです。

       

      完全とは弱さ、小ささを心と体で体験しなければいけない。イエスは完全に人となったのです。

       

      神様は全く一方(ひとかた)です。まことの命は一つ、まことのいのちは一つ、まことの愛は一つです。神様の本名は父と子と聖霊です。父と子は全く一つ。子は父の思いを語り、父の力を行うのです。聖霊は神の働く力です。天の父が働く、聖霊によって働く。子が働く、聖霊によって働く。父の思いは聖霊によって子に働く。父と子が聖霊によって一つなのです。

       

      わたしたちがイエスと出会った。イエスに神様を見た。イエスを神様だと宣言した。三位一体がわたしたちの神。イエスを神様だと宣言します。

    • 聖霊降臨の主日 C  19-6-9

       五旬祭、過ぎ越しから50日目に刈り入れの祭りを祝います。麦の穂が実った。刈り入れよう。麦が大地に種を蒔かれ、大地に育てられた。水が与えられ、太陽の陽を十分浴びた。実りを祝う。神様の大きな恵みを祝う。労働の実りを祝う。刈り入れ祭に神殿に参詣することは義務だったようです。弟子たちは一同集まって祈った。

      静けさの中で祈っている、皆の心が神様に集中している。突然、風が吹き下ろすような音が聞こえた。炎のようになった聖霊が一人一人の上にとどまった。聖霊はいのちの炎、言葉の炎。すると、一人一人が聖霊に満たされた。

      弟子たちは語り始めた。聖霊が弟子たちの心と体に働いて語っているのです。弟子たちが麦の穂のように、神様の恵みに、神様の思いに満たされて、心が開かれ、語る。思い思いに語っている。自由に言葉が出てくる。その言葉が聞く人の胸を打つ。大勢の人たちが、集まって来た。大勢の人たちは言う。懐かしい、聞こえてくる言葉が心に入り、懐かしく、慰めを感じる。

       

      人は洗礼によって神様の世界に向かって歩みます。今までの自分が水によって死に、いのちの水によって新しく生きる。堅信、聖霊による洗礼、によってわたしたちは聖霊の住まいとなります。キリストによる洗礼、わたしたちが神様の住まわれる神殿となるのです。

      堅信:confirmtio con 全面的にfirmatio堅固にする 堅信は強化と言う意味があるそうです。

       

      聖霊降臨を思う時、あっ、これは教会の洗礼ではないかと思ったのです。教会は生きています。神様の思いが教会を通して働くのです。教会は神様のみ心のままに造られました。神様のみ心を行います。教会はキリストの体。教会の頭はキリストです。キリストの思い、言葉、行いが聖霊によって行われるのです。聖霊は力の神様です。天の父のみ心、イエスのみ心を行うのです。

      教会が行う? いや、教会を造っているわたしたちが行うのです。洗礼によって、堅信によって教会の煉瓦となったわたしたちが、わたしたちの働きが教会の働きとなるのです。

      教会の働きはキリストによるわたしたちの働きです。

       

      聖霊がすべての事を成し遂げる。

      イエスは言われます。あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしの言葉を守る。 イエスのいわれる掟とは、心配りです、心だてです。その心からの思いでイエスの計画を完成するものです。わたしを愛しているならば、わたしの心を守る、わたしの願いを行ってくれる。わたしと父はその人のもとに行き、一緒に住む。 聖霊がすべての事を成し遂げる。

       

      わたしたちはキリストの体の一部。ほんの一部。教会を造っている煉瓦。キリストに聖霊によってつながっている。わたしたちは教会の一部となっている。

       

      今日聖霊降臨を祝います。すべてのものが聖霊によって生きる。

      天の御父は聖霊によってイエスを生んだ。イエスは聖霊によって見えるもの見えないものをお造りになった。天の父とイエスは聖霊によって一つになった。聖霊の働くところには天の父がおられる。聖霊の働くところには御子イエスがおられる。

       

      聖霊は神様。神様がわたしたちの中で働かれる。

    • 主の昇天C  19-6-2  (使徒言行録11-11、ヘブライ924-28,1019-23、ルカ2446-53

        イエスが罪人とされて十字架にかかりました。十字架を背負ってわたしたちの前を歩かれ、そしてゴルゴタの丘で十字架に釘で打ち付けられたのです。イエスの姿に神様のみ心見ました。イエスが亡くなられた。苦しみのうちに亡くなられた。何故ですか。

       

      弟子たちは家に集まって祈っている。ひっそりと、苦しみのうちに、悲しみのうちに、集まって祈っている。ユダヤ人たちが入って来られないように、家には鍵をかけている。

      イエスが来られた。イエスは真ん中に立たれて言われた。「あなた方に平和があるように。」

      弟子たちは驚いた。亡くなったイエスが今ここにおられる。「ひっそりと閉じ籠っていないで、外に向かって歩き始めなさい。」 一瞬、弟子たちは息を飲む。 「この世の命を超えるいのちがある。聖書には書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。あなた方は復活のいのちに生きるわたしを見た。」

      イエスはわたしたちを喜びで包んでおられる。力を感じた。その時、弟子たちは一瞬、後悔の思いが沸き上がったのです。わたしたちはイエスを裏切った。イエスが捕らえられた時、イエスが十字架にかかると決まった時、恐ろしくて逃げ去ってしまった。

       

      イエスは最後の晩餐で言われていました。わたしは父のもとに行く。あなた方のもとから去って行く。あなた方の心は悲しみ、苦しみでいっぱいになるだろう。わたしが父にもとに行って「あなた方を助ける力ある方」を送る。わたしが去って行かなければ「その方」は来ないからである。

      神である方が肉体をもって自分の姿を示された。神様が人となられた。肉体を超えなければ、完全な神になれない。その方、イエスはキリスト。完全な人であり、完全な神である。肉体の壁を打ち破ったのです。肉体の命を捨てる。肉体の命を捨てなければ父のもとに行けない。この時、わたしはあなた方のところを去ったのです。(ヨハネ165~

      その方によって、聖霊によって、あなた方の目が、耳が心の目、心の耳となる。心の目が、心の耳が働くようになる。イエスを心の目で見る、心の耳で聞くのです。出来事を心の目で見る、心の耳で聞くのです。イエスが心と体に入ってくる。出来事が心と体の入ってくる。理解しようとしてはいけない、悟るのです。 (ヨハネ1612~15

       

      語りたいことはたくさんあるが、まだあなた方には受け取ることが出来ない。聖霊が来られると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせるでしょう。聖霊が来られる時まで、都にとどまっていなさい。

       

      イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

       

      今日、主の昇天を祝います。天におられる主がわたしたち一人一人を見ておられる。わたしの中に入る道を歩みなさい。わたしの中にちょとでも入った時、わたしはあなたの中に入ります。

       

    • 復活節第4主日C  19-5-12

        わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。

      わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊はわたしに従う。

       

      ユダヤ人たちは言います。

      「あなたを信じることが出来るような『しるし』をわたしたちに示して下さい。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。神様の恵をモーセによって知ったのです。わたしたちが見てあなたを信じることが出来るように、どんな『しるし』を行ってくださいますか。」

       

      イエスは言われます。

      わたしの父は天からまことのパンをお与えになる。このパンこそ世に命を与えるものである。

      いつまでもなくならず、永遠の命に至らせる食べ物、このパンのために働きなさい。

      永遠の命の至らせる食べ物、この食べ物こそ、人の子があなたたちに与える食べ物である。

      それを信じなさい。それがわたしがあなたたちに示す「しるし」である。

       

      そのパンをいつもわたしたちにください。

       

      あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった。しかし、天からの降って来た生きたパンを食べるなら永遠に生きる。わたしが命のパンである。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。

       

      これを聞いたユダヤ人たちは言います。「何を言っているのか。実にひどい話だ。こんな話を聞いていられようか。」

       

      「わたしは今、神様のみ心のうちに話している。わたしの言葉は霊である。命である。心を開いて私の言葉を聞き入れなさい。いや、わたしの言葉を受け入れなさい。わたしはあなたの心に語っているのである。あなたの命に向かって語っているのである。わたしを信じる時、聖霊があなたの中に注がれる。聖霊によって、わたしの言葉があなたの中に入って行く。頭で理解するのではなく、心と体に入って行くのです。」

       

      イエスの中に入った時、神様が見える、いのちが見える、安心が心を包む。自分が神様のものになる。 イエスを食べるとは、イエスを飲むとはイエスの苦しさを体で感じることではないでしょうか。イエスの悲しみを体で感じる、イエスのやるせなさを思い知るのではないでしょうか。まことの喜びに体が震えるのではないでしょうか。

       

      わたしによって父を知る。父からのお許しがなければ、誰もわたしのもとに来ることは出来ない。わたしとあなた方はつながっている。命によってつながっている。

       

      わたしの羊になるのです。わたしはあなたを知っている。あなたはわたしを知っている。

      あなたはわたしの姿のうちに歩む。自分を捨て、与えられた十字架を背負いながら、イエスに導かれ、イエスと共に歩む。永遠の命への道を歩む。

       

      イエスに本当に素直になって、信仰生活を続けて行きたいと思います。

    • 復活節第3主日C  19-5-5

        イエスは新しいいのちに生きておられる。弟子たちは復活したイエスと出会っている。新しいいのち、復活のいのちを信じている。しかし、我々にはイエスの姿は見えない。イエスの話す言葉は聞こえない。イエスに呼びかけたくても、呼びかけられない。新しいいのちのイエスは、復活のイエスは我々にはもっともっと近いはずだと言う。

       

      弟子たちは故郷に戻っている。ガリラヤ湖畔、夜、ペトロは言います。「わたしは漁に行く。」 そこにいた弟子たちも言います。「わたしたちも一緒に行こう。」 

      夜、漁に行くことがあります。夜、月明かりの中、舟は沖に出て、真っ暗の中、かがり火を海面に近づけます。海面が明るい、その明かりを目指して魚が寄って来、集まって来ます。そこに網を打つのです。 ペトロと弟子たちは夜中の間、漁を続けた。しかし、何も取れなかった。

       

      陸に上がると、一人の男が立っていた。その男は言います。「食べ物はありますか。」「何もありません。何も取れなかったのです。」「魚を取っていたのですか。わたしのいう通りにしたら取れますよ。」 その男の人の声がペトロを動かした。その人の声が心に入った、心に響いた。その人の心がペトロに入ったのだと思います。

       

      網を打つと魚がかかった。あまりに多くて網を引き上げることが出来なかった。

       

      「今のその思いでは漁は出来ません。あなたがたは人をとる漁師になったのではありませんか。わたしの思いのうちに漁をしなさい。そうすれば取れる。」 

      ヨハネがペトロに「主だ。」と叫んだ。ペトロは裸同然であったので、上着をまとい湖に飛び込んだ。

       

      心の火を灯しなさい。あなた方一人一人の心の灯で出会う人の心を照らしなさい。集まって大きな光となる。教会を造りなさい。」 イエスは言われた。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。今日が始まる。」 わたしのパンを食べなさい。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

      魚はギリシャ語でIXOUS(イクス―ス)、頭文字を綴ると イエス・キリスト、神の子、救い主 となります。初代教会は仲間であるしるしとして魚の絵をキリストの象徴的記号としていた様です。

       

      食事が終わると、イエスはシモンペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロは、「はい主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

      イエスはペトロにわたしを愛しているか、わたしを愛しているかと三度も聞かれる。ペトロは悲しくなる。主よ、わたしはあなたを愛しています。イエスは答える。わたしの羊の世話をしなさい。

       

      イエスの心、ペトロの心を思い巡らすのです。

      愛する:その人のために、その人たちのために働く。自分の兄弟として、与える者になる。全く与える。自分の持っているものをその人が生きるために使ってもらう。自分を捨てなさい。自分に与えられた十字架を背負って。キリストに従いなさい。

      ペトロはイエスの言葉を聞いた。イエスの姿を見た。心が震えた。あなたのためなら命をも捨てます、と言った。しかし、ペトロはイエスを裏切った。

      あなたはイエスの仲間ではないか。ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、そんな人は知らないと誓い始めた、と聖書は書いています。(マタイ2673~)

       

      お前の愛は何か。お前の心はわたしの出来事に感動している。わたしの中に入りたいと思っている。しかし、お前の体がそれを拒否しているのではないか。それをしっかりと見据えなさい。

      キリストを知っているという。キリスト教を知っているという。キリストの心が自分の心に響くと言う。

      わたしの愛のうちに生きなさい。あなたのために死んだ。あなたが苦しまなければいい、悲しい事がなければいい、その思いでわたしが命を捨てたのではない。思いっきり苦しんで、どん底まで悲しんで、いのちの喜びを知りなさい。その道を歩みなさい、わたしの道を歩みなさい、その思いです。その時に、自分の我が無くなる。あなたの中にわたしが入る。

      この世の旅で苦しむことが出来る。悲しむことが出来る。苦しむことは当たり前、悲しい事があるのは当たり前。しかし、自分のために苦しむのではなかったらいい、自分のために悲しむのではなかたらいい。

       

      新し掟を与える。互いに愛し合いなさい。新しい愛がある。

      自分がいない、相手が自分の中にいる。その人が生きる、それが、自分が生きること。

      それが出来る。兄弟だから。それがイエスの愛だから。

    • 復活節第2主日C(神のいつくしみの主日) 19-4-28

        イエスはわたしたちに新しいいのちを示されました。この世の命は終わります。しかし、この世の命は神様のいのちに包まれています。この世の旅を終え、神様の世界に入るのです。この世の旅、自分を捨て、自分の十字架を背負い、イエスに従う事だと思います。

       

      弟子たちはイエスの最後の出来事が分からなかった。イエスが十字架にかかって殺された、それがどうも納得できない。神様のみ心を持っていたイエスが、神様の力を持っていたイエスが、敵の手にかかって、何の抵抗もせず殺されてしまった。神様は動かなかった。万軍の主は来られなかった。

       

      弟子たちはイエスと一緒に生活した。イエスによって神様のみ心と出会ったと思った。神様の力を知ったと思った。わたしたちはイエスによって神の力を現されると思っていた。イエスはイスラエルの王。新しいダビデ。しかし、自分たちの主イエスが十字架によって殺されてしまった。イエスは何だったのか。神様は何か。自分たちは何か。弟子たちはほっぽり出されたのです。

       

      弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、集まっている家に鍵をかけている。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち言われました。「あなたがたに平和があるように。」そう言ってから、息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

      閉じ籠ってはいけない。さあ、立ち上がりなさい。閉じ籠った目で人を見てはいけない。閉じ籠った目で出来事を見てはいけない。自分たちの仲間だけでいるのではなく、立ち上がって出て行きなさい。平和を造って行きなさい。平和とは、人と人のつながりではないですか。人と出会ってつながる。心と心がつながって行く。互いに与える者になる。隣人のために働くのです。

      隣人:助けがなければ生きて行くことが出来ない人です。

      隣人を大切にする。隣人を自分のように愛しなさい。

       

      聖霊を受けなさい。イエスが聖霊を注がれる。清い心で人を見る、出来事を見る。罪が見える。罪を赦す力を与えようと言われます。罪は糾弾するものではありません。罪人を仲間から外すのではない。罪人を自分に関係のない者とする、それはその人を殺す事です。その罪を行った人の心に優しさを与えなさい。

      罪:壊そうとする心、壊そうとする力です。憎む心、騒々しい心。欲求、欲望のうちにある心、力。

      罪が目の前にある。その罪を受け取り、優しさで返しなさい。

       

      その時、トマスはいなかった。ほかの弟子たちがイエスに会った、イエスと話したという。何を言っているのか。イエスは死んだ。墓に葬られたじゃないか。あの方イエスに出会ったら、その手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

       

      イエスは来られた。トマスに言われる。

      信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

      見ないのに信じる者は幸いである。

       

      マグダラのマリアが墓でイエスに会った。走って行き、ペトロと仲間に伝えた。誰も信じない。

      エマオへ行く弟子たちがイエスと会った。イエスと歩いた。イエスと話した。イエスのまことの出来事を、その時知った。エルサレムに帰って伝えた。誰も信じない。

      大勢の仲間たちがイエスに会った。話を聞いた。聖霊を受けた。新しい命を知った。トマスは信じない。 仲間の信仰のうちに、真剣に求める心を信じなさい。仲間を大切にする。神様に従順になる。  新しい命を信じます。

    • 復活の主日 日中のミサ 19-4-21

       ご復活おめでとうございます。

      「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」 墓は入り口の石が取りのけられている。入口が開いている。墓にはいませんというしるしではないですかと思うのです。ここは新しい墓、イエス様しかいない。イエスは墓に閉じ込められる命ではない、自由ないのちに生きている。そんなしるしだと思うのです。

      ペトロ、ヨハネも墓に向かって走った。墓の中を見た。ご遺体はなかった。ペトロは思った。わたしはイエスを見捨てて逃げてしまった。イエスの苦しみの時、イエスのもとから離れた。つながろうとしなかった。 イエスと一緒に生活していた。イエスの言葉、行いのうちにいた。イエスの言葉、行いに心を打たれていた。しかし、わしたちは力ある預言者イエスのうちにいる。イエスはダビデの子。イエスこそ新しいイスラエルの王となる。今、イエスは王となる道を歩いている。

       

      イエスは言われる。地上の生活の思いから離れなさい。わたしの言葉の奥にある、行いの奥にあるわたしのまことの心を見なさい。わたしの命を見なさい。わたしの心のうちに入りなさい。わたしの命に神を見なさい。

       

      あなたの見ている神殿は壊れる。わたしが壊す。 王であるべきキリストの姿が壊された。いや、壊れる道を歩んだ。神様の神殿が壊された、まことの栄光によって壊された。まことの神殿が造られる。今見ている神殿が壊されなければ、まことの神殿を見ることが出来ない。

       

      神様の姿を持つ人イエスは人々の前で壊されていった。

      そして、三日目に新しいいのちに生きる姿を現わされた。これこそ神様の栄光。

       

      イエス様、あなたに従います。

      あなたのいのちの道を歩みます。

      主の復活に感謝。 

    • 聖金曜日・主の受難 19-4-19

        わたしたちの一番大切にしている、神様の姿であるイエス様が十字架に釘付けにされ殺された。静かに時を持つ、生活を見つめる、命を見つめる。わたしたちは何を大切に生きているのか、もう一度考えたいのです。

       

      過越し祭の準備の日、正午ごろ、イエスは裁判にかけられました。

      「イエスはあなたたちの王。わたしがあなたたちの王を十字架につけるのか。」

      祭司長たちがピラトに言います。「わたしたちには皇帝のほかに王はありません。」 皇帝がわたしたちを守ってくれる。この世に生きることが出来る。どんな体制であっても生きる。今、ローマの植民地になっているが、皇帝に従順であれば生きることが出来る。今、この命を大切にします。皇帝のほか王はありません。 生きるとは何ですか。神様とは何ですか。

       

      律法とはこの世のものですか。地上の生活のものですか。

      律法によって一人一人の生活が守られているのではないですか。命が守られられ、穏やかに暮らせる。祭司、律法学者によって律法が管理されている。律法は神様の心に通じている。

      律法は悪を裁きます。人を苦しめるものを裁き、悪を取り除きます。

       

      律法は神様のみ心ではないですか。神様はいのちの喜びのために、まことの命を愛するために世を造られたのです。地を造り、天を造られた。人を世に送られた。地上の生活は大地に支えられ、天に支えられている。地下からの水に支えられている。地上の生活はすべてのつながりの中にああるのではないでしょうか。

      律法は地上を超えるもの。地上にだけあるものではない。律法はすべてを超える方と地上に住む人とのつながりではないですか。一人一人の人は神様とのつながりによって守られるのです。

      律法は悪を裁くというけれど、律法は神様のみ心だから、律法によって悪を裁くのではなく、神様の温かさを知る者になる、神様の憐れみを知る者になるのではないですか。

       律法は言うのです。神様のもとに戻りなさい。

       

      まことに生きる。今、わたしたちは皇帝のもとにいます。皇帝のもとで、わたしたちイスラエルは生きている。イエスにイスラエルの人々は集まっている。イエスのもとに集まるイスラエルは伝統ある、信仰の民イスラエルではない。信仰の自由、独立、紛争の種を蒔いている。イエスのイスラエルは今この時の平安を壊す。我々にとってイエスは必要ない。イエスは皇帝に逆らうもの、この世の今ある命を壊すもの。

       

      イエスの示されるいのちは神様からのいのちです。神様からのいのちによって人は生きているのです。この世を神様の命によって生きるのではないですか。まことの王は神様です。皇帝ではない。皇帝の奴隷となって生きるのではない。皇帝の求めるものは、自分の体を喜ばせるもの、自分の心を名誉、地位、知識で喜ばせるもの。

      わたしたちは神様の道具となって生きるのです。神様の道具は、一緒に生きるものが見えます、聞こえます。苦しんでいるもの、悲しんでいるものが見えます、聞こえます。道具は、神様の耳となって、口となって、その人たちに慰めを与えたらいい。助けを与えられたらいい。

       

      まことの自由は隣人が見えることです。人のために働くことが出来る事です。

      イエス様は十字架によって命を奪われました。 イエス様はまことの自由に方だった。

      隣人のため声をかけ、業を行い、いのちの喜びを示された。

      自由を奪う人のためにいのちを落とされた。まことの自由を示すため命を落とされたのと知ったのです。いのちをかけて神様を示されました。神様の喜びを示されました。

      わたしたちの目の前にイエスの十字架が立っています。あなたの生活は何に向か会っていますか。
    • 主の晩餐の夕べのミサ 19-4-18

        過ぎ越しの食事でしょうか、イエスは食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。盥に水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた。ペトロが言う。「主よ、わたしの足を洗ってくださるのですか。」 

      イエスは言われる。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」 「わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもしなさい。」

       

      信仰:神様が教えてくださった道を歩みます。神様から教えていただいた正しい事をする。弟子たちは、今の社会で教えられている祭司、律法学者たちの教えに心が動かない。イエスの話に心を奪われている。イエスの行いに本当の憐れみを見ている。毎日、イエスの話を聞いている。イエスの業を見ている。目が見えるようになった。聞こえない耳が聞こえるようになった。歩けるようになった。手が動くようになった。イエスの姿に心を奪われている。イエスと一緒に歩きたい。イエスの道を歩みたい。 自分たちの信仰を見つめる。これが本当の信仰か。 イエスの話を聞く。その出来事にまことの憐れみを見る。業を見る。まことの憐れみを見る。しかし、イエスの話の内容の憐れみを受け取っているだけではないか。イエスの業の憐れみを受け取っているだけではないか。

      イエスの心の中に入って、イエスと一緒に歩きたい。与える者にならなければイエスと一緒に歩いていることにならないのではないか。

       

      ある青年が(女の人です)マザー・テレサの写真を見ています。「マザー・テレサが好きなんですか。」「マザー・テレサの言葉、行いに心を打たれています。わたしはまだ洗礼を受けていないのです。この復活祭に洗礼を受けます。マザー・テレサは万難を排して人のために働きました、人を大切にしました。ノーベル賞を貰いましたね。」 この女の人は、人のために、自分の利益のためでなく、働いたことに心を動されたのです。自分も人のために働きたい、そんな心があると思います。

      それが神様の求める信仰ではないでしょうか。

       

      弟子たちもイエス様がよく分からなかった。

      イエス様は言われていると思います。善いと思ったことを行いなさい。それが正しいかどうか考える前に行いなさい。律法に適っているか、常識に適っているかを考える前に行いなさい。

       

      食事をしている弟子の前に腰を下ろし、イエスは言います。わたしはあなたの足を洗います。

      それは奴隷の姿ですよ。おやめ下さい。

      わたしはあなたたちの足を洗うほど、あなたたちを大切にしている。これがわたしの愛です。奴隷の姿だと人は言うかも知れない。自分の名誉も尊厳も捨てるほどあなたたちを大切にしているのです。 わたしがあたたちの足を洗いたい愛と、常識とどちらを選びますか。常識を選んだら、あなたたちへの愛を示すことが出来ない。

       律法のうちに判断する。常識のうちに判断する。それ以上に、心のつながりを見つめなさい。

       

      「このお饅頭は神様に献げるものですよ。誰も手をつけてはいけません。」嫁さんがそう言いつけます。子供たちは言う通りにします。お母さんが食べたいという。嫁さんは言います。「お母さん、お母さんがどうしても食べたいと言っても、これは神様のものだから、食べてはいけません。」

      イエスは言われます。「この献げ物は神様を喜ばせるものではないですか。お母さんが食べたいとおっしゃっている。差し上げなさい。お母さんもこのお饅頭を食べて一緒に神様を賛美するのです。家族が神様を大切にしている。家族がお母さんも大切にしている。神様にその心が通じないと思っているのですか。皆で喜ぶ、それが神様への一番の献げものです。」(律法に父母を大切にしなさいとあります。)イエスの心のうちに入っていますか。律法が求めるのはイエスの心に入っているかどうかです。 わたしがあなたたちの足を洗った。あなたたちもわたしと同じようにしなさい。
    • 受難の主日(枝の主日)C  19-4-14

        夜が明ける頃、イスラエルの全民衆はイエスをピラトのもとに連れて行った。「この男はイスラエルを惑わし、自分が王であると言っております。」

      ピラトはイエスに問います。「お前は王か。」

      イエスはピラトに答えます。「あなたの思いは人伝えからのものではないですか。」

       

      イエスは問うておられるのです。あなたにとって王とは何ですか。

      わたしは神様のうちにある王です。神様のみ心で人々を包む王です。上から力をもって命令するのではなく、皆の下にいて、下から皆を支える王です。皆に神様を知ってもらうための王です。人に、皆にまことの平安を与える王です。人のために働く王です。また、人の罪を背負う王です。人々を罪から解放するために働く王です。

       

      ピラトは言う。「ヘロデもわたしもこの男を調べたが、死刑に当たるようなことは何もしていない。」

      しかし、人々は、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫び、要求し続けます。

      人々の要求は大きい。ピラトはイエスを人々に引き渡しました。

      イエスは十字架を背負って歩きます。

       

      自分の姿を人々に見せるのです。人々はイエスの惨めな姿を見ます。 

      イエスにとって、人々の罪が十字架となって自分を苦しめている。 人々はイエスは自分の罪のために罰を受けて苦しんでいると思っている。人々はイエスが見えない。イエスを見ていない。

      イエスは十字架に釘付けされている。苦しかったら、お前の持っている人の力を超える力によって、自分を救ったらいい。お前は病気の者を癒した。悪霊に取りつかれている者の悪霊を追い出した。死んでしまった者が生き返った。お前は助けを求めている者を救い出した。お前は神様の力を持っているのではないか。今、お前はお前を救え。

       

      メシア、救いを与える者。人々は、わたしたちはメシアを求めている。まことの救いを求めるとは、自分の罪を赦してください、自分に安心をくださいと言うようなものではない。隣人を手助けできる、隣人に救いを与えるということではないでしょうか。メシアを求めるとは、自分が救われたいからメシアを呼ぶのではなく、自分もメシアのあとを継いで与える者になるという思いがあるのではないでしょうか。

       

      イエスの十字架の苦しみはすべての人の罪を背負っている苦しみです。

      イエスの右左に犯罪人が十字架につけられている。一人が言う。「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ。」 もう一人が言う。「俺たちは自分の罪のために十字架にかかっている。この方は何も悪いことはしていない。イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」  イエスは言われた。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」

       

      神様に心を向けなさい。どんな悪い事をしても、誰にも相手にされなくても、神様の名を呼びなさい。神様は必ず応えられる。

       

      イエスは午前10時頃十字架に釘づけにされ、昼3時ごろ息を引き取られました。

      イエスを知っていたすべての人、ガリラヤから従って来た婦人たちは遠くに立って、これらの事を見ていた。

       

      神様はすべてを見ておられます。

    • 四旬節第4主日C 19-3-31

        神様はキリストを遣わされました。キリストを通して神様のもとに帰るのです。神様に受け入れてもらう者となる、神様の心の中に入りなさい、神様に従順を約束するのです。 人はあの時、神様のみ心から離れ、知識、経験による力を求めました。神様から離れました。エデンの園を追われました。 神様は言われるのです。キリストのうちに生まれる、新しく創造される者になりなさい。

       

      父さんは毎日の生活の中で、息子たち、兄さんと弟に神様の思いを教えていました。神様と出会いなさい。神様の思いのうちに歩むのです。 弟は自分の思いのうちに生きたかった。父さんの言葉は自分の思いを締め付けるだけだった。自由になりたい。自分の思いが全く無視されている。自由になりたい。自分の思いのうちに生きたい。

       

      兄さんは父さんの言葉に神様の律法を合わせて聞いていました。父さんの言葉に反対することはなかった。わたしは父さんに仕えます。わたしは父さんの言いつけに背くことはありません。

      弟が帰って来た。無理を言って、貰った財産を全部使って全部無駄使いしてしまったのだ。貧しい姿で、何も持たず帰って来た。

      弟は何もなくなった時、自分を見つめた。自由とは何かを考えた。自分の欲求は何だったのか。自分の欲求のうちにいた時、自分には何も見えなかった。何も聞こえなかった。父さんの心が見えていなかった。父さんの自分への愛が見えていなかった。

       

      兄さんは弟が帰ったことを知って不愉快に思った。怒った。あいつは家を捨てて、神様を捨てて出て行ったものだ。わたしたちから全く離れた。わたしたちには係わりのない者となったのだ。

      兄は言った。父さん、あなたはあの男を喜んで迎えている。あの男は父さんの思いを裏切ったのではないですか。それなのに、良い服を与え、履物を履かせ、指輪をお与えになった。それ以上に、あなたはあの男に盛大な宴会を開いて喜びを示している。わたしは不愉快です。

       

      兄さんよ、わたしの息子、あなたのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び楽しむのは当たり前ではないか。 わたしとあの弟は出会ったのだ。まことにつながった。心と心がつながった。まことに父さんと子になったのだ。

      お前はわたしのために働いていいると言っている。心からわたしのために働いていたのか。わたしに背いたことは一度もないと言っている。お前の従順は律法による従順ではないか。わたしの心にぶつかって来なさい。

       

      信仰とは何ですか。

      神様の道を歩むとは何ですか。

      神様とは何ですか。

      自分は何を求めているのか考えなさい。

    • 四旬節第3主日C  19-3-24

        モーセが問います。「あなたの名前は何ですか。」 神様は言われます。「わたしはあるという者だ。」 「ある」は存在です。「ある」は生きているということではないかと考えました。

      神様は言われます。わたしはある。ものはわたしによってある。わたしによって生きている。わたしはあるを表現した。見えるもの見えないものを造った。造られたものによって世界が出来た。神様によって生きる力が生まれる。物の大もとは神様。命の大もとは神様。

       

      わたしたち周りを見ます。わたしたちは自然に囲まれている。神様のみ心によって自然がある。わたしたちの世界は神様のみ心の場です。生きる、神様のみ心によって生きる。自然は神様のみ心によって生きている。人は神様の命を注がれて生きている。生きることは喜び。生きる喜びが与えられる、そして、それが愛。

       

      苦しんでいる者、悲しんでいる者、飢えている者、渇いている者、その苦しみ、その悲しみ、飢え、渇きをわたしに向って叫びなさい。わたしはあなたの声を聞く。

      自分ではどうしようもない壁にぶち当たったら神様に祈りなさい。神様は言われます。わたしはあなたを見ている。あなたを心にかけている。あなたのもとに行く。

       

      わたしたちは神様の道を歩みます。神様のものとなったのです。あなたたちはわたしの霊的な食物を食べている。わたしの霊的な水を飲んでいる。霊的な食物、霊的な水とはキリストです。キリストを食べ、キリストを飲んでいるのです。

       

      ローマ人によってガリラヤの人たちが殺された。イエスに告げる者がいる。イエスは言われる。

      わたしはエルサレムでシロアムの塔が倒れて18人が亡くなった事を知っている。多くの人たちが災難遭っている滅んでしまったと思われている。その人たちを思い起こしなさい。その人たちが全くの犠牲なのか。その人たちが悔い改めて信仰の道を歩いていたら、その人たちの死は人々の心を打つだろう。その人たちも神様が呼ばれたのだからこの世の生活を終えたのではないか。その人たちの死は滅びではない。

       

      ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。ぶどう園は神様の場、そして、いちじくは信仰の木ではないかと考えました。主人は言います。このいちじくの木は3年も実がならない。こんな木は切り倒せ。園丁は主人に言います。もう1年待ってください。のまわりを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。 このいちじくの木に回心を求めます。悔い改めなさい。ぶどう園にいれば実がなると思っているのか。あなたが神様を求めなければ、あなたが実を結ぼうと思わなければ、実は出来ない。

       

      わたしたちはイエスと出会った。イエスは言われる。わたしの姿のうちに歩いてください。

      わたしの思い、行いがわたしの体。わたしの肉を食べてください。

      わたしの言葉が生きる水。わたしを飲んでください。

      そして言われます。ぶどう園で働きましょう。

    • 四旬節第2主日C  19-3-17

        イエスはわたしたちに言われています。

      神様の栄光に入りなさい。そして、神様の栄光とは苦しみです。 

      神様の栄光は苦しみなのですか、栄光は最大の喜びではないのですか。神様の栄光は命の喜び、一緒に生きる喜びではないのですか。

      わたしは新しい掟をあなた方に与えました。愛しなさい。神様を愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい。愛は喜びです。愛は与えることです。自分を与える。自分のすべてを与える。それは苦しみではないですか。苦しみがなければ愛はない。

      栄光は神様のわたしたちへの愛です。そして、愛、苦しみを知らなければ人を助けられない。

      神様の出来事すべてが神様の栄光です。神様の愛です。喜びも、苦しみも、悲しみも、その中に神様の栄光があるのです。

      今日の福音書を読んで、そんな事を思ったのです。

       

      「イエスは弟子たちに聞きます。あなたたちにとってわたしは何者か。」

      「あなたはメシア。生ける神の子です。」 

      「しかし、わたしは言っておく。人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

       

      ペトロは言いました。あなたは神の子、メシアです。神様の力をもって、わたしたち導く方です。

      ペトロあなたが言ったその言葉を忘れてはいけない。しかし、あなたが見るのはメシアである人の子が長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、ついには、殺されてしまうのです。

       

      しかし、わたしは今日も神様を語り続けます。神様の業を行い続けます。わたしについて来たい者は自分を捨てなさい。自分の十字架を背負いなさい。

       

      イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登りました。祈るために山に登られたのです。祈っているうちにイエスの顔は輝き、服は真っ白に輝いたのです。そして、二人の人がイエスと語っていいる。モーセとエリヤです。イエスは自分のエルサレムでの最期の姿、受難の姿をモーセとエリヤに語っています。 イエスは言われます。

      モーセ、わたしはあなたの業を完成する。イスラエルはまことのイスラエルに入る。

      エリヤ、あなたの業はわたしの姿によって完成となる。人々はまことの預言者を見る。

       

      ペトロは夢心地でその出来事を見ている。 モーセとエリヤが去って行こうとしているのを見て、イエスに言う。このすばらしい出来事、神様の出来事がいつまでも続いてほしい。モーセとエリヤがわしたちと共にいてほしい。イエス様、いつまでもわたしたちを導いてください。

      わたしは仮小屋を3つ建てます。1つはあなたのため、1つはモーセのため、もう1つはエリヤのためです。

      その時、雲が起こり、3人を包みました。そして雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」 雲が去り、そこにはイエスだけが残っていた。

       

      弟子たちにはイエスの道が見えていない。これからのイエスが見えないのです。自分の思いを捨てることが出来ない。自分の今持っている信仰の思いで考えてしまうのです。

       

      モーセは律法を忠実に行った者。律法を生きた。神様のみ心のうちに人々を守り導いた。40年民の不安が尽きることのない旅の指導者であった。神様に守られながら民を導いた。しかし、モーセはイスラエルの入ることは出来なかった。モアブの山からイスラエルを見た。そして、その時モーセは神様から天に呼ばれた。栄光は苦しみではないですか。逃げる事の出来ない苦しみです。しかし、いつもその苦しみに神様がおられた。モーセはイスラエルに導いた、しかし、入ることが出来なかった。完成はあなたのものではない。その栄光のためにあなたは働いたのではない。栄光はあなたが得をするためではないと神様は言われるのです。損をしなさい。わたしたちは最後まで損をしたモーセに神様の栄光を見ます。

       

      エリヤは神様に熱情をもって仕えた預言者です。バールの預言者を、450人の預言者を殺しました。王妃イザベルは怒ってエリヤを追い回し、殺そうとした。40日間逃げ回りました。(列王上191~) 神様のみ旨を行うこと、それは苦しみです。

       

      モーセとエリヤがイエスと話をした。イエスの歩く道が示されていたように思います。人々の罪を背負って歩く。苦しみのどん底に入られるのです。

       

      イエスは言われます。今見たことを誰にも話してはいけない。

      ペトロも、ヨハネも、ヤコブも何が起こったのかわからなかったと思います。

       

      すべての出来事に神様のみ心がある。

      苦しみのうちに神様のみ心がある。

       

      神土生木に感謝。

       

    • 四旬節第一主日C  19-3-10

        イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。ヨルダン川から帰られるとすぐ、イエスは荒れ野の中を霊によって引き回され、悪魔から誘惑を受けられたのです。

      この話を読んで何とも不思議な話だと思っていました。イエスはまことの神の子です。霊によって、神様の思いによって荒れ野、命のない所に導かれ、引き回されたのです。悪魔から誘惑を受けたのです。  

      イエスは洗礼を受けました。その時、イエスは聖霊に満たされました。神様の栄光がイエスを包んだのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」イエスは完全な知識を持っています、完全な知恵を持っておられます。

      しかし、神様はイエスに求めます。まだ足りない。だから、イエスは霊に導かれたです。

      わたしはイエスに何が足りなかったのか分からなかったのです。 

      イエスが人の世界に入って行く。その出発です。人の生活の中の喜び、苦しみ、悲しみを知る。人の心の中に入って行くのです。たとえば、わたしたちが中学を卒業したのち、社会人になる。少年が社会の中で会社に入って働く、賃金をもらう。高校を卒業したのち、社会人になる。選挙権を持つ大人になった。会社で働く。しかし、社会の人間関係は、社会生活には解答はないように思うのです。  イエスは神様の力を持っておられる。答案用紙はいつも100点です。満点です。

      しかし、足りない。飢える、食べ物が手に入らないから飢えに苦しむ、その空腹を知らない。苦しむ人に慰めの言葉を語る、悲しむ人に優しさを語る。その言葉に実感がない。

      その苦しさを知らないから、その悲しさを知らないから、その人の心に入って行けないのです。まなざしがその人の心に入って行かないのです。

      イエスは全部知っている、しかし、イエスは何も知らないのです。

       

      ちょっとこんなことを思い出しました。第二バチカン公会議が開催される前の時代、こんな本が出ました。「司教さん、地獄に行く。」そんな名だったと思います。司教さんは貴族のような生活をしています。司教さんを自分たちの職場に呼んだのです。司教さん、ここが工場の職場です。油のまみれた現場で、十何時間も働いているのです。寝る時間もないほど働かされています。大勢の、本当に大勢の仲間たちがここで働いているのです。司教さん、ここがわたしたちの世界です。

       

      子供の時、お母さんが、いつもいない寂しさ、お父さんが、ちゃんとしていない家庭生活があります。家族が皆で一緒にご飯を食べたことのない、家族で喜んだことのない、そんな生活があります。

       

      イエスは霊に導かれて、荒れ野にいます。

      荒れ野で誘われます。イエス、あなたに足りないものがある。それをわたしがあなたにあげよう。

      あなたがわたしに平伏せば。あなたが神様から離れれば、あなたを満足させよう。

      この世の繁栄、権力、この世界の見えるもの全部をあなたにあげよう。

       

      イエスは言われます。

      わたしは弱い人、貧しい人と一緒に生活します。

      わたしたちの神である父さんのところに皆集まります。

      父さんの思いのまま生活します。

      わたしたちはただ神様を拝み、神様に仕えます。

       

      四旬節、イエスの姿を日々見つめて行きたい、

    • 年間第8主日C  19-3-3

        日曜日、教会に集まります。ミサを祝います。安息日、神様を見つめます。わたしたちが命を与えられている。生きている。自然が与えられている。すべてが生きている。

      わたしたちは神様を知りました。神様は言われます。今生きている喜びを語りなさい。神様の恵みを感謝し、命の尊さを感謝する。皆と一緒に生きる喜びを感謝する。

      喜びの道を歩みなさい。一緒に生きる道を喜びなさい。教会に集まる。教会から出発するのです。

       

      イエスは今日言われます。盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。

      目の見えない人に道案内は出来ますか。目の見えない人に道が見えません。耳の聞こえない人に道案内が出来ますか。耳の聞こえない人には交通機関の音が耳に入ってきません。道を歩くことが出来ない。 

      そうか、目の不自由な人、耳の不自由な人はわたしたちではないのかと思うのです。わたしたちは見えると思っている。聞こえると思っている。しかし、神の国へ行く道がよく見えない。いや、神の国が見えない。 神様を漠然と知っている。神の国を漠然と知っている。神様への道が分からない。神の国への道が見えない。神様のみことばがよく聞こえない。

       

      神様はわたしたちを弱い者、小さい者として造られているのです。弱いとは、小さいとはよく見えない、よく聞こえない事ではないかと思うのです。もっと、見える者になりなさい。もっと、聞こえる者になりなさい。見ても見えない、聞いても聞こえない。開いている目が見えないとは、心の目が開いていない事ではないでしょうか。神の言葉が聞こえない。心の耳が開いていない事ではないでしょうか。見ているもの、聞いているものを心に刻みなさい。

       

      自分の心を見たいと思います。そして、自分の心の清さを求めたいと思います。自分たちの周りに悪がはびこっている。そんなことを感じます。悪は嫌だ。悪を懲らしめたい。自分が悪を懲らしめる。ほかの力によって悪を懲らしめてもらう。

      悪が見える。悪を懲らしめたい。あなたは今、目の前の出来事を裁いていませんか。あなたは自分の心を見た。自分の中に我儘がある。自分の事しか見ていない心がある。自分には隣人を助けたい心がない。自分がもっと清くなりたいと思っている。

      あなたの目にも丸太があるのです。自分の丸太を見ないで、どうして人にあなたのおが屑を取らせてくださいと言えるのですか。

      清さを求めているあなたは人の罪を見て、その人の苦しみが、その人の悲しみが分かればいいと思います。人の悪さを見つけた、人の罪深さを見出した時、その人を攻撃するのではない、その人の苦しさ、悲しさを思うのです。その人と一緒に歩けたらいい。その人が優しさを知ったらいい。温みを知ったらいい。光を知ったらいい。穏やかさ、おおらかさ、ゆったりとした居場所を知ったらいい。その人と、どこかにつながりが生まれればいいと思います。。嫌な奴、嫌いな奴と一緒に歩けたらいい、そんな大きな心が持てればいいのです。

       

      善い実を結びたいと思います。善い心を持つ、善い心から善い話が出来ればいい。善い業を行えればいいと思うのです。

    • 年間第7主日C  19-2-24

        イエスは弟子たちに言われます。

      人は神様の命を注がれて生きています。父さん、母さんのもとに一緒に生きています。毎日の生活に嬉しい事があり、失敗もある。喜びがあり、悲しい事や、苦しい事があります。いろいろな出来事がある、それは当たり前のことです。出来事、それはみんな神様からの出来事です。

      しかし、忘れてはいけない、大切なことがあります。それは、敵を愛することです。敵を愛しなさい。愛するとはその人のために働くことです。その人の必要を満たすことです。

      兄弟の一人、二人が敵となって向かってくる。あんな悪い事をする者も兄弟ですか。受け入れなさい。 あなたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者を祝福しなさい。 左の頬を打たれたら、右の頬を向けなさい。

      愛するとはその人のために働くことです。 求める者には与えなさい。誰にでも与えなさい。

      人に善い事をした。お礼を求めてはいけません。

      「元気になってよかったね。手伝いができて良かった。」と言いなさい。 

       

      ある人は求め過ぎている。我儘が過ぎている。自分が偉いと思っている。また、力によって奪ってゆく者がいる。騙そうとしている者がいる。 その人が本当に求めているのは物ではないと思います。騙して物を手に入れる。力づくで物を手に入れる。大金を自分のものにする。その人が本当に求めているものは自分が愛されているということではないでしょうか。心が満たされたことがない。愛されていなかった、子供の頃も甘えることが出来なかった。足りない、足りない。満たしたい。

      その人とつながることが出来たらいい。支えられていることが分かればいい。支えている人が、損をしながら手伝ってくれていることを知ったらいい。

       

      愛しなさい。互いに愛し合いなさい。

      わたしたちはイエスに出会った。その方は悪い人にも情け深い。何も出来ない人にも快い言葉をかけてくださる。悪い人にも希望を与えてくださる。人を裁いてはいけない。人を罪人と決めはいけない。どんな人も今終わるのではない。悪い人は、愛を行っていない人は、自分のことを第一に考えているのではないですか。 それはあなたではないですか。わたしたちではないですか。

       

      ある人が言いました。童話を書きたい。童話を読んでいると子供の世界が自分の中に広がって行く。自由な何の計算もなく、喜んでいる、悲しんでいる、苦しんでいる。夢の世界を味わうことが出来る。何も求めていない世界だと思う。でも、わたしの今までの人生は、真面目に暮らせればいいという生活だった。静かに、波風が立たないような平凡な生活をしてきた。

       

      野原で何も考えずに走り回っていた。暗くなるまでトンボを取ったり、蝶々を取ったり、溝の中に手を入れてザリガニを夢中になって取ったりしていた、そんな姿を思い起こしている。そんなことを文章にできたらいい。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と言う童話がある。天の川の世界を思い浮かべている。そこに電車が、鉄道が通っている。思いが自由だ。心が自由だ。そんな世界に心が和らぐんだ。なごんでくる。言葉が優しくなってくる。童話を書きたい。でも出来ない。自由になれない。

      わたしは言ったのです。馬鹿になったらいい。思い切り、損をする者になったらいい。相手に何も求めない。何もかも感謝する心を持てばいい。いつも笑いの心を持ったらいい。自分の思い切りの楽しい世界を作ったらいい。今の自分をやめたらいい。

       

      イエスは言われます。赦しなさい。与えなさい。その時、あなたはあふれるほど赦され、溢れるほど恵みが与えられる。

    • 年間第6主日C

        イエスは弟子たちと共に山から下りました。イエスの周りには大勢の群衆が集まって来ている。イエスは人々に神様のみことばを語ります。神様のみ心を語ります。

      イエスは思っていました。山の上から語りたくない。神様は今、わたしたちの前に、わたしたちの横におられるのです。今、ここに一緒におられる神様がみ言葉のうちに憐れみを示されるのです。

       

      わたしたちは今、お聖堂にいます。神様と向き合っています。イエスのみ言葉を聞いています。

      心で聞いていますか。イエスのみ言葉がわたしたちの内に、自分のうちに入って来ていますか。

      「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われます。」 この世を包んでいる神様のみ心を思いなさい。すべての出来事が神様の思いのうちにあるのです。 善き出来事があった。その出来事を喜ぶ。その喜びに心と体が弾んでくる、この喜びをいつも味わいたい。神様はそんな喜びを与えられる。 また、こんな出来事は、こんな苦しい、残酷な出来事は神様からのものではないと思ってしまう。決してこんなことが起こってはいけない。しかし、この出来事も神様の心を通してわたしたちに与えられているのです。人が行ったことです。目をそらしてはいけない。

       

      「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」 貧しいあなたは貧しい人の心が分かる。貧しい苦しさ、貧しいゆえの悲しさが分かる。 40年ぐらい前の話ですが、アフガニスタンに行ったことがあります。ヌンとかナンといってパン種が少ししか入っていないパンがあります。60センチくらいの長さで30センチぐらいの幅のあるパンです。それを買って食べる。歩きながら食べる。一枚5円ぐらいの値段だったと思います。アフガニスタンの人たちも、歩きながら食べる人がいる。食事なら家に帰って家族と一緒に食べたらいい。家族がいないのかも知れない、一緒に食べたい心がなくなってしまっているのかも知れない。貧しい心になっているのかなと思うのです。

       

      わたしも小学生の頃、皆、貧しかったのですが、給食がなかったので、昼ご飯にコッペパンを買って食べました。毎日、15円くらい貰って、パンと牛乳を買ったのかなと思います。

      今から考えると、もっとお金があったらいい。十分ご飯が食べられたらいいと思います。

      貧しくて苦しんでいるわたしたちにイエスは言われます。神の国はあなたたちのものである。自分のことに十分でないあなた、貧しいあなたが、その時、自分の心の小ささを知るのです。あなたの周りにもっと貧しい人たちがいる。隣人を思う、助けがなければ生きて行けない人の事を思いなさい。助け合いながら歩きなさい。あなたの姿を神様は見ておられる。神様の安心があなたに注がれます。この時、神の国への出発ではないでしょうか。 イエスは、今、飢えている人、今、悲しくて泣いている人の呼びかけられます。飢えを十分苦しみなさい。そして、飢えている人がいることを知りなさい。泣いている人、思い切り泣きなさい。そして、飢えが満たされた時、喜びなさい。大いに喜びなさい。泣いている人、慰め得た時、喜びなさい。大いに喜びなさい。そして、あなたが飢えた人に与える者になったらいい。悲しんでいる人に慰めを与える者になったらいい。一緒に喜ぶ。大いに喜ぶ。神の国への出発です。

       

      富んでいる人、満腹している人。貧しい人を見なさい。飢えている人を見なさい。富んでいる人、満腹している人、あなたたちは不幸だ。貧しい人の苦しみが分からない。飢えている人の苦しみが分からない。

       

      貧しくなりなさい。与える者になりなさい。今、イエスの言葉が分かります。

    • 年間第5主日C  19-2-10

        「イエスがガリラヤ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」 イエスは弟子たちに言われます。あなたたちもこのような人たちの仲間だった。あなたたちは今、わたしと共に歩く者、わたしのそばにいる者である。

       

      成人洗礼であるわたしたたちは、何度も、自分を見つめる時を持ったと思います。自分を変えたい、自分の生活を変えたい。わたしは、33歳で洗礼を受けました。学生時代から、格好つけて、名の通ったいろいろな本を読みました。何かと出会うことが出来ると思ったのです。また、わたしなどは旅が好きで、20代から、よく旅に出ました。景色と出会う、人と出会う。20代の前半に青森の恐山に行ったことがあります。下北半島の北端に尻屋というところがあり、そこで寝ころびながら空を見た記憶があります。その時、旅行中の青年に、商人宿があると教えられ、そこに泊まりました。京都出身の青年で、一緒に泊まりました。50年近く前の出来事です。その青年と今でも、お付き合いがあります。 洗礼を受けたきっかけは外国、見てやろう旅行です。旅先で全く一人になりました。お金もパスポートも航空券も取られてしまいました。洞窟で祈りました。助けてくださいと祈りました。10日間食べる物もなく、祈りました。洗礼を受けますと約束しました。日本に帰り、洗礼を受け、ついにはまことの生活を知りなさいと神父になる勉強をしたのです。

       

      自分を見つめる時を持った。自分を変える時を持ったのです。イエスを知りました。イエスの名のもとに多くの人たちが集まっていることを知りました。今日の福音では、多くの人たちがイエスの周りに押し寄せて来たと表現されています。情熱をもって、歩いて、歩いてイエスの話を聞きたいと集まっていた。木更津は今日も雪の名残があります。昨日、朝早くから雪が降っていました。朝早くからミサがあります。誰も来ないと思っていました。道が凍っていたら、車輪が滑る。しかし、3人も集まりました。何か嬉しかった。

       

      イエスは漁師である弟子たちに語られます。魚が取れないのですか。沖に漕ぎ出して、網を打ちなさい。シモン・ペトロが言います。「夜通し漁をしましたが、何も取れませんでした。」 夜通し、と言うのは、魚は夜、暗い時に水面に上がってくるそうです。徹夜して漁をした、しかし、何も取れなかった。でも、先生が言うのですから、やってみます。本当はやりたくなかった。自分たちは漁をして生活している。何十年も漁の生活をしている。先生と言っても漁については素人ではないですか。でも、「お言葉ですから、網を降ろして見ましょう。」 そしてその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。他の舟を手伝いに呼んだ。その舟も魚でいっぱいになった。これを見たペトロはイエスの足もとにひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」

       

      群衆の一員では物足りない。弟子となる。神父の道を歩みます。この道も大変な道です。大変だから、歩きたいのだと思います。聖なる道と言います。聖とは、俗世間を離れるという事ではないでしょうか。きリストの道は聖なる道です。わたしたち、皆、俗世間を離れる道を歩むのだと思います。この世の義理、人情から全く離れて、イエスの心の中に入る。命の大切さを心の底から考える、体の不自由な人の手伝いをする。生活を喜ぶ。

       一度、まことの祈りをしたいと思います。黙想に入ったらいいと思います。深く神様と出会う時を持ちたいと思います。 出発しなさい。出て行きなさい。神様はわたしたち一人一人に言われています。生活の喜びを現わしなさい。そんなことはわたしには無理と思ってしまう。でも、何かしたい。イザヤの召命の出来事を読みました。心に唇に火が触れる。そうか、わたしたちには赦しの秘跡がある。外に出る恥ずかしさがある。話しかける気おくれがある。それを取り外してもらいたいと思います。「わたしを遣わしてください。」と言いたいのです。  

    • 年間第4主日C  19-2-3

        2020年来年、オリンピックが開かれます。そのせいかどうか分かりませんが、いま、スポーツに興味が注がれています。様々な世界大会があります。日本のチームはどのスポーツも世界に挑戦する力を持っています。柔道、レスリング、卓球、バドミントン、テニス、わたしたちの子供の頃知らなかったサッカー、カーリングも強い。そして、体の不自由な人たちのためのオリンピック、パラリンピックも来年開かれます。忘れていました。冬の競技にはスキー、スケートのいろいろな競技があります。 勝てばうれしい。勝つために厳しい練習をする。体力の訓練、精神の訓練。自分の時間をそのためだけに使う。技術が進歩してゆく。若い選手が進んだ技術のうちに励んでいるのだと思います。水泳、卓球など、また、テニスなど、1617歳の少年、少女が力を持ち世界に名をあげる。

       

      スポーツの世界は選手の力の素晴らしさ、業のすばらしさの世界です。選手の世界だけではない、それを見ている人々の世界になっている。だから、勝つ、負けるが自分のことよりも、皆の思いを、皆の期待を満足させるものになっている。純粋にその選手のすばらしさをほめるのではなく、その選手は皆の期待を背負っている。すばらしい選手には国民栄誉賞などが与えられている。

       

      何か少しおかしいと思います。オリンピックの世界もおかしい祭典になってきていると思います。素直にスポーツの競技を楽しむ、見て楽しむ、やって楽しむ。そんな世界に戻れたらいいと思うのです。

       

      もっと大きな賜物があります。人が生きる。最高の道があります。それは命とつながる道です。生きる力の道です。その道とつながりたい:その道について言葉で語られた、道が分かったと思う、でも、その道に入ることは出来ません。その人とつながりたいと思っても、その人の中に入ることは出来ません。頭の中で考えている、それは自分の世界、つながらない。そのために、知識を必死で集めても、自分の財産を全部貧しい人の施しても、命を苦しんでいる人に与えても、愛がなければ無に等しい。愛が命とのつながりです。愛が生きる力です。

       

      愛とは、自分がいないということです。自分の利益を求めない。相手が自分の中にいるのです。相手の必要としているものを与えるのです。そして、その人が生きる。生きる喜びを知る。馬鹿になりなさい。今、自分に必要としていることは、必要としているものは、自分がかかわっている人が求めていること、求めているものです。

      最高の道とは命を生きる道です。自分が生きるのではない、かかわった人が生きる。かかわっている人は、ほかの人の助けがなければ生きて行けない。その人が生きる喜びを知った時、その喜びが自分の喜びとなる。助けを求めている人、その人が隣人です。

       

      その道はどこに通じているのですか。

       

      一緒に生きる命に通じています。愛に通じています。神様のみ心に通じています。

       

      ナザレの町、安息日です。イエスは会堂で聖書を読みます。手渡された聖書はイザヤ書です。イエスは語ります。神様の温かさ、優しさ、慰め、そして、厳しさ。父さん、母さんが自分の子供を慈しむように神様は自分の子を決して放り出さない。命の尊さを語り、命の喜びを語ります。

      会堂に人たちは思います。神様がイエスの口を通して語っている。しかし、ある人は言います。「あいつは、イエスは俺たちの近所に住んでいるヨセフの子ではないか。」

      会堂に神様を見ようとしない。会堂に神様がいない。神様を見ようとしない、神様の場所なのに、神様を聞こうとしないところには神様はおられない。清くなれない。

       

    • 年間第2主日C

        イエスはカナの婚礼で最初のしるしを行われました。 会食、その中でも、婚礼の宴は特に喜びの会食です。 家庭で家族が一緒に食事をとる。家族が一緒になって食べる、一緒に寝る、父さん、母さんは家庭のために働く。全部が一致のしるしです。その一つ一つを大切にしたい。今の社会ではあまり大切にされていないようですが、家族が一緒にいる。大切な時です。和やかさの時です。 仲間と一緒の食事をとる。一緒に時間を過ごす。例えば、力仕事の現場で長い時間一緒に宿泊した仲間、また、高校生の時、寮生活をした仲間に、絆が生まれます。一緒に飯を喰った仲じゃないか。そして、絆がある仲間と一緒に食事をする。食事をするから絆が生まれる。

      天の国の喜びを、神様を囲む宴で現わすこともあります。(イザヤ256-10、ルカ1616-

       

      カナで婚礼がある。町の皆、全部の喜びです。イエスも弟子たちも婚礼に招かれています。マリアは裏方で飲み物、食べ物の世話をしています。 婚礼、披露宴の席でマリアがイエスに近づき言います。「ぶどう酒うがなくなりました。」 ここで交わされるイエスとマリアの会話がわたしたちにはちょっと理解できないのです。考えてみました。母さん、何ということを言うのですか。宴会の席でぶどう酒がなくなってきた、母さんの心配は分かりますが、ぶどう酒を用意する、この出来事は普通の人には出来ないことです。人の子、預言者に人の力を超えることを頼んでいるのですよ。それをわきまえてください。そして、わたしが力を示す時はまで来ていません。その時は母さん、あなたが決めることではありません。それは、親子の問題ではありません。それをきちんとしてほしい。

      そして、イエスは静かに答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまで来ていません。」 母さんはそれに動じずに、召使たちに言います。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」 神様はここでニコッとするのです。マリアは婚礼の祝いに心を留めている。婚礼は神様の前の出来事ではないですか。神様の宴を祝っています。不足がある、出来る事をします。これは神様のみ心のお手伝いです。 イエスはマリアの気遣いを受け入れたのです。

       

      そこには清めのための水ガメが六つ置いてありました。一つに80リットルから120リットルの水が入ります。イエスは召使にその水がめに、水を一杯入れるように、お命じになりました。そして言います。宴会の世話役のところへ持って行きなさい。世話役は水の味見をした。水がめの水がぶどう酒に変わっている。世話役は言います。こんな良いぶどう酒は今まで飲んだ事がない。 

       

      清めのための水が、神様と人を結びつける善いぶどう酒に変わりました。

    • 主の洗礼C 19-1-13

        イスラエルは混乱の時代にいました。戦争に負けて、ローマ帝国の植民地になっている。生活を喜ぶ社会ではない。イスラエルが平和の国ではない、神様の祝福を持つ国には見えない。穏やかに時を過ごせない。民衆はメシアを望んでいた。混乱の中のイスラエルが強い羊飼いによって導かれたい。民衆はヨハネに望みを持ったのです。このイスラエルがヨハネによって神様を知るようになる、ヨハネによってまことの安心を得る。民衆はヨハネにメシアの力を見たのです。

      しかし、ヨハネは言います。わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は聖霊と火であなたがたに洗礼を授ける。

       

      その時、ヨハネのもとにイエスが来られた。彼から洗礼を受けるためである。ヨハネは言います。「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに…。」「洗礼は神様へ行く道の出発です。正しい事をするのは善い事です。」 まことの人間としてとして洗礼を受けたい。ヨハネのところに集まっている人の中にいて、列を作って待っていたのです。

       

      わたしは、なぜイエスが洗礼を受けたのか全く分からなかった。イエスは神様だから心も体も清い。神様だから心に神様のみことばが備わっている。

       

      洗礼とは何ですか。また、自分の洗礼を思い起こしながら、考えたいと思います。

       

      ヨハネの洗礼は:罪の告白、そして、神様からの水、命の水によって心も体も清められる。

      律法のうちに歩みなさい。律法こそが神様への道です。律法の教えによって、社会の常識を超える。神様のみ心のうちに生きるのです。

      悔い改めてふさわしい実を結びなさい。 悔い改める:正しい道を歩む、それが求められる生活です。神様を見つめて歩むのです。社会の中の自分を見つめて歩いてきた。その目の視点を変えなさい。 善い実を結ぶ。会堂に行く。出会う人とつながってゆく。親切にする。祈る。

       

      イエスの洗礼は:ヨハネの出発と同じように、今までの自分が死ぬ、新しい清くなった自分に生きるのです。洗礼は神様への出発です。神様の言葉に心の耳を傾けなさい。神様のみ心に耳を傾けなさい。

      あなたは命を知りました。命、喜んで生きることです。生き生きと生きる。

      律法は規則ではない。神様のみ心の道標です。神様のみ心のうちに働きなさい。

      律法のうちに生きる…イエスは言われます。わたしたちには古くて新しい律法がある。新しい律法を教えたい。 まず、神様を全身全霊で愛しなさい。第二に、隣人を自分のように愛しなさい。

      出会う人、特に、隣人を愛しなさい。神様を愛するとは、自然のために働くことです。人のために働くことです。律法のうちに生きるとは、自然を大切にすること、そして、全身全霊をかけて隣人を愛することです。隣人とは自分一人では生きて行けない人たちです。助けが必要な人たちです。

       

      ヨハネは言われました。アブラハムの子たちよ、あなたたちは自分たちを何と思っているのか。洗礼を受けている者たち、洗礼を受けているからと言って、自分たちを偉いと思っているのか。実に、実のならない木はみな切り倒されるのだ。

       

      イエスは言われます。実を結べない木がある。三年待っても実を結ばない木がある。切り倒すのを少し待ってください。もう一度肥料の与え方を変えてみます。実らない木にこれまで以上に、話しかけてみます。 仲間と一緒に生活出来ない小羊がいる。その小羊が仲間から外れて迷いだしてしまう。どこに行ったのか。羊飼いはその小羊を捜し回る。見つけだしたら喜んでその小羊を抱きかかえる。

       

      イエスの洗礼は、神様を忘れない、神様のために働くことの出発です。神様のために働くとは自然を愛すること、人を愛することです。よく愛することが出来るように、自分の欲求を少しずつ捨てて行く出発です。

       

      イエスの洗は、イエスの姿を見つめることです。イエスはまことの神様、イエスはまことの人です。神様は全部知っている。何でも知っているのですか。いや、神様は人の小ささ、人の弱さからくる苦しみを知らない。「欲」に連れられてしまう弱さ、そのために苦しみを知らない。悪の中に入ってしまった苦しみ、空威張りの苦しみを知らない、その苦しみを味わったことがない。

      イエスはまことの人です。神様はイエスに言いつけます。荒れ野に行きなさい。人としての弱さを味わいなさい。誘惑に立ち向かいなさい。イエスは苦しみを味わいました。そして、人の弱さを、小ささを心と体で知ったのです。

       

      イエスの洗礼を受けた。

      イエスはその人を見ています。「悪い事をしてしまった。」「どうしたんだ。自分のことしか思っていなかったんだね。我儘はいけないよ。少し祈ったらいいよ。」

      洗礼は素直になってイエスの道を歩むことです。

      何度も何度も新しい心をもって歩くことです。その道の出発が洗礼です。

       

      イエスの姿を見つめます。イエスの歩かれた道を歩んでゆきます。
    • 主の公現 19-1-6

        まことの神様、まことの主はイスラエルだけの神様ではない。イスラエルによってわたしたちはまことの神を知ったのです。赤ちゃんがまことの神。見えない神様が赤ちゃんとなってわたしたちの前に現れました。神様はそれを天体の現象によって現わされました。東方の学者がそれを見て、心が騒ぎました。世界を動かす新しい王が生まれた。その方に会いに行こう。その学者は占星術の専門家マゴイであったと今日の聖書と典礼に書かれています。ゾロアスター教の司祭職ではないかと考えられるのです。新しい王は宗教を越えて示された。まことの神は宗教、国を越えてその思いを知らせるのです。

       

      宗教という世界を日本では学問的に考えているように思います。出来上がった宗教団体の事を言っているように思うのです。お前は神道か、お前は仏教か。何だお前はキリスト教か。

      宗教とは何かを辞典で調べました。

      見えない力のある方への信仰。神様への信仰。 聖俗の世界を考え作る。 典礼、儀式を持つ。 道徳律を造る。 人の力を超える力を引き起こす。 祈り 世界観への参加、活動。 組織。

       

      主の公現:まず神様は言われたのです。神様の心を見つめなさい。 宗教の壁を越えなさい。国々の壁を越えなさい。東方の国から、熱心なゾロアスター教の学者がイエスのもとを訪れました。聖俗を越えなさい。生まれたばかりの神様の御子が飼い葉桶に寝かされている。 祈りなさい。

       

      ある人が王となる。その王は巫女さんの口を通して言います。この王は神様の力によって王となった。その神様の思いによって、その王の力によってこの国を支配する。

       

      神様は言われます。 まことの王はそうであってはいけない。王は一番仕事をするのです。考える仕事、力を使う仕事がたくさんある。神様の思いのうちに、自由に仕事をするのです。

      まことの王は、思いやりを持ちなさい。憐みの心を持ちなさい。隣人が生きるように手助けしなさい。皆が生きる。生き生きと生きる。そのために働くのです。

       

      王、あなたは自分の国に平和をもたらすために働くのではありません。あなたの国が他の国との交わりがうまく行くように働くのです。

      主は言われました。全世界に行って、すべての造られたものに神のみ心を宣べ伝えなさい。恥ずかしい事ですが、カトリック教会はまだ十分に主の公現を理解していなかったように思います。主の思いが全世界に広まる。力のある国が文明のない国を自分のものにしてしまったのです。その国の土着の、伝統ある文化を取り去ろうと思ったのです。その国に自由はなくなった。例えば、南米の国の言葉はスペイン語、ポルトガル語です。

      第二バチカン公会議はこの出来事を反省しました。国は自分たちの伝統をしっかりと保ち、大切にしなさい。国がその国であるように。その国の言葉で、自分の言葉で神様に祈りなさい。自分の言葉で神様と話をしなさい。だったら、国は国と全く違うから、教会は一つにならないのではないですか。いや、神様に向かう心は一つです。国と国は違う。だから一緒ではない。そうです。語り合いなさい。深く交わりなさい。西洋の修道士さんたちが一年に何回か来て、比叡山で禅をしています。体で知るのです。

       

      主の公現。神様はお一方。命を与えられるお方。慈しみ、憐みを与えられる方。喜びを与えられる方。差別はない。まことの自由を与えられる。自由とは隣人の命のために働くことです。

       

     
    • 神の母聖マリア 19-1-1

       大天使ガブリエルはおとめマリアを訪問した。「マリアおめでとう。あなたは神様から恵みを受けた。あなたは身ごもって男の子を生む。」「わたしが子を生むのですか?でも、わたしは何も出来ません。」天使は言うのです。「あなたの父さんヨアキム、母さんアンナの助言を受けなさい。あなたを囲む多くの人があなたを支えます。素直になりなさい。聞く人になりなさい。そして、何よりも神様を大切にしなさい。そして、ヨセフ父さんイエスと3人で豊かな家庭生活を送りなさい。赤ちゃんの笑顔にあなたも笑顔で答えなさい。あなたの子をあなたの心で受け止め、あなた温みで育てなさい。なりよりも、神様に向かう自分の生活を送りなさい。静かに、力強く働きなさい。ヨセフを助けながら働きなさい。そして、あなたはまず母さんとなるのです。神様の恵が限りなくありますように。」 マリアは男の子を生んだ。

       

      羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。真夜中、天使が近づき羊飼いたちを照らした。羊飼いたちの周りが明かるくなった。天使たちは言う。「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになる。布に包まって飼い葉桶に寝ている乳飲み子、その方が救い主メシアである。」羊飼いたちは言う。さあ、ベツレヘムへ行こう。その出来事を見よう。」羊飼いたちは急いで出かけた。そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜し当てた。飼い葉桶のそばにいる父ヨセフ、母マリアを見た。ヨセフ、マリアに天使たちの出来事を話した。聞いたものは皆羊飼いたちの話を不思議に思った。母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。幼子はイエスと名付けられた。

       

      父さんは母さんの手伝いによって働く。十分に働くのです。子が生まれた。父さんの子への思いが母さんを通して知らされる。人の温み、ほほ笑み・笑顔、おおらかさ、待つことを知るのです。そして与えることを知って行くのです。生きることは感謝、そして、与えることです。

       

      今日、新しい年を迎えました。新しい心で、微笑みをもっておおらかに、ゆったりと、神様の道を歩いて行きたいと思います。

       

    • 聖家族C  18-12-30

        今日、聖家族の祝日です。イエス様の家族を思い巡らしたいと思います。

       

      イエス様の家族を思い巡らす前に自分の育った家庭を思い出しました。

      子供の頃は楽しかった。物がない時代、貧しかったけれど、皆が貧しかったと思います。隣近所の家に醤油を借りに行ったり、おはぎを作る時、多めに作って近所の人たちにあげたりしました。

      町のちょっとした広場にテレビが置かれ、町の人が集まっていました。隣うちには早くからテレビがあって、夜、よく見せてもらいに行きました。 学校から家に帰ると言います。「ただいま、お母ちゃん何かある?」何かあるとは食べ物が何かあるかという事です。いつもお腹が空いていた。 お客さんが来ると お菓子や、果物がます。それをじっと見ています。親しいお客さんが、ひでちゃん、食べなよと声をかけてくれます。取って食べます。後で怒られました。

      外では、隣近所の子供たちと毎日、空き地で走り回って遊びました。そして、夕方になると、ひでおー、ご飯だよー、とお母ちゃんが呼ぶのです。

      そんな思い出がたくさんあります。家庭が一番のんびりする場でした。

      貧しかったけれど、食べられたからよかったと、今、思います。

       

      そんなことを考えると、イエス様の時代と似ているなと思うのです。

      イエス様の家庭では、貧しいながらもお母さんの工夫でおいしい手料理が出ていたと思います。父ヨセフ、母マリアそして息子イエスの家族は毎年過越祭を祝うためにエルサレムに出かけました。

       今で言うなら、復活祭のお祝いに東京教区の信徒が、東京カテドラルマリア大聖堂にあつまる、神様の日を東京教区の皆が集まって司教さんを中心に一緒に祈る、そういうことです。

       

      村で一緒にエルサレムに旅をします。祭りが終わった。帰路についた。一日分歩いた時、ヨセフ、マリアはイエスがいないことに気付いたのです。あぁ、イエスは自由だったんだなと思いました。村の仲間は兄弟のようです。イエスも近くの家の少年たちのガキ大将、子供たちのリーダーだったのでしょう。村の皆もイエスを自分たちの息子のように思っている。両親はイエスの行動に安心していました。父うヨセフ、母マリアは帰路、村の人たちと話をしながら歩いてきた。夜になってイエスが帰って来ない、どうしたのか。知り合い、親類に尋ねる。見ていないよ。エルサレムに帰りました。

      三日の後、ついにイエスを見つけました。イエスは神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、真剣に話しを聞き、質問をしているのです。母マリアはイエスに言います。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。父さんも母さんも心配して捜していたのです。」するとイエスは言う。「どうしてわたしを探したのですか。わたしは自分の家、父の家にいるのです。」父ヨセフ、母マリアはイエスの言葉の意味が分からなかった。母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めていた。

       

      父さん、母さん、これがあなた方息子の姿ですよ。両親の神様を思う心が、神様を大切にする思いが子に伝わっている、神様の思いがイエスの中に住んでいるのです。神殿がわたしの家。

      母マリアはイエスの自由な姿を見たのです。 イエスは神殿に強く引きつかれた。父の家にいる喜びがあった。心が父の家にいる。今、体と心が一つになって父の家にいる。神殿に自分の場所がある。 学者の語っている話を聞きます。神様を見ている自分の思いを語ります。自分は神様をこのように感じていますが、先生の意見は神様をむずかしく解釈しているように思います。神様をどのように感じているのですか。そんな質問をしていたのです。人々はイエスの賢い受け答えに驚いていたと記されています。

       

      父さん、母さんはイエスの安心の姿に驚いていたようにも思います。

      ナザレに帰り、イエスは今まで上に父さんと仕事をし、母さんの手伝いをしたのです。父さん、母さんはイエスの成長をより深く心の留めたのではないかと思います。

      聖家族、父ヨセフ、母マリア、イエスを思い巡らし、自分の家庭を思ったらいいと思います。
    • 主の降誕(日中のミサ)  18-12-25

        「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

         この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」

      ヨハネによる福音書を読みました。ついこの間までこの文章が、皆目わからなかった。

      初めに:何がが初めにあったという。どうしてその事が初めなのか。

      言があった:言があるとは何ですか。話す人がいた、聞く人がいたということですか。

      言は神と共にあった。言は神であった。言が神? ますます分からない。

       

      もっとイエスに出会ったのでしょうか。イエスの姿をもっと知りたいと思った。イエスが神様。人の命を超える方。人でありながら、人を超える方。イエスが神様、そして、言。言とは出来事ではないかと思ったのです。言は出来事の姿。イエスがおられる、イエスのみ心が語る、イエスが行う、すべての出来事が言。その言が神様によるもの、いや、神様の出来事がイエスの姿だと知ったのです。

       

      言は話を語り、聞く声に出す言葉ではないと思います。言は読んでわかる文ではないと思います。

      言は憐みの心です。例えば、あなたの話していることには言がない。あなたの文章には言がないと言いたい時がある。それはあなたの話す言葉には心がない、あなたの行いは心がない、もっと言ってしまうと、あなたには愛がないということだと思います。

       

      初めに言があったー神様が初められた。神様が時間を造られ、場所、空間を造られた。

      初めに、宇宙、地球を造られた。すべて神様の御心の業です。初めに神様の御心があった。神様の力が「しるし」となった。 初めに宇宙を造られた。初めに地球を造られたと読んだのです。

      万物は神様によって成った。言によって万物は動き始めます。

      第一日目、神様は光あれと言われた。光があった。光が宇宙に注がれた。宇宙は光に満たされた。この光は命の光、聖霊の息吹です。宇宙のすべてのものは神様とつながっているということを言っているように思います。

       

      神様は今日、この日、赤ちゃんをわたしたちに送られました。

      貧しい厩に生まれた。ここがあなたの寝るところです、生まれるとすぐ飼い葉桶に寝かされた。

      この子の名はイエス。「主は救い」という名です。

       

      イエスの命は光。神様によって生まれたまことの光です。

      イエスがわたしたちのために生まれた。

       

      クリスマス、おめでとうございます。

    • 主の降誕(夜半)  18-12-25

        今日はクリスマス。わたしたちは今夜イエス様の誕生を祝うために集まっています。

      今より少し前、クリスマスのミサは25日の午前0時に始まりました。真っ暗な中でミサが始まります。

       

      ここは田舎の村です。一人のおじさんがおじさんの弟の家族と一緒に住んでいました。弟の息子がおじさんに言います。「おじさん、今日の夜、クリスマスのミサがあるよ。僕たちと一緒に教会に行こうよ。」おじさんは言います。「みんな、行っておいで。おじさんは体の具合が少し悪いようだ。家の中で祈っているよ。」 弟の家族は家を出て教会に向かいます。12時近くになると、その村は真っ黒になります。皆、教会に集まっているのです。

       

      おじさんは一人、暖炉のそばの揺れ椅子に揺られながら考えます。神が人になる? そんな馬鹿々々しい事を誰が信じるのか。神は何でもできる、しかし、人は何も出来ないじゃないか。神が人となる、そんなことはあり得ない。あり得ない、信じられないよ。

       耳を澄ませば、遠く教会の鐘がなっている。「今日はクリスマスか。」

      おじさんは目を閉じ、まどろみかけている。

       

      すると突然、バシン、バシンと音がする。えっ? 続いてバシンと音がする。窓ガラスに何かがぶつかっている。何事かと、身を起こして立ち上がる。外に出る。そこに見たものは、空から鳥が窓をめがけて飛んで来るのです。空に鳥の群れが飛んでいる。おじさんは思う、あの群れは道を間違えた渡り鳥だ。寒空の中、、明かりを求めて、窓ガラスをめがけて飛んで来るのだ。一匹、一匹、窓ガラスにぶち当たり軒に落ちて来る。「何ということだ。」 おじさんは納屋に向かって走った。納屋の戸を開ける、窓を開ける。電気をつける。干し草を納屋にまく。おじさんは外に向かって叫びます。「こっちだ、こっちだ。こっちへ来い!」 しかし、鳥たちは次から次へとガラス窓にぶつかって死んでゆく。おじさんは「こっちへ来いよ」とつぶやくのです。「あぁ、わたしが鳥になって鳥たちに話しかけることが出来たなら」

       

      その時、おじさんは悟ったのです。神が人となったことを。おじさんはその場で膝まづいた。

      おじさんは、今、人となった神の愛を知った。

    • 待降節第4主日C 18-12-23

        わたしはよく言います。生活の中で、聖書、黙想の時を持つ、すばらしい事です。しかし、これらは全て信心業です。自分の部屋の出来事ではないですか。自分の部屋からから外に出る。自然と出会う、人と出会う。信仰は信心からの出発です。信仰はつながり、出会いです。信仰は神様とのつながり、自然とのつながり、人とのつながりです。

       

      出発の証を求める。罪の償いの証を求める。証し・「いけにえ」を求めているのだと思いました。

      「いけにえ」はつながりを求めています。しかし、「いけにえ」は信心業ではないかと思ったのです。罪を犯した時、償いを果たすための捧げもの、それが「いけにえ」となると思ったのです。神様に願いをかなえてもらうためにささげるもの、それが「いけにえ」となる。

      信仰のための証、「いけにえ」ではなく、自分の得のためにいけにえを捧げる、それが儀式となっているように思うのです

       

      キリストは「いけにえ」となりました。まことの命への出発、まことの愛への出発です。

       

      何かを願う時、本当に願う時、どんな捧げものよりも一番の捧げものはあなた自身ではないかと思うのです。あなたがその出来事に、考えのうちにいるのではなく、考えから出発して、体でその力に対するのです。 あなたが祈る、聖書を読む、黙想する。その力をもって人と接するのです。その「いけにえ」をもって自然と接する、人と接するのです。あなたが力を発揮するのです。

       

      その日、マリアは大天使ガブリエルの訪問を受けました。大天使ガブリエルから神様からのみ心を聞きました。神様の思いが自分に注がれたのです。と同時に、エリザベトが、子供は出来ないと思われていた女エリザベトが身ごもった、もう半年にもなることを知りました。

      マリアはすぐ旅に出ます。急いで旅立つと書かれています。急いでとは、ほかの用件は受け付けませんということです。マリアの心にはエリザベトの出来事、そして自分に注がれた出来事しかありません。この二つの出来事を一緒に祝いたい。 

      マリアは150㎞を越える距離を、山地、砂漠の道を歩いたのです。

      ザカリアの家に着きました。エリザベトに会った。マリアは挨拶をする。 わたしは神様から恵みを受けました。神様の道を行く者となりました。エリザベト、あなたも神様から恵みを受けたことを聞きました。 マリアの挨拶の言葉をエリザベトが聞くと、マリアの言葉、心がエリザベトの心と体に染み渡りました。その時、マリアの胎の子が喜んで踊りました。

      エリザベトは言います。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとはなんと幸いなことでしょう。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

       

      小さい者、弱い者が幸いを受ける。マリア、エリザベトは思います。何の取り得もないこのはしために神様は心を留めてくださった。小さい者、弱い者であることを感謝します。

       

      フランス、ルルドにベルナデッタという少女がいました。ベルナデッタは聖母マリアに出会ったのです。田舎に育ち無学文盲、無邪気な、しかし意志の強い少女でした。ベルナデッタは司教さんによって修道院に入ることが出来ました。しかし、修道院の中で、シスター同士でマリア様と会ったこと、その状況の事は話してはいけないと約束がありました。修道院で生活しています。院長さん、指導員シスターがベルナデッタに言います。「あなたは本当に何も知らないのね。もっともと勉強しなさい。あなたは本当に何も出来ないのね。料理が出来るようになりなさい、つぎはぎが出来るように、ボタン付けも覚えなさい。司教さんの指示がなかったらあなたはこの修道院に入れませんでしたよ。何故、あなたがマリア様に会うことが出来たのですか。何故、あなたが選ばれたのですか。」

      「神様が、誰にも負けないわたしの貧しさを知っておられたのだと思います。」

    • 待降節第3主日C  18-12-16

        待降節第3主日を迎えています。イエスの誕生を待つ。待てる人になりなさいと言われているよう思うのです。ゆったりと、希望を持って待つ。

      2朗読のフィリピの教会への手紙を読みました。この時、パウロは獄中にいるのです。暗い中に閉じ込められている。人と出会うことが出来ない。自然の息吹を味わうこともできない。陽射しを味わうこともできない。歩くこともできない。牢獄の中でパウロはフィリピの教会の人たちに言います。皆さん。主において喜びなさい。牢獄にいるからこそ、より強く神様を見つめる、より深く神様を思い巡らしているのではないかと思います。今、主と共にいる。わたしは、今、主と共にいることを喜んでいます。どんなことでも、思い煩いのはやめなさい。感謝を込めて祈る、願いをささげる。神様はあなた方の心を聞き入れてくださいます。 待つことは神様と共にいることではないでしょうか。

       

      神様のみ言葉がヨハネに降った。ヨルダン川の河沿いで、力強く、叫ぶように語ります。悔い改めて神様のもとに戻りなさい。天の国はわたしたちの前に来ている。わたしたちは一本の木です。悔い改めに相応しい、善い実を結びなさい。善い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれます。 わたしたちはどうすればよいのですか。

      学生ならば、知識に好奇心を向けなさい。自由である自分を見つめなさい。若い事を味わいなさい。 お母さんであれば、お母さんである思いやりを持ちなさい。受け入れる寛容な心、優しさで、喜びの心で語りなさい。 お父さん、与える者になっていますか。働いている。何のために働いているのか、もう一度考えなさい。今、どんな状態であろうとも、この社会を作っているのはわたしたちだと知るのです。 

       

      徴税人がヨハネのもとに来ます。「わたしたちはどうすればいいのですか。」「規定以上のものは取り立てるな。」 兵士も来ます。「このわたしたちはどうすればよいのですか。」「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」

       

      実は、今日は喜びの主日です。希望のうちに待つ。イエスの誕生を心を清くして待つ。ますます清くなって主を迎える。どうしたらいいのですか。愛する人になりなさい。その人と一緒に生きる。心が結ばれる。支え合うのです。隣人を自分のように愛する。愛する人がいる。自分が、自然に与える者になっている。得するものではなく、与える者になっている。

       

      待っている。全部が喜びではないでしょうか。

      わたしたちは聖霊と火で洗礼を授ける方を待っています。

    • 待降節第2主日C  18-12-9

        今日の福音書は歴史の教科書のような始まりです。聖書は歴史の本ですか。聖書で歴史を調べることが出来るのですか。いや、歴史は歴史の専門家に教わった方がよいと思います。 

      はこの世界に生きています。豊かな自然に包まれています自然の中に、仲間を作って生きています。自然の中におおらかに生きる。しかし、現代は機械の力が目覚ましく進んでいて、ある人は機械が食べ物を造っていると思っています。肉を食べる、血を見なくても肉が食べられるのです。お米を食べる、パンを食べる、野菜を食べる。土の中に入ってお米を作る、麦を造る、野菜を育てる。そんなことを考えなくてもいい。スーパー、コンビニで食べ物が、食べられるように並んでいます。食べ物を作っていると思っている機械に与えるのは自然が造ったもの、それを忘れてはいけないと思います。自然の中で働かなければ食べ物を得ること出来ません。あまりにも食べ物が人の手を通して与えられているので特に都会に住む人たちは、自然の中に生きていることが分からなくなってしまったのだと思います。

       

      人が生きる、それが歴史を作るのです。力ある者が自分のため、自分の家族、親類のために豊かな生活を求めます。歴史の初め、家族が、親類一族が一緒になって住んでいました。そして、部族が一緒になり、戦争が繰り返され、地域がまとまる。そして、国が出来るのです。強い国が弱い国を支配してゆきます。破壊力のある兵器、武器によって、または人が武器となって、他国を攻める、支配するのです。経済によって弱い国を支配します。一大帝国が出来るのです。

       

      今から2000年前、ローマ帝国の植民地、イスラエルでの出来事です。荒れ野に住む預言者ヨハネに神様からの言葉が降りました。ヨハネは罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。ヨハネは叫びます。イスラエルの人々、神様の御心のうちに生きなさい。神様のみ心、それが祝福です。喜びを喜ぶ。喜べない人がいる。なぜ喜べないのですか。なぜ苦しんでいるのですか。なぜ悲しいのですか。喜びは心から生まれるもの。その人の苦しみを受け取りなさい、悲しみを受け取りなさい。心がつながって、その人と一緒に歩けたらいい。 神様を見つめなさい。

       

      神様を見つめる。自分の命を思いなさい。自分の命を見つめながら、自然の生きている力、自然の持っている命の息吹と出会うのです。そして、人が皆神様の命のうちに生きている、それを思います。この世界にあるすべてのものに命がある。すべてのものが生きている。山がそこにある。川がそこを流れている。海がある。すべて造られたもの。場所と時間のうちに、そこに、その時ある。そのように造られている。そこ、その時はそのもののもの。そのものに与えられた時と場所です。わたしたちが今、ここにいる。家庭、家族の中にいる。仲間がいる。その中で生きている。家族と語る、友と語る。話を聞く。喜ぶ。 しかし、よく考えてみると、これらの事は皆与えられたものではないですか。すべてが与えられている。自然があった。人が生まれた。それ以前に、場所がある、時間がある。全部与えられているのです。すべてのものに命が与えられている。 この世を包む大きな力を知るのです。

       

      イスラエルは神様の言葉を聞いた。ヨハネは神様の言葉を聞いた。神様は一人一人に命を注がれ、人はこの世に生まれる。神様に愛されて、命が注がれ生まれる、そして、生きる。支えながら生きる。神様を見つめなさい。神様である主を見つめなさい。主イエス・キリストの姿を思い巡らしなさい。 見つめただけでは主を知ることは出来ません。自分の心の中で一生懸命祈る、愛とは何かを勉強する。苦しんでいる人を憐れむ、悲しんでいる人を思いやる。そこから出発です。人と出会い、歩きなさい。主の道を歩みなさい。その時、人は皆、神の救いを見るのです。

       

      救いは、願って待っていても与えられません。人のために働いた時、あなたを救いが包みます。安心が何かが見えます。平和が何かが見えます。

    • 待降節第1主日C  18-12-2

        待降節に入りました。イエス様の誕生を待ちます。イエス様はまことの王。 喜びを与えてくださる、慰めを与えてくださる、力を与えてくださる、誇りを与えてくださる、命を与えてくださる王です。

      全てを持っておられる方が赤ちゃんとして来られる。何も出来ない赤ちゃんが王様。神様からそんな不思議な出来事が与えられる。

      ちょっとよけいなことを話したいと思います。 キリスト教がローマ帝国に入って来た。ローマ帝国に広まっていた宗教はペルシャ由来のミトラス教というものでした。太陽の神ミトラスを崇拝する。日本でもそうですが、初日の出を拝む。正月、元旦に早起きして日の出に手を合わせる。 まことの光は、まことの温かさは太陽から注がれるものではありません。まことの光、温かさは命の喜びです。命を与えてくださる方がまことの神様です。神様によって生きる。生き生きと生きる。その神様こそまことの神様です。イエス・キリスト、すべてを造られた神、わたしたちを包んでくださる神、わたしたちと共にいてくださる神。ローマ帝国の人々が儀式のうちに拝む神様ではなく、共に歩んでくださる神様のうちに入って行ったのです。

       

      イスラエル、人々がエルサレムの神殿に感心をしている。なんて神殿は美しいのだろう。このような美しい石で造られている。見事な奉納物で飾られている。イエスは神殿に感心する人々に言われます。 「この神殿は何のためにあるのだろうか。この神殿が壊され、全く何もなくなってしまう一つの石さえ残らなくなってしまう時がくる。」 彼らは尋ねる。「それはいつ起こるのですか。それが起こる前にはどんなしるしが現れるのですか。」 「それがいつ起こるのかは、天使たちも知らない。人の子でさえ分からない。天の御父だけが知っておられる。」

       

      あなたがたは神殿に天の国の姿を見ているのではありませんか。天の国は柔らかな光に満ちている。優しく受け入れてくれる、慰められる、いつも喜びが心に満ちている。

       

      この神殿が壊される時が来る。あなた方が壊す力となっているのです。その時あなた方は言うであろう。神様はどこに行ってしまったのか。神様の憐れみは、慈しみは、わたしたちへの愛は消えてしまったのか。 神様は聞かれます。あなたたちの神様への愛はどこに行ってしまったのですか。わたしがあなたたちに求めた新しい律法をあなたたちは忘れてしまっているのですか。

      愛しなさい。 第一に神様を愛しなさい。第二に隣人を自分のように愛しなさい。

      あなたたちは清さを求めていない。隣人を見ようともしない。

       

      日常の生活の煩いで、心が鈍くならないように気をつけなさい。 社会は人が造っているのです。その中で自分が生活する。生活とは神様の命を生きることではないですか。生き生きと生きることです。社会の中に生きるとは人の心の中に生きることではありません。いつの間にか神様を忘れている。人と一緒にいて、人を自分と何気なく比較している。人の見栄の中に生活している。神様を見つめる目が消えている。神様に感謝する心が消えている。 隣人が見えない。自然の命が見えない。自然の力が見えない。心が鈍くなっている。

       

      その日が来ます。 その時、大地は揺れ動き、天は太陽、月、星に徴が現れる。人の力をはるかに超える力がわたしたちを襲いかかってくる。そのようなことが目の前に起こったら、自分に迫ったら身を起して、頭をあげなさい。恐ろしさを受け入れ、苦しい中にいて神様を見つめなさい。

       

      目を覚ましていなさいと教えられます。

      神様を忘れてはいけない。

      祈りを忘れてはいけない。

      イエスの姿を思いなさい。

      わたしたちがますます清い心をもってイエスの誕生を待ちたいと思います。

    • 王であるキリスト B  18-11-25

        王様って何ですかと聞いたら一番偉い人という答えが返ってきました。そうか、スポーツでも、ゲームでも一番強い人、将棋でも、碁でも一番強い人が王様です。 大人の人に聞けば、歴史の中の王様を思い浮かべると思います。 自分より誰も上にいない、支配の力を持つ者が王様です。支配しているこの土地は自分のもの、土地に住む人も自分のもの、その人たちの命も自分のもの、富も全部自分のものです。全部が自分のもの。自分が法律の力です。自分は何でもできる。

      お金があるから、王様は豪華かな服で自分を飾っている。儀式には金、宝石で飾った冠を頭にのせている。思う限りのきらびやかさを身にまとっている。

       

      実はわたしは昔、若い頃、社長になりたかった。お金が欲しかった。お金があればな何でもできると考えていました。欲しいものは何でも手に入る。思うことは何でもできる。 万年筆が半額以上で手に入りました。派手なネクタイをして、コール天のスーツ身につけ、見栄えのある姿で歩き回りました。一週間歩き回りましたが一本も売れませんでした。社長になるのはあきらめました。

       

      神様を知った時、自分の姿、自分の思いが本当に恥ずかしかった。

      物をたくさん持っている。高価な物、性能の良い物、見栄えのするものを持っている。それはあなたの見栄ある格好ではないですかと言われたのです。

      物を得る力を求めるのではなく、物を与える力を求めなさい。 本当に力のある王様は与えることの出来る人です。そんなことを教わったのです。

       

      わたしたちは信仰の道を歩いています。3つの道があるのです。

      預言職 祭司職 王職  の王職とは王様になりなさいと勧められているのです。

      イエス様の王とはどんな力があるのでしょうか。 今までわたしたちの知っている王様は力があって、皆を導いて行きます。イエスは言われます。王様は先頭に立って、皆を引っ張って行くのではない。みんなの世話をするのです。自分の力を皆のために使いなさい。仲間の皆を善く知りなさい。一人一人の喜び、悲しみ、苦しみ知りなさい。王様はよけいに働かなくてはいけません。王様の仕事はたくさんあるのです。

      そして、自分たちの仲間にいない人をも思います。助けを求める人たちとつながり合えればいい。

       

      イエスは王様です。イエス様は威張っていましたか。いいえ、イエス様は毎日働きました。

      イエスの毎日は人々と話すことでした。悲しんでいる人と話しました、苦しんでいる人と話しました。一緒に悲しみ、苦しみ、力を与えました。精一杯悲しんで、精一杯苦しんで今から出発だよと言って励ましました。病気の人を癒しました。皆と一緒に歩きました。人々はまことの王様の優しさを知ったのです。

       

      王様は一番上にいる人ではないよと言われます。皆を押し上げる、一番後ろにいるんだよと言われるのです。一人一人を知っている、一緒に歩くんだよと言われます。

       

      そんなことを思っていると、創世記に出てくるサレムの王メルキゼデクを思い出しました。

      サレムとは平和と言いう意味です。メルキは王、ゼデクは正義という意味です。

      サレムの国を造って行く王は正義の王です。(創世記1418~

      正義とは、全ての人が生きることです。そのために働くことです。体の不自由な人、精神的に助けを必要な人が生きることが出来る、そのために働くのです。弱い人が強い人の犠牲になって賃金が少なく働かされていないか、それを取り除くのです。

       

      王は救いを示します。救いとは働きたくなることです。人のために働きたい。
      王は喜びの宴を開きます。皆が呼ばれる。

      「あなたも呼ばれていますよ。」 

      「わたしは王のために何もしていません。何もしないのに呼ばれるのですか。」 

      「あなたは人を助けています。人に善い事をしています。見えないところで助けてくれています。

      ありがとう。一緒に楽しく、喜びの食事をしましょう。」

       

      まことの王様。

    • 年間第33主日B  18-11-18

        11月は死者を思う時です。1日に諸聖人を祝いました。2日は死者の日、4日の主日は追悼のミサを行い、そして、墓参に行きました。木更津教会の広々とした納骨堂で祈りました。館山教会の墓参では、きつい雨の降る中で祈りました。わたしたちと一緒に生きた。一緒に喜んだ、苦労を共にした。仲間、先輩たちを思い、祈ったのです。わたしたちは祈りのうちにつながっている。

       

      「死」を思う。それは「生きる」を思うことだと思います。生きるとは、たくさんの人と出会うこと。自然の生きている姿を心に留めることです。そして、わたしたちにとって、何よりも、神様を思うことではないでしょうか。 人と出会う、出会いが喜びです。一緒に歩む。その人と一緒に喜ぶ、その人のために苦労する。その人に助けられる。 

       

      生きている。命を見つめなさい。今、生きていることを思いなさい。そして、導いてくれた人たち、心に思いつく人たちを思いなさい。「生きる」、「死ぬ」は時間の中の出来事ではないでしょうか。

      先達が生きた。自分が生きている。子供たちが生きている。皆、命のうちにある。見える命、見えない命のうちにある。神様の内にあるのではないでしょうか。

       

      イエスは言われます。終末が来る。この世界が終わってしまう。人の力をはるかに超える力が全世界を覆う。人々は飢え、渇く。争いが起こる。傷を負う。殺し合いがおこる。天地が破壊される。洪水が起こる。太陽が暗くなり、天体が揺り動かされる。

      弟子たちが尋ねる。その日、その時はいつですか。 

      イエスは言われます。誰も知らない。天使たちも子も知らない。

      教えるものではない。教えられるものではない。 

       

      悟りなさい。 

       

      世に死者が溢れる時が世の終わりの時と知りなさい。 

       

      この世は生きている人たちで溢れています。生きている人たちが働いてこの世を作っています。 

       

      まことにこの世のために働いている人たちですか。死者とは神の命にいない人です。自分の命に生きる人です。自分の欲求のうちに、欲望のうちに生きる人、自分しか見えない人です。自然が見えない、人が見えない、社会が見えない、神様が見えない人です。いや、見えないのではない、見ようとしないのです。自分の力のうちに自分を満足させる人なのです。

       

      世の終わり、救い難い苦しみが始まった時、自分の安全を思う、自分の命を心配する以上に、隣人、子供、体の不自由な人のために働きなさい。

      一緒にいちじくの木の中に入りなさい。

      いちじくの木? いちじくの木はキリストではないでしょうか。

       

      わたしたちのこの世は命の世界です。神様から授かった命の世界。生きていますか。喜んでいますか。世を去った人と一緒に、子供たちと一緒に生きている。神様の大きな「いのち」のうちに一つに集まる。死を思うことは生きることを思うことです。

       

      先達を思いながら、子供たちを思いながら、大きないのちの中にあって、生きる道を歩いて行きたいと思います。

    • 年間第31主日 18-11-4

        神様はわたしたちに語られています。祈ります。み心を語ってください。聖書を読みます。

      聖書に書かれている出来事を理解したいと思います。イエスは町で人々に語りかけます。例えば、天の国をいろいろなたとえで話されています。天の国はあなたにとって何ですか。天の国はどこにありますか。天の国を語られているイエスの言葉はわたしたちに語られているのです

      またイエスは目の見えない人に出会う。見えるようにしてほしいと願っている。イエスはその人の目を癒します。見える物を見る目を与えてください。それ以上に、見えないものを見る目を与えてください。聞こえない人の願いを叶え、耳を聞こえるようにします。自然の息吹が聞こえる、相手の心が聞こえる、命が聞こえる耳を与えてください。 すべての出来事が心に入りますように。

       

      イエスの姿をどのように受け取っていますかと問われています。イエスの話を受け止めます。人々に話されるたとえを聞いて理解できる。イエスの憐れみの業を見て、イエスに感動する。そんな風に答えると思います。

      あなたは小説を読むようにわたしに出会っている、映画の場面を見るようにわたしに感激しているのではないですか。イエスは言われます。わたしは聖書の中でなく、今、あなたに語っているのです。わたしはあなたと今、一緒に生きているのです。わたしの言葉は頭で聞くのではなく心で聞いてほしい。心に留めてほしい。神様の姿を心の目で見るのです。心の耳で聞きなさい。聖書の中の出来事があり、そこにおられるイエスはあなたに向かって話をしているのです。

       

      イエスの姿を理解しようとしてはいけません。 理解して何が悪いのですか。 理解とは知ることです。知るとは自分の世界に入れることです。理解は自分の世界の出来事になってしまうのです。自分の世界の王様は自分です。神様を自分の世界の中で理解しているのです 

       

      イエスの姿を心で見る、イエスを心で聴きます。イエスが語っている。自分に語っている。心で聞く。イエスの言葉が心と体に入ってくる。イエスが自分に近寄ってくる。イエスが迫っているのです。

       

      サドカイ派の人々が復活についてイエスと議論していました。ある律法学者が、イエスが立派に答えられたのを見ました。その律法学者がイエスに尋ねます。イエスはどれほど聖書を知っているのか試したかったのでしょうか。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスは答えられました。「第一の掟は、これである。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」

       

      ユダヤ教の聖書は、わたしたちにとって旧約聖書ですが、39の文書によってなっています。そのうちの最初の5つの文書が律法です。わたしたちがモーセ5書と呼んでいるもの、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記が律法です。 律法とは人が神様と共に歩いている姿です。神様の導き、人の欲求の姿です。律法学者のイエスへの問いは、律法である聖書をあなたはどのように読んでいるかと問われたのです。 

      律法は条文によって人を罰するのではない。

      律法は神様のみ心、人を愛する神様のみ心です。

       

      イエスは言われます。

      神様のみ心のうちに生きる、律法のうちに働く、一緒に命を喜ぶ。

      あなたは神の国を見ている。

      神の国は神様のみ心の場。命の喜びの場です。神の国に向かって歩きなさい。

    • 年間第30主日B  18-10-28

        昨日のカトリック新聞で教皇様がこんなことを言っておられました。無関心は人を殺す。出会っている人に無関心である。その人の命に無関心である。その人の苦しみに、悩みに、その人の悲しみに、背負っている重荷に無関心である。その人の状態がどうであってもいい。生きていても、死んだとしても無関心。 わたしたちの生活は隣人に無関心、仲間に無関心ではないでしょうか。毎日の生活が、礼儀としての挨拶、会話によってあるのではないでしょうか。

       

      バルティマイという目の不自由な青年が道端に座って物乞いをしていました。目の不自由な青年の生活に人々は無関心です。体の不自由な人は社会に入れない。バルティマイは毎日、毎日、自分を考えている。神様は自分を捨てたのか。人々はわたしを見捨てている。道路に座る。今日食べられるか。 その日、イエスがバルティマイの座っている道を通る、自分の座っている道を通るということを聞きました。バルティマイはイエスの話はいろいろな人から聞いていました。イエスはすばらしい預言者だ。神様を語る、神様の業を行う。イエスが神様の口となって、神様の思いを語っている、神様の憐れみ、慈しみ、温かさ、慰めを語っています。そして神様の厳しさも語るのですまた、イエスは神様のみ心業を行うといっています。病を癒される、悪霊を追い出す、死んだ人に命を与えた、死んだ少女が生き返った、そんなこともあったという

      ある人は言う。イエスこそ、ダビデの子、イスラエルの王となる方ではないか。

       

      イエスが近くに来た。目の前を通っているようだ。バルティマイは叫んだ。「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください。」 大勢の人たちがイエスを囲んで歩いている。バルティマイは何度も何度も言う。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」 人々が黙らせようとして𠮟り付ける。バルティマイは黙らない。 イエスは立ち止まって言われる。「あの男を呼んで来なさい。」 人々は男に言う。「安心しなさい。立ち上がって歩きなさい。」 イエスが呼んでいます。その場から、今いるところから立ち上がり、歩いてイエスのところへ行きなさい。 

       

      イエスはあんなに叫んでいるバルティマイのところに行こうとしない。なぜ、あんなに叫んでいる目の不自由なバルティマイのところへ行こうとしなかったかと思いました。イエスは求めていたのですね。わたしのもとに来なさい。自分では来られない。手助けを頼んでわたしのもとに来なさい。

       

      「何をしてほしいのか。」 「目が見えるようになりたいのです。」 バルティマイは必死に見える者になりたいと思っている。

       

      イエスはバルティマイに信仰のうちに見えるようになると言われました。

       

      見える世界を包んでいる見えない世界があります。信仰によって見えない世界に入る。

       

      バルティマイはすぐ見えるようになり、イエスの道の中に入って、歩んだのです。

       

      バルティマイはイエスとつながりを持った。神様は無関心ではない。

      神様とつながる、自然とつながる、人とつながって生きて行きたいと思います。

    • 年間第29主日B  18-10-21

        イエスと弟子たちはエルサレムに向かって歩いています。弟子たちは待ち焦がれています。わたしたちがエルサレムに着いた時、神様の栄光が力をもってわたしたちを包む。神様のみ心によってイエスがエルサレムの王となる。ローマの軍隊も万軍の主の力にはかなわない。

       

      弟子たちは忘れています。このエルサレムに向かうイエスに厳しいものを見ているのです。イエスは先頭に立って進んで行かれる。そして言われたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

       

      ヤコブとヨハネがイエスのもとに進み出て言います。「イエス様、わたしたちの願いを聞き入れていただきたいのですが。」「何をしてほしいのか。」「わたしたちはエルサレムに着きます。神様の栄光によってその時が来ます。あなたがイスラエルの王座に着かれた時、わたしたちの一人をあなたの右に、一人は左に座らせてください。」

       

      「あなたたちはこのエルサレムへの道が分かっていない。エルサレムで神様はまことの愛を示される。わたしは父から杯を渡された。わたしが飲むこの杯を飲むことが出来るか。わたしはエルサレムで洗礼を受ける。この洗礼を受けることが出来るか。」

       洗礼:神様からの水で今までの自分が清められ、神様への道を新しく出発することです。

       

      ヤコブとヨハネは言います。「出来ます。わたしたちはあなたに従って歩いています。あなたに従うほかに道はありません。あなたへの思いで心は満たされています。」

       

      第一朗読イザヤ書にイエスの飲むべき杯、洗礼の厳しさを読んだのです。

      主はわたしを償いのいけにえとして選ばれた。

      自分の持つすべてをいけにえとしてささげなさい。自分の存在が献げもの、毎日の働きが全て献げもの、命さえも献げものとなるのです。自分の献げものによって、人の罪が解放され、末永く人のいのちが生きるのを見る。  多くの人が正しい事を知り、清さを求め、愛のために働くようになるためにわたしはわたしの僕を選んだ。あなたはわたしの僕。わたしの献げものとなるのです。

      これが神様の望まれていること。

       

      弟子たちにイエスは言われます。「あなたたちも高い地位に上りたいのか。高い地位について、自分の力を振いたいのか。異邦人の国のように、高い地位に上り、権力を振う、それが望みか。

      しかし、あなたがたの間ではそうではない。そうであってはならない。

      あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

       

      偉いとは何か、一番上とは何か。

      貧しいとは何か、

      体が不自由とは何か、

    • 年間第28主日B  18-10-14

        青年がイエスに聞きます。「善い先生、神様に善い者と認められるには何が必要なのでしょうか。 先生のように静かな心、知恵を求める謙虚な心、おおらかな、優しい、微笑みのある心を持つことでしょうか。貧しい人を助ける、苦しんでいる人に手を差しのべるそのようなことでしょうか。わたしは教会の教えは皆守っています。十戒の律法は子供の頃から守って来ました。」

      イエスは言われる。あなたの思いは、あなたの心がけは大切です。しかし、それらは善ではない。善の出発点である。

       

      愛の章と呼ばれていコリント書13章を読みました。

      そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えよう。(1231b

      たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(133

      愛を思った時、隣人が見える。 青年の求める心は大切な心です。静かな心、知識を求める、おおらかな、優しい、微笑みのある心。その善の心から出発しなさい。出会う人にその心を示しなさい。働きなさい。貧しい人を助ける、苦しんいる人の手伝いをする、行いなさい。愛がなければ、隣人がいなければ、心を示さなければ何にもならない。理屈を言っても何にもならない。あなたが持っている全財産を貧しい人のために使いなさい。命さえも隣人のために引き渡す覚悟を持ちなさい。 

       

      それを聞いて弟子たちは驚きました。そんなことは出来っこない。誰が救われるのだろうか。

      イエスは言われます。人が、あなたたちが、自分たちの思いで、自分たちの決心でしようとするのか。神にはできる。神の内に入りなさい。自分の思いを捨てなさい。

       

      12世紀の初め、イタリアのアッシジにフランシスコという青年がいました。戦争に行って手柄を立てて有名になろう。しかし、病気になって戻って来た。神様は病床に寝ているフランシスコに言われる。見えるもの、見えないものはすべて神様のものです。自分のものにしてはいけない。あなたは持っている物を自分の楽しみのためにだけ使っていたのではないですか。

      青年の家は商人。反物がたくさんある。ある時、青年は反物を窓から通りに放り投げた。必要な人は持って行きなさい。青年は言うのです。これこそ信仰です。父さんは怒る。司教さんを呼ぶ。道路で青年は司教さんの前に立つ。そして、自分の衣服を全部脱ぎ捨て言います。わたしの持っているものはすべて神様のものです。司教様、わたしの衣服を受け取ってください。道路にいた人たちは驚いてこの出来事を見ていたのです。

      フランシスコは神様の言葉を聞きます。教会を造りなさい。使われていない、崩れている聖堂があった。その教会を造り始めた。再建した。礼拝をおこなう。神様のみ心は違うと思った。見えない教会のために働きなさい。自分の持っているものは神様のもの。手に入るものは自分のため以上に隣人のためにに使う。財産、知識、名誉、権力は虚しい。フランシスコは貧しい生活を送り、貧しい人のための修道会を造ったのです。

       

      イエスに答えを求めた青年はイエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

       

      ペトロがイエスに言います。わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。イエスは言われます。あなたは与える生活を送っていますか。与え続けなさい。心も人のために働く心としなさい。捨てたあなたは今、与えていますか。善い生活という褒美を求めているのではないですか。善い生活のために与えている。あなたは自分のものを求めているではないですか。与える者になっていない。

       

      神様の言葉は生きている。神様の言葉はわたしたちを切り裂きます。あなたはわたしの前に何ですか。あなたは何を求めていますか。今、あなたはどのような道を歩いていますか。

    • 年間第27主日B  18-10-7

        主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

      人は住む所を得た。食べ物を、水を得た。種を蒔く、芽が育つ、成長する、収穫する。働くことを学んだ。体に必要なものを得るのです。そして、人は目を通して、耳を通して、自然の息吹を感じた。自然が心に入って来る。しかし、何かが足りない。そうです、語り合う相手がいない。心が通じ合うものがいないのです。神様は言われたのです。「人は独りでは良くない。」一緒に喜ぶ者、一緒に苦しむ者、一緒に考える者、語り合う者がいない。主は野に生きるもの、空に生きるものを人の所に持って来た。人はそのものをじっと見つめる。しかし、自分に合うものは見つけられない。目の前にいるそのものの心が自分の中に入ってこない。

      主なる神は人を深い眠りに落とした。眠りのうちにいる人のあばら骨を取って女を造られた。あばら骨は心臓を守るもの。命にかかわる、命を守るもの。人は眠りについている。女のことは全く知らない。主なる神は女を人のところへ連れて来た。人は女をじっと見つめた。

      そして言う。「ついに、これこそ わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

      このものこそがわたしの心と体に結ばれるもの。わたしは今、彼女に出会った。しかし、わたしたちは一つの身体、心と体が結ばれるものではないか。

       

      若い青年男女が結婚する。喜びのうちに一緒になる。結婚して月日が経つと、やがて新鮮さがなくなって相手が見えてくる。相手の気にくわないところを指摘したりする。一緒に生活出来ない。新しい女の人を考える男が出てくる。

      離縁したい。それなら離縁状を書けばいいと律法に書かれているとある人は言うのです。

      結婚する、離縁するはそんな簡単なことですか。 結婚は一生、一緒に歩く出会い、そして、出発の場です。二人の人格を受け入れる生活の始まりです。

      離縁したい?  離縁は夫婦の間だけの問題ですか。家庭がなくなってしまう。妻は夫に捨てられる。一人で生活してゆかなければならない。夫と支え合ってきたと思っていた。心のつながりが切れてしまった。それ以上に、子供は父さん、母さんに捨てられてしまったと思う。父さん、母さんが離れてゆく。自分のことは考えてもくれない。自分はほっておかれた。自分を守ってくれる人がいなくなってしまう。

       

      神様が結び合わせた者を人は離してはならない。

       それが神様のみ心ならなぜモーセは離縁を赦したのですか。

       

      それほどまでに人は頑固だったのです。

      一緒に生きる。夫婦であっても、二人は違って当たり前。不満があって当たり前。

      その時に、相手の悪いところを隠すことなく言い合ったらいい。二人とも耳を傾けるのです。話を邪魔してはいけない。話を遮ってはいけない。思う存分話す。相手の悪いところを言葉に衣を着せず話す。そして相手が語る。その時には、自分の悪いところがあからさまにされる。

      そして思ったらいい。今まで、こんな悪いことの多い自分のために働いてくれたのか。ありがたい。

      自分の悪いところを直しながら、話したり、仕事ができたらいい。

       

      律法は神様のみ心が書かれたものです。み心に入らなければ、み心を思わなければ、律法はただの規制です。

       

      子供のようにならなければ、神の国に入ることはできない。

      子供のように父さんに素直になりなさい。父さんの心に入りなさい。

      父さんの喜びが心に入ってくる。

    • 年間第26主日B 18-9-30

        弟子たちはイエスを中心に集まっています。イエスに声をかけられた。漁師であるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに呼びかけます。わたしと一緒に歩きましょう。魚ではなく、人をとる漁師になりなさい。収税人マタイ、立ち上がりなさい。わたしと一緒に、神様へ向かう道を歩みましょう。イエスの名によって多くの人が集まってくる。イエスと一緒に歩きたい。イエスの話に心を打たれる。清められる。病気を癒す業を行う。悪霊を追い出す。人々はイエスに力を見ています。イエスによって神の国が始まっていると思っているのです。 

       

      ヨハネがイエスに言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」     

       

      イエスは言われます。その人に神様の力が注がれた。善い事を行った。喜ぼう。

       

      わたしたちは教会に集まっています。教会で神様と出会うのです。善い事を行うために、善いことを行う者となるために集まっているのではないでしょうか。

      もしかしたら、自分が清くなるため、キリスト信者であるから教会に来るのですと思うかも知れない。教会で神様の言葉を聞く。人と助けることを行う。それがなかったら、清くなることは出来ない。洗礼からの道、神様に向かう道を歩むことが出来ないと思います。

       

      ヨハネはイエスに言うのです。神様の事を考えもしない、神様を知ろうと思わない人が良い事を行っています。 ちょっと反対の事を考えてみました。教会に集まっているわたしたちは助けることを真剣に考えていますか。教会に献金の箱が並んでいる。並び過ぎだよと思うかも知れない。考えてほしい、これだけの人たちが助けを求めているのです。

       

      ヨハネは思ったのです。わたしたちがイエスの名によって善い事を行っている。別の団体が「自分たちの善意」の名によって、また自分たちの「神様の名」によって善い事を行っているのは自分たちの団体の名を、自分たちの宗教の名を知らしめるためではないですか。本当の善は見返りを求めない行いこそ善である、ほかの団体は善を行っていることを宣伝している。それは善くないとヨハネは思ったのではないかと思うのです。

       

      律法の事を考えました。善い事を行う、それは自然と律法のうちにあることになる。規則に厳しいと社会生活が難しくなると思います。 たとえば、昔はお祭りに参加することは禁止されていました。お神輿は神様を担いで練り歩くことです。山車は神様の飾りを飾って引くのです。それを賛成するわけにはいかないと禁止されたのです。 

      今、日本に宗教会議のような集まりがあります。立正佼成会が創設し、はじめにカトリックの白柳枢機卿が理事長を務めました。神道、仏教、カトリック、プロテスタント、金光教、立正佼成会等、いろいろな宗教団体が集まって平和を考える、諸問題を考える集まりがあるのです。しかし、わたしたち信徒は、皆は関心を示さない。

      世界宗教会議のようなものもあるようです。毎年、バチカンから神父さんたちが比叡山に来て、黙想するようです。東洋の黙想を知る。東洋を頭で知るのではなく、体で知るのだと思います。

       

      小生、以前、墨田区の本所教会というところで働いていました。毎年、夏、慰霊祭があります。戦争、関東大震災、災害で亡くなった方々の慰霊を行うのです。神道、仏教、カトリックが集まりそれぞれの祈りをささげます。自慢に聞こえるかもしれませんが、カトリックの礼拝が一番きれいです。賛美歌を歌います。日本語で祈り、話します。

       

      一緒に、という一緒が、わたしたちには、ほかの教会と一緒という範囲になっているように思います。一緒はもっと広い。今日、イエスは、善い悪いは神様のみ心のうちに判断しなさいと言われているよう思います。どのような人であっても、平和のために一緒に歩きましょうと言えればいいと思います。 その時、一番の注意は悪い事は断固として受け入れないことです。お付き合いでしなければならない、社会の力でどうしてもしなければならない時があるかも知れない。おこなっても、心には断固として受け入れないことです。 

       

      イエスは言われました。手が悪い事をするなら、足がつまずかせるなら、目が悪いものを見たいなら、耳が悪いものを聞きたいのなら、切り取って捨ててしまいなさい。

      わたしたちの体は善い心を現すためにあるのです。
    • 年間第25主日B  18-9-23

        第一朗読・知恵の書を読みました。知恵は神様が与える賜物、信仰のうちに、知恵のうちに生活を送りなさいと語られていると思います。

      神様を信じていないある人は言います。わたしたちはこの世に生まれ育っている。この世を作っている。自分の力によって農作物を育て、収穫し、売っている。ほかの仲間は商売をして働いている。自分で儲ける。豊作で、商売がうまくいって、豊かに生活を送っている。神を信じる人たちはわたしたちを非難する。あなたたちは自分勝手だ。律法に背いている、神様の教訓に背いているという。

      我々は働いて儲けている。何が悪いのか。 

       

      神に従っている彼らは本当に自分の豊かさを求めていないのか、自分のためではなく、隣人を支えるために働いているのか見てやろう。神の教訓の従って祈りの生活を送っているか、修業の時断食しているか。彼らの敵であるわたしたちにどれだけ寛容か試してみよう。暴力と責め苦を与える。彼らを恥ずかしい死に追いやろう。彼らの言葉どおりなら、神は必ず助けてくれる筈だ。

       

      神様の道を歩む者は言います。あなたがたは自分のために働き、自分の豊かさを楽しんでいる。なぜ悪いのかと言っている。それだけなら、心と体の不自由な人たちは生きて行けない。ちょっと待ってほしい、どんな人も神様から命を注がれて生きているのではないか。どんな人であっても、わたしたちは兄弟ではないか。自分の儲けのためではなく、隣人のために儲けたい。どんどん儲けて、隣人のためになればいいと思うのです。

       

      イエスと弟子たちはガリラヤ地方を歩き、カファルナウムに着いた。

      イエスはある時弟子の前で、はっきりと、厳粛に言われました。「人の子は人々の手に引き渡されて、殺される。殺されて、三日の後に復活する。」 弟子たちはこの言葉の意味がよく分からなかったが、厳粛に語るイエスの姿に怖くて何も尋ねられなかった。

       カファルナウムに着いた。 何を議論していたのか。イエスは弟子たちに問う。弟子たちは黙っている。ちょっと恥ずかしくて言えない。自分たちの中で誰が一番偉いかを議論し合っていたからである。 イエスは座り、十二人を呼び寄せて言われた。「一番先になりたい者はすべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい。」

       

      神様を信じない人たちは自分の力で立ってゆく。なぜ悪いのかと問います。それが当たり前のことではないか。ホームレスになんかなりたくない。食べ物を心配したくない。知性、教養のある人になりたい。普通の生活、豊かな生活を求めてしまう。そんな自分の生活を思うのです。

       

      ある人が、青年時代の事を、昔話のように話してくれました。

      僕は気が小さい少年だった。このままの自分だったら、誰にも相手にされないかも知れない。皆と仲良しになりたい。皆が感心するようなものを持ったらいい。小学校の終わり、中学校に入ってから一生懸命勉強した。クラスで一番になりました。中学、高校と何だか試験のために勉強していたかのようです。 僕は自分の事ばかり気になっていたのです。自分が認められたい。人間として認められたいという高級な考えではない、何か出来る者として認められたかったのです。だから与えられたものを一生懸命する。それしか見えない。それしか見ていない。

      体育の時、4キロか5キロの長距離があった。4科目の時、走り終わって気持ちが悪くなった。昼食が食べられなかった。 小学生の時、短距離でリレーの選手が選ばれます。一生懸命走る。ほかの者たちは遊び心で走っている。だからリレーの選手に選ばれたのです。毎日、放課後で練習がある。小学校の総合運動会、リレーの番が回って来た。選手が集まった。そのとき先生が言われたのです。君は出なくてもいいよ。○○君が変わってくれる。傷つかないようにこらえた。

      私立の商業高校に入った。高い月謝でも、ここを卒業すれば、必ず就職が出来る。親の心だった。

       

      知らないうちに競争の社会の中にいる。競争があると聞くとこんな話を思い起こしました。自分しか見ていない。自分が生き残りたいのです。 一番にいたい。名誉である以上に安心がある。

       

      イエスは子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供のひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

       

      わたしたちは今エルサレムに向かって歩いている。エルサレムで愛を証しするために歩いている。あなたたちはエルサレムでまことの愛を見る。まことの信仰の姿を見る。 何を議論していたのか。

      この集まりは内輪の信仰、義の集まりではない。社会に向かって開いている。

      この集まりの中で偉いとは何か。一番先の者とは一番神様のみ心に適うものではないか。すべての人を見る目を持ちなさい。すべての人の苦しみ、悲しみを見るところに行きなさい。その人たちに目をそらしてはならない。 子供を受け入れなさい。子供は何も知らない。何も出来ない。そのように、何も知らない、何も出来ない人のために働きなさい。何も出来ない、いや、何もしようとしない者は理屈を言う、支える者に不平を言う。しかし、その人たちのために働きなさい。それがわたしの道である。 一番先になったらいい。

       

      それが神様への道です。
    • 年間第24主日B  18-9-16

        わたしたちは洗礼を受けて信仰生活を送っています。信仰生活を送る、聖書を読んでいて思いている。わたしたちも日々イエスのことばのうちに生きようとしている、神様のみ心のうちに生きようとしている、そんな事に思い至りました。

       

      信仰生活、神様はわたしたちに問われています。あなたは人のために何をしていますか。信仰とは「つながり」ではないでしょうか。信仰とは支えられていることを感謝し、支える者となる事です。与える者になることです。

      ある人は言います。でも、わたしたちは毎日祈っています。毎日、聖書を読んでいます。毎日祈る時間を持っている、聖書を読む時間を持っている。神様の思いのうちに生きています。それは信仰生活ではないのでしょうか。

      それは信仰の準備です。深く祈り、深く聖書を読む。深く黙想する。信仰の良い準備が出来たらいいと思います。準備の良くできた自分の世界から立ち上がるのです。出会う世界に入って行くのです。歩き始めるのです。 人と出会う。人とつながる。一緒に生きているいのちを味わうのです。

       

      イエスは村を歩かれている。弟子たちに聞きます。人々はわたしを何者だと言っているか。

      「人々は、イエス様、あなたに預言者の姿を見ています。」 預言者イエスが神様の言葉、神様の心を語っている。イエスに心を開く、イエスに耳を傾ける。イエスが行う神様の業を見ている。そして、預言者イエスによってわたしたちは神の国へ導かれると信じている。 人々はイエスの言葉を聞いて、イエスの業を見て心が清められます。だから、イエスのもとに集まる。イエスのもとにいたい。

       

      預言者の言葉が人々の心に突き刺さっているか。その人を突き動かしているか。イエスはそんなことを思うのです。律法を守るように、神様のことばを聴いているのではないか。

       

      イエスは弟子たちに言います。「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか。」

      ペトロは言います。「あなたは神のみ心を持っておられる。あなたは神の子。あなたは神様から油を注がれたメシアです。」

       

      イエスは言われます。はっきりと弟子たちに言われます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」

       

      ペトロはイエスをわきに連れて行き、いさめます。 神様のみ心は平安、安心ではありませんか。命の喜び。憐み、慈しみ、恵みを感謝し、味わうことではないですか。

      人の子が律法学者、祭司長から排斥されることなどありません。人の子は神様のみ心を行う、律法のうちに行うのではありませんか。イエス様、何を言っておられるのです。

       

      イエスはペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」 ペトロの心はイエスの言葉を、神様の言葉を教えとして聞いている。頭の中で聞いている。心を体で聞いてほしい。今までの自分を造ってきた思いを壊す、自分を壊す力を持ってほしい。善い事、その出発は自分を壊すことではないか。自分を無くすことではないか。

       

      イエスのこの言葉は今のわたしたちに言われているように思います。わたしたちは与えられることを求めている。与える者になりなさい、人のために損をするなんて考えられない。神様が損をしなさいなどという筈がない。

       

      神様の姿を思い巡らします。損をしなさい。心を与える、物を与える者となる。時間を与える、聴く
    • 年間第23主日B 18-9-9

       心おののく者よ、神様を見つめなさい。心おののくとは、今、敵が目の前にいる。安らか

      ではない、恐れている、戦いになる、苦難が襲いかかる、だから落ち着くことが出来ない。

      その時こそ、心を静めなさい。神様を見つめなさい。

       

      神様はわたしたちを見捨てられることはありません。神様はわたしたちを見つめておられます。閉じ籠ってはいけない。わたしたちは神様に愛されて、神様の命を注がれてこの世に生まれるのです。そして神様に支えられて歩み始めます。

      この世に生きて、力あるものになる、能力のあるものになる。嬉しい事です。一方、心、体に障害がある事を知る。その人は思います。どこに希望があるのか。

      神様は言われます。神様は言われます。今の自分から出発しなさい。力ある者、能力のある者、豊かな者は幸い。豊かさの分、それだけ大きな助けを与えることが出来る。その力を隣人のために使いなさい。 心、体の不自由な者、神様を見つめなさい。仲間の、兄弟の支えに感謝しなさい。そして、あなた方も心、体の不自由な者のために働きなさい。でも、わたしたちは何も出来ません! いや、一番大切なもので支えることが出来ます。一番大切な力、それは祈りです。祈りに入り、神様とつながる、人とつながりなさい。こんなに支えられている、こんなに支えることが出来る。

      あなたがたがまことの愛を知っていると思います。

      神様は言われます。わたしは貧しい者を敢えて選んで信仰に富ませる。

       

      人々はイエスのところに耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来ました。その人に手を置いてやってください。 イエスはこの人だけを群衆から連れ出しました。その人はイエスと向かい合います。 イエスは指を両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。イエスは天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、その人の心と体の奥に向かって「エッファタ」と言われました。その言葉がその人を包み、その人の奥に入って行きます。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解けました。

       

      イエスは人を縛っている罪から、わたしたちを解放してくださる。

      ある人は耳が聞こえない。心の耳が聞こえない。他人の思いを聞こうと思わない。他人はどうでもいい。自分に危害を加えないなら、他人はどうでもいい。自分は自分の思いのまま、自分の好きなように生きて行く。自分は一人で生きて行く。自分は自分を語ろうと思わない。心の舌が不自由だから話が出来なくてもいい。

       

      その人は心を締めきっている。神様が見えない。神様を見ようと思わない。人とつながろうと思わない。自然とつながろうと思わない。聞かない、語らない。 その人の仲間がその人に言います。俺たちと語り合おうよ。格好つけなくて、何でも語り合おうよ。こんなに友達じゃないか、友だち以上、兄弟じゃないか。

       

      イエスはその人を仲間から離して、耳を、舌を癒しました。そして、言われます。

      「心の声を聞く者になりなさい。神様の心を語る者になりなさい。」

       

      イエスはわたしたちに言われているのです。あなたは人の心を聞こうとしていますか。人と出会う。聞く者になりなさい。語ってその人とつながるのではなく、聞く者になってその人とつながるのです。

       

      心を開く。聞く者になる。感謝する。祈る。
    • 年間第22主日B 18-9-2

        子供の頃、食事の時、母さんはいつも言います。手を洗ったかい?小学校で給食が始まった時、先生は毎回生徒たちに言います。食事の前には手をきれいに洗いましょう。コッペパンをちぎって食べるでしょ。汚い手で食べてはいけません。 わたしたちはそんな時代を生きたのだと思います。今では石鹸水で手を洗うようです。 水で体を洗う、きれいにする。水で体の汚れをきれいにする以上に、水で体を清めるという考えがあったように思います。きれいな心で食事をする。

       

      ファリサイ派の人たち、数人の律法学者はイエスの弟子たちが手を洗わないで食事を始めているのを見て言います。なぜあなたの弟子たちは汚れた手で食事をするのですか。

      あぁ、あなたたちは相手の欠点を見て嘲笑う、馬鹿にする。偽善者たち、あなたたちは見える善を求めている。見える悪を笑う。あなたたちは善を行う人を大切にし、悪い事を行う人を追いやってしまうのですか。 それは人の思いではないでしょうか。神様は言われます。善い事を行う人の心を見なさい。悪い事を行う人の心を見なさい。善い事を行う人の心が善いものであったらいい。

      もしその人の心が、律法で善い事を行いなさいと言われているから、これを行うのです。また、褒められたいから善い事をするのです。自分に戻ってくるお返しを求めています。それは善い心ですか。 悪を行う人の心を見ましょう。その人の心は自分の事しか見ない、考えない。あなたたちは言います。そんな悪に固まっている人は人は追い出してしまえ、排斥してしまえ。 悪人に善い心を伝えたい。温かさを伝えたい。ほのぼのとしてゆったりとした心を伝えたい。あなたたちは悪い心の人たちを考えない。あなたたちの心は善い心ですか。

      出来事を外目で判断する、裁こうとする心が悪い心ではないですか。

      イエスは言われました。「人の心から悪い思いが出てくるのである。」

      自分の思い、言葉、行いを捨て去りなさい。あなたの思い、言葉、行いがあなたの中に満ちていれば、み言葉はあなたの中に入れません。空っぽになって、み心を受け取り、み言葉のうちに歩みたいと思います。

      主なる神様は約束されました。「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得る。」 み心、み言葉のうちに歩むことが出来ますように。
    • 年間第21主日B  18-8-26

        ヨシュアはイスラエルの全部族を集め、民全員に告げます。わたしたちはイスラエル、神様のみ心に従って歩む者。神様に仕える者です。それを決して忘れてはならない。

      もし、わたしたちの神様に仕えたくないというなら、その者はわたしたちから離れなさい。その者は自分の思う神々のところに行き、その神々に仕えなさい。

      わたしとわたしの家はわたしたちの神に仕えます。

      民は答えます。主を捨てて、どの神のところへ行きましょうか。主はわたしたちを導く方 。わたしたちを守られる方。この方こそわたしたちの神、まことの神です。命を与えられる神、正義を示してくださる神、平和を示してくださる神です。

      ヨシュアは110歳で帰天しました。自分の死が近づいているこの時に、一番大切なことを言い残したのです。 ところで、ヨシュアという名はヘブライ語、ギリシャ語でイエスです。ヨシュアはイエスです。ヨシュア、イエスによってイスラエルの全部族がその土地イスラエルに住むようになりました。イスラエルの指導者イエス。 イスラエルは神のみ心の内にある民ではないか。神に従う民ではないか。それを決して忘れてはならない。

       

      イエスは集まっている人たちの前で言われます。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。わたしの肉がまことの食べ物、わたしの血がまことの飲み物だからである。(ヨハネ655

      イエスの周りにいた人々は言います。「何を言っているのか。実にひどい話だ。そんなことが出来ると思っているのか。こんな話は聞いていられない。」 弟子たちもそのように言い始める。

      いのちとは何ですか。神様の思いが、霊が働く場ではないですか。思いが注がれて、霊が注がれていのちとなりました。わたしたちは命によって生きています。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命です。わたしの内にまことの神様の住み、神様の霊が働いています。わたしの姿の内に入りなさい。理解しようとしてはいけない。わたしを心と体で受け止めなさい。だからわたしは言うのです。わたしの与えるパンを食べなさい。わたしの与えるパン、それはわたしの体。わたしの体、わたしの血を飲みなさい。わたしはあなたの中に入る。

       

      イエスは言われます。わたしは命です。わたしはみ言葉です。いや、わたしは命の姿、み言葉の姿です。神様のみことばの姿、わたしは愛の姿です。愛はいのちの交わり、命のつながりです。

      わたしはいのちの言葉を語ります、愛の言葉を語ります。 わたしのことばを心と体の耳で聞きなさい。わたしの言葉を受け入れる人はわたしを受け入れているのです。わたしがあなたの中に入る。

       

      体は肉の欲求、欲望のためにあるのではありません。善い心を行うためにあるのです。善い心が体で示されればいい。

       

      弟子が言います。イエスが全く分からなくなりました。イエスがわたしから離れてしまった。イエスと一緒に歩けません。弟子たちの多くが離れ去ってしまいました。

      イエスは十二人に問います。あなた方も離れて行きたいか。 シモン・ペトロが答えます。「主よ、わたしたちはどこへ行きましょうか。あなたは神の子キリスト。永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところへ行きましょう。」 

       

      十二人はイエスの言葉が分かった訳ではないと思います。全く分からなかったと思います。弟子が言うように、イエスが自分から離れてしまったのではなく、もっともっとイエスに近づきたいと思ったのではないでしょうか。イエスのうちに入れば、イエスの世界が分かる。

       

      イエスを食べる。イエスが心と体の中に入って来る。ちょっと怖い思いです。イエスを食べる、イエスが中に入って、イエスに食べられるのです。
    • 年間第20主日B  18-8-19

        人々はイエスの周りに集まっています。人々はイエスに神様のみことばがあると深く思っています。イエスが語る話に神様の力強い、そして、憐み溢れる言葉を聞きたいのです。神様のみ心が自分のうちに入って、恵みを受けたい。そんな思いを持ちながら、イエスによって神様の慰めを受けているのです。

      また、人々はイエスが病を癒す力を持っていることを知っています。益々イエスを大切に思っている。 人々は信仰の道を歩みたい、神様の内に入りたいと思っています。 

      人々はイエスに聞きます。「神の業を行うために何をしたらいいのですか。」 「わたしを信じなさい。」 そして、イエスは言われます。 「わたしは天から降って来た生きたパンである。」 

       

      天から降って来た。わたしは天にいました。天天国はみ心の安らかさ、柔和な光、おおらかさが溢れています。天にいては地に住む人の出来事が分からない。人の生活の苦しさ、飢え、渇き、心の底に根付いているねたみ、意地の悪さ、相手を殺したいほどの憎しみが分からない。

      そして、自分が滅びることの恐怖、死への恐怖が分からない。 

      わたしはあなたたちに出会いに来たのです。

      地に住むあなたたちはわたしの、神様の心を知ろうともしない。

       

      わたしは律法を与えました。そして、今までずっと、何人も、何十人も預言者を送りました。律法によって語り続けました。しかし、あなたたちは聞いても聞いていない。また、預言者が目の前にいると、預言者を邪魔者として苦しめた、追い払った。殺した。

      わたしはあなたたちを肉体で感じたい。み心が、み言葉が見える体となってあなたたちに会い、語り合うために来たのです。み心が、み言葉が体になったように、み心が、み言葉がパンとなるのです。このパンは、わたしが与えるパンはわたしの心、わたしの言葉です。

       

      わたしを体で受け入れてはしい。わたしとつながってほしい。

      「わたしの語る言葉」を心の耳で聞きなさい。「わたしの言葉」に自分の心をあずけなさい。「わたしの語ることばを自分の思いとする。ことばに従って歩む。ことばに自分の全部を明け渡すのです。あなたはわたしの中にいる。あなたは自分をやめなさい。自分の思いを失くしなさい。自分がなくなった時、ことばがあなたの中に響く。あなたの中にわたしの心響く。霊の力をもってあなたの中に入る。わたしはパン。わたしを食べなさい。

      わたしの血を飲む。血は命。血を飲むとは、わたしの姿を見入る、姿を飲むように見入ることです。わたしはあなたの中に入る。 わたしを食べる者、わたしを飲む者はわたしによって生きる。

       

      このパンは、わたしが与えるこのパンは眠っているいのちに力を与えます。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きます。わたしの与えるパンとはわたしの肉のことで。わたしのすべてがこのパンの中に動いている。

       

      あなたを食べるとは何ですか。いつ、どのように食べるのですか。今、ここでわたしたちのために話しておられる。あなたを食べる、そんな事がどうしてできるのですか。

       

      イエスは言われる。わたしがまことの食べ物、わたしがまことの飲み物。

      わたしを食べ、わたしを飲む者は、永遠のいのちを得る。
    • 聖母の被昇天  18-8-15

        ある日、マリアは大天使ガブリエルの訪問を受けました。あなたは聖霊によって身ごもります。男の子、その子にイエスと言いう名をつけなさい。イエスはダビデの王座に座ります。(イエスという名は「主は救い」、「救いは主から」とう意味があります。)イエスには人々をまことの救いに導きます。

      親類のエリザベトも神の恵みのうちに子を身ごもっています。もう、6か月になっています。

      マリアは1314歳の少女です。結婚していない。 わたしは何も知りません。 神様のみ心があなたを包んでいます。神様のみ心のうちに入りなさい。 マリアに天使の声が心に入って来る。マリアは、今、神様の出来事のうちにいると思い知ったのです。この神様は、祈りのうちにいる神様、遠くにおられる神様ではない、思いのうちにおられる神様ではない。 今、現実の出来事を引き起こされる神様だと知ったのです。神様によって出来事が起こる。心と体が神様を知ったのです。

      エリザベトに神様の恵があった。エリザベトが子を身ごもった。わたしには子が生まれないと恥ずかしく思っていたエリザベトにも子が生まれる。子が生まれないのは神様の恵から外されているからだと思われていたのです。

       

      マリアはエリザベトに会いたくなりました。一緒に神様を讃えよう。

      マリアは出かけます。ガリラヤ地方のナザレからユダ地方エルサレムに近い町(アイン・サレム?)に行きます。  マリアがザカリアの家に着いた。マリアとエリザベトが会った。挨拶をする。まことの挨拶:会えて嬉しい、生きている命を喜ぶ、語り合えるつながりを喜ぶ、歩いている道を喜ぶ、そんな心の出会が挨拶です。 エリザベトがマリアの挨拶の声を聞いた時、心と体が弾んだ。エリザベトは言います。主の言葉が必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう。 

      マリアは応えるように、口から祈りが溢れ出てきます。 

      幸いなこと それは主と出会うこと。主が目を留めてくれていることを信じることです。

      幸いなこと 主の思いを行うことです。主から離れないことです。

       

      今日、マリアの昇天を祝います。マリアが天に迎えられた事を喜びます。マリアはまことに幸いな人であったと思います。主と出会った。そして言われました。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」 マリアは、自分に起こる一つ一つの出来事に、苦しいこと、悲しいこと、残念なことに神様のみ心を見たのです。どのような出来事であってもそのまま受け入れます。それはマリアが、わたしは神様のうちにいる、ということを信じたからではないでしょうか。

       

      わたしたちはマリアが天の国にいるすばらしさしか見ていないように思います。

      母マリアがきらびやかな着物を着て、御子イエスを天にあげている御絵があります。

      そんなことはありません。マリヤはもんぺです。働きやすい姿です。もんぺ姿のマリアが天に昇って、わたしたちの思いのうちにきれいな姿に映るのかも知れません。仕事着はきれいですよ。

       

      マリヤのこの世で出会った出来事の辛さを思い起こすのもいいと思います。マリアには出来ごとをすべて受け入れた、悲しみ、苦しみをすべて受け入れた心の大きさがあった。

      そんな中、いつも微笑みがあった。

      おおらかなマリア様、厳しさを見つめ受け入れ、優しさで包むマリア様、そんなマリア様と一緒の歩きたいと思います。
    • 年間第19主日B  18-8-12

        「わたしは天から降って来た生きたパンである。」

      わたしたちは毎日ご飯を食べます。パンを食べます。水を飲みます。生きる。ご飯を食べて生きる。でも、ご飯を食べて生きるのではありません。生きる、だからご飯を食べるのです。パンは体を造ります。ご飯、パンによって体がある。いや、もっと大切なことを忘れていませんか。心を忘れていませんか。 体は心の表現です。 命は心と体の生きる姿です。今日、イエスはまことのパンを食べなさいと言われました。 まことの心を造る、まことの心を体で現わすのです。

       

      心の大切さを思った時、ぶどう園の話を思い出しました。

      ある人がぶどう園を造りました。大地を耕し、ぶどうを植えます。垣を巡らし、搾り場を堀り、見張りの櫓を立てます。時期が来て、ぶどうが実ります。ぶどうを集める、ぶどうを搾り場に入れ、ぶどうをつぶしぶどうの液とする。ぶどう酒を造るのでしょう。ぶどう園のために働く人を集めます。ぶどうが豊富に実る。皆、忙しく働く。主人は言います。このぶどう園は天からのぶどう園です。このぶどうの収穫の恵みは天に返します。 このぶどう園のぶどうは豊かに、豊かに実った。ぶどう園で働いていた人たちは言います。この収穫は自分たちのものにしよう。理屈を言って、ぶどうのために働かない者にあげなくてもよい。ぶどうを売ろう。儲けよう。このぶどう園を我々のものにしよう。

       

      ぶどう園は人のものになりました。ぶどう園は天からのものでしたが、今、人のものになりました。

      天からのもの:体の不自由な人たちのために、働けない人たちのために造っているのです。

      ぶどうはその人たちへに恵みとなる。 ぶどう園で働くとは、その人たちのために働くのです。

       

      ぶどう園で働く、いくら長い時間働いても、ほどほどに働いても給料は同じ。長い時間働く人は損をするのではないですか。支えられているわたしたちが支えるために働いている。 その心が愛ではないですか。 「わたしはぶどうの木」という言葉を思い出しました。。わたしの心、わたしがあなたがたに与える命の糧を食べなさい。ぶどう園のぶどうは心の糧となる。キリストの心を食べる。キリスト命を食べる。ぶどうは命を与える実りです。 

      ぶどう園で働く、これこそまことのいけにえではないですか。

       

      「わたしは天から降って来た生きたパンである。」

      わたしのパンを食べなさい。わたしの与えるパンをあなたの生きる糧としなさい。それは、わたしの生きた生活を食べる事です。わたしの心を食べる、わたしの語るいのちの言葉を食べる、憐れみを食べる事です。わたしの姿、わたしの歩いた道がいのちとなる。

      このパンがイエスの命です。イエスの愛がパンとなった。イエスの姿が、イエスの思い行いがパンとなったのです。このパンはまことに天からのパン。

      このパンを食べれば永遠のいのちを得る。

      このパンを食べる者は、イエスの命を食べる者は死なない。

       

      ご聖体:ご聖体はイエスの語ったみことばに満たされています。イエスのなされた憐れみのみ業で満たされています。パンとなってあなたの内に入りたい。だから食べてください。わたしはあなたと共にいる。

       

      イエスを食べているわたしたち自身が、食べられるパンとなる、隣人へのパンとなりなさいと言われているようです。まことのいけにえとなる。

       

      一緒に生きる。隣人のために働く者となりますように。

    年間第18主日B  18-8-5

      永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。

    イエスと弟子たちはガリラヤ湖を渡りカファルナウムに来た。前の日の出来事、イエスは山に登り、押し寄せてくる群衆を見た。こんなにまで熱心にわたしたちに従ってくる。この人たちは空腹だろう。フィリポに言います。「この人たちに食べさせたい。どこでパンを買えばいいだろう。」

    「ここは町から遠い所です。この人たちに食べさせるには200万円以上のお金が必要です。わたしたちにはそれほどのお金はありません。」 イエスは言われる。「人々を座らせなさい。」その数はおよそ5000人であった。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、坐っている人々に分け与えられた。人々は満腹した。

     

    群衆はイエスを求めている。イエスと弟子たちはカファルナウムにいる。翌日、また、人々がイエスの周りに集まってくる。イエスと一緒にいたい。イエスから離れたくない。イエスが我々の共同体にいつもいてほしい。イエスははっきり言われます。「あなた方がわたしを捜し求めているのはパンを食べて満腹したからだ。パンを食べて満腹する。それ以上に、心を満たすパンを求めなさい。いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。

    いのちへのパン。これこそ、天からのパン。人の子があなたがたに与える食べ物である。人の子はキリスト。わたしは父である神のまことの子であると認められた。」

     

    「あなたが神の子。あなたによって与えられるパンが命のパン。どうしても理解できない。パンが心の栄養、魂の栄養となるのですか。神様の命がパンとなるのですか。パンの中に命がある、パンには命の力があるのですか。知りたい。神様の業を知るためにはどうすれば良いのでしょうか。」

     

    「神が遣わされた者を信じる。神の子であるキリストを信じなさい。キリストに神の姿を見ます。言葉、行いにまことの愛を見ます。あなたの前にいるわたしを見つめなさい。自分を捨ててー自分の知識、経験を捨てて、わたしの中に入りなさい。キリストを信じる事。それが神の業です。」

     

    「あなたがキリスト、神の子であるとわたしたちが信じることが出来るようなしるしを見せてください。

    先祖の時代、荒れ野で、神様はモーセの祈りに応えられ、天からのパンを与えてくださいました。わたしたちはモーセが神のみ心を行う方であると信じています。」

     

    「モーセが父に願ってイスラエルに与えたのは満腹するパンではなかったか。

    父はまことのパンをお与えになる。まことのパンは命のパン、世に命を与えるのである。」

     

    「主よ、あなたが神から遣わされた者であると信じます。あなたからのパンをいつもください。」

     

    「わたしが命のパンである。」

     

    わたしたちは神様のパンをいただいています。前にも話しましたが、神父になりたいと思う者が適正であるかを見るために教区の担当神父さんの前で面接があります。その時に言いました。わたしにはパンがキリストの体になるという事は理解できない。神父さんの答えは、理解しようとするのではない。神様のみ心の出来事です。皆がその出来事を信じている。長い歴史の中で、一番大切なことと知り、信じている。 神学生にしてもらいました。パンが愛。命。命をささげていのちとなる。

     

    パンとなる。食べられるものとなる。キリストは自分を嫌う人、自分を殺してしまえという人のためにも、わたしを食べてくださいというのです。わたしが食べられて、あなたの心の栄養となります。あなたはわたしが嫌い、しかし、あなたのために、いのちを失っても、あなたが神の恵みを知った方がい
    • 年間第17主日B  18-7-29

        イエスと弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追ってきた。イエスが病人たちに行ったしるしを見たからである。イエスと弟子たちは山に登り、坐られた。大勢の群衆がイエスを求めてついて来る。

      フィリポに聞く。「こんなに大勢の人たちがわたしたちに従ってくる。空腹を感じているだろう。この人たちに食べさせたい。どこでパンを買えばよいだろうか。」

      「この人たちへのパンを買うのですか。おおごとです。200万円分のパンを求めても足りないでしょう。」 先生、何をおっしゃるのですか。ここには5000人以上に人たちがいます。ここは町から離れています。わたしたちにはお金がありません。

      アンデレが言う。「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。」 

      イエスは群衆を座らせた。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから座っている人たちに分け与えられた。欲しいだけ与えられた。残ったパンのかけらを集めると十二の籠がいっぱいになった。

       

      人々はこの出来事を見た。驚いた。感謝する。そして思う、言う。この方、イエスはわたしたちの欲求を満たしてくれる。この方こそわたしたちの王である。神様からの預言者である。 

      イエスは思うのです。わたしがいつも語っている神の国はどこに行ってしまったのだろう。わたしたちは神の国に向かって出発するです。今、命の力となるパンが与えられた。 

      与えられる。それは出発の力ではないか。 

      このパンは体を造る力となるのではないですか。

      いや、このパンはそれ以上に、心を造るパンです。神様のみ心のパンです。心が造られ、心が体によって表現されるのです。体は心の思いを見えるものとするのです。

       

      パウロは言います。わたしはキリストに結ばれて囚人となった。

      囚人:何も持っていない。どこへも行けない。何も自由に出来ない。囚人となって、この世のことは何も出来ない。この世から離れ、まことの謙遜を知った。まことの柔和、まことの寛容を知ったのです。囚人になって霊とますます出会った。ますます恵の世界を知ったのです。

       

      わたしたちも囚人となったらいいと思ったのです。わたしは先週一週間黙想に行きました。山の中です。修道院に入る。一日中、会話が出来ない。会話する相手がいない。夜、テレビがない。お菓子、ジュースも我慢する。何も自由に出来ない。自由。それは自分の欲求の自由だと知ったのです。選んで囚人となる。囚人だからこそ恵の世界を知るのです。

       

      イエスに従ってついて行く。囚人となるためについて行くのではないですか。

      例えば、十分に食べられない。食べるとは何かを考える。歩いて行く。一緒に歩きなさいと言われる。隣人の苦しみを背負って、歩きなさいと言われる。どこへ向かって歩いているのかをゆっくり考える。イエスについて行けば行くほど囚人になるように思います。

      与え続けなさいと教えられました。ますます囚人になる。

       

       

      イエスによって閉じ込められている、イエスによって囚人となっている、その生活をしっかりと歩いて

       


  • 年間第16主日B  18-7-22

      イエスは使徒たちに言われます。宣教に行きなさい。主よ、神の国を伝えるなんてそんな知識はありません。神の国を、平和を上手に話すなんて出来ません。えっ使徒と言えば、神様に選ばれて使徒となった。それなりの心の大きな人たちではないですか、と言いたくなってしまいます。

    わたしたちの事を考えたいと思います。わたしたちは洗礼を受けました。特に教養があるわけではない。でもほかの人たちから見ると、何か違うと思われているのだと思います。

    イスラエルの人たちは子供の時、毎日、夜寝る前に父さん、母さんから神様の話を聞きます。安息日に会堂に行って、話し手さんが語る神様の話を聞きます。 使徒たちは毎日、イエスの話を聞いている。イエスが町に出て行き人々に話しかける。イエスはその人を包むように話を聞く。

    また、皆の前で神様のみ心を語る。町の中で語る。神殿の境内で語る。業を行う。使徒たちはその度に感動してしまうのです。イエスの話を聞くたびに、生きるっていいなと思う。いろいろな人と出会うっていいと思ってしまう。イエスと一緒にいるっていいなと思うのです。

     

    イエスは使徒たちに命じます。宣教に行きなさい。出て行って、人と出会いなさい。人と語り合いなさい。おかしな言い方かも知れませんが、人はその人の日々の中に生きています。その人の出来事の中に生きているのです。出会わなければ、語り合わなければ、その人の出来事が分からない。わたしたちもイエスに命じられています。「行って、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

    人に話しかけられたらいい。神の国を語ることが出来たらいい。 神の国には一番大切なものがある。嫌なものがない。そんなことを思ってみるのがいいと思います。一番大切なもの、欲しいものは自分の話をじっと聞いてくれる人ではないかと思います。静かに聞いてくれる。頷いて聞いてくれる。その人といると安心が得られる。 嫌なものは悪口を言う人。馬鹿にする人。毎日、毎日その人がわたしの目の前に来て、わたしの知っている人の悪口を言われたらたまらない。そんな人に会いたくもない。苦しみはいやだ。

     

    イエスは宣教に行ってきた使徒たちに言います。ありがとう。ご苦労さんでした。「さあ、あなたがたは人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」 皆、考えた事がありますか。休みも仕事の一部ではないかと。仕事には休みが必要です。疲れたから休む。それ以上です。休みは仕事の枠から解放される。休みは仕事の中身を思うのではないでしょうか。働いたその時の心を思い出す。働いた余韻を思い起こす。働いた自分を楽しむのではないでしょうか。宣教、いろいろな人と出会った。その一人一人を思い起こせればいい。

     

    使徒たちは舟に乗って人里離れた所に行きます。人々はそれを見て先回りします。使徒たちを自分たちのところから離しはしない。イエスはそれを見て悲しむのです。人々にとって、使徒たちは自分たちに慰めを与えてくれる先生たちです。自分たちの病を癒してくれる、希望を失った時、光を与えてくれる先生たちです。使徒たちは自分たちにとって「何でもおじさんです」。

     

    神の国を求める、平和を求める。神の国を語る。平和を語る。イエスは毅然として言われます。

    神の国は、病が癒されるところではない。光が与えられるところではない。希望が与えられるところではない。神の国は病が癒されたあなたが隣人のために働くところです。暗闇にいて光を失ったあなたが光が与えられ、隣人のために働くところです。希望が与えられたあなたが、隣人に希望を与えるところです。 平和はあなたの安心ではありません。隣人に安心を与えるための苦労です。

     

    神の国を求める、平和を求める。

  • 年間第
    15主日B  18-7-15 

      第一朗読でアモスの預言が読まれました。アモスの名は重荷を負うという意味があるそうです。預言者になる。重荷を負って歩く者となることだと思います。アモスはユダの出身なのですが、北イスラエルに行き預言をします。

    祭司アマツヤはアモスに言います。お前の話はもう聞きたくない。王国の神殿で預言をするな。

    お前の預言は我々の生活を壊すばかりだ。わたしたちは王の力によって安定している。

    アモスは言います。わたしは王によって選ばれた預言者ではない。王様は預言者集団を持っていました。  主がわたしに声をかけられたのです。「行って、我が民イスラエルに預言せよ。」

    わたしは神様のみ心を語るだけです。わたしは神様のみ心を語る口とされたのです。

    神様はわたしたちに言われているのです。神様のみことばを聞きなさい、心に留めなさい。

     

    イエスは12人を呼び寄せられました。今や出かける時です。二人ずつ組みにして遣わします。

    あなたたちはまことの命を知った。わたしたちは神様から注がれた命のうちに生きている。命は喜びに生きること。人は自然に包まれて生きている。人は自然に支えられている。自然の命に支えられて生きている。また、人は人に支えられて生きている。命は支えられ、支えて生きる。自然、人は神様の愛のうちに造られたもの。すべてのものは神様の愛によって生きている。

    愛はいのちです。愛は恵み、憐れみです、支えられ、支えることです。 

     

    わたしたちは神様のみ心のうちに、愛のうちに生きている。この喜びを語り伝えなさい。

    得をすることを求めるのではなく、清くなることを求めるのです。わたしはあなたがたに汚れた霊に対する権能を与えます。病を癒す力を与えます。み言葉のうちに心が癒される、体が癒される。神の国への出発です。命の喜びのうちに生きる生活の出発です。

     

    イエスは別なところでこのように言われます。あなたたちを遣わすのは狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ。しかし、自分を守ろうとしてはいけない。どんな苦労が迫っても、どんな苦痛があっても、迫害されても、すべて受け入れなさい。どんな人であっても出会う人を受け入れ、語り合いなさい。   12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した

     

    悔い改め:支えられていることを忘れている。自分の思いで出来事を判断している。自分の思う通りに考える、自分が得をするように判断していることに気づくのです。 

    宣教:人と出会う、人と語り合うのは悔い改めに気づいてゆく宣教なのです。

     

    わたしたちはイエスから宣教の役割を与えられていると思います。

    悔い改めの宣教:その前に自分が何を求めているかを静かに、ゆったりとした心で考えたいのです。わたしたちちょっと年をとった者には、今は、すべてのものに急かされているように思ってしまいます。速くなくてはいけない。規定に合った、良いものを造らなければいけない。無駄があってはいけない。綺麗に整った、無駄のないものを造って行こう。

    静かにのんびりとしたい心が消えてしまっているように思えるのです。

    のんびりとぼ~っと青空を見ている。無駄を楽しむ。

     

    日々をゆったりとした心で過ごす、そんな日々を作って見たいと思います。

    きっと、生まれ変わったみたいだ、そんな時が生まれてくると思います。何だか力が湧いてきた。新しく出発しようという気が起こって来た。 

    悔い改め、目のつけどころを違えてみる。目のつけどころを新しく置くのです。

     

    悔い改める。宣教する。

    わたしたちに大きな役割が与えられていると思います。
  • 年間第14主日B  18-7-8

      イエスが故郷に帰られました。弟子たちもイエスに従いました。安息日、イエスは会堂で教えられます。会堂の人たちはイエスの話に耳を傾けます。イエスの言葉が、水が流れるように人々の心に入って来る。心がイエスの言葉に触れる。心地よい。 

    イエスは神様のみ心を語っている。自然と出会いなさい。自然の命が生きている。自然があなたを包んでいる。自然の命が神様のみ心です。人は、わたしたちは自然の命に支えられている。人と出会いなさい。人と語り合う。人の心と語り合う。人とつながる。出会う人が仲間となる。兄弟となるのです。神様はあなたを見ています。あなたの生活を見ています。神様の喜びは命を喜ぶことです。皆の喜びが神様の喜び。

     

    故郷の人々はイエスの話を聞いて驚きます。あの男は我々の知っているイエスか。イエスは我々の近所に住んでいた。昔は泥んこで真っ黒になって遊んでいた。あのイエスか。兄弟、姉妹は今もここで一緒に住んでいる。イエスは病を癒すという。悪霊さえもイエスに従うという。

    イエスは神様のみ心を語っている。イエスは預言者になったのか。わたしたちはイエスに従わなければならないのか。

     

    人々はイエスによってつまずいた。

    人々は目の前にいる、目の前で語るイエスが見えない。自分の思いのうちにイエスを見たい。迫ってくるイエスの心に自分の心を閉じてしまったのです。

     

    第2朗読では刺について語られます。自分の心、体の中に刺がある。人々はイエスによってつまずいた。あぁ、そうか。イエス自身が人々への刺になったのだと思ったのです。善い刺となった。イエスを受け止めたくない。イエスが心の中に入ったら、イエスが刺となって自分の思う通りの生活が出来ない。イエスを自分たちの親しい先生として考えたい。イエスを悪に厳しい預言者として考えたくない。

     

    自分の心、体に刺がある。パウロは言います。わたしは神様から刺を与えれらた。わたしを苦しめる刺です。わたしは主に刺を取り去ってくれと願いました。主は言われます。「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

     

    刺がある。その刺が心に食い込んでいる。刺があるから自信がない。刺があるから皆より劣っていると思っている。心を十分広げられない。刺がある。自分が弱い者だと知る。弱い、小さい自分が生きる。弱い、小さい、だから神様により強く、より真剣に頼みなさい。神様に助けを求めなさい。刺があるから、自分しか見ない。自分しか見えない。その苦しい刺をそのまま受け取るのです。弱い、小さい自分が自分の刺のために、刺を取り去ってもらうために願い祈るのではない。人とつながることが出来るよう、弱い、小さい自分が隣人のために働くことが出来るよう願うのです。

     

    生まれてから、体が不自由で動かない。言葉がようやっと話せる。何も自分ではできない。その人が司教さんに聞きます。刺は、刺のその苦しみは大きくなればなるほどその人への神様の大きな恵みだと聞かされています。そんな言い分は刺のない司教さんや、神父さんたちの言葉です。

    この苦しみが分かっていない。体が動かない、話すことが出来ない、全く何にも出来ないこの苦しみが全く分かっていない、司教さん、神様の恵は何なのですか。

     

    この刺は何なのか。今、この出来事を思い起こしています。刺が喜びになる。自分の刺を考える。刺があって出来ないことがある。刺の意味を神様に向かって疑問をぶつけたらいいと思います。

    神様、わたしを愛してくださっていますか。 どんな人に見えても、わたしは愛のうちに命を注いだ。わたしの子。愛さない事はない。 どんな苦しみがあっても、隣人に心を留められたらいい。

  • 年間第13主日B 18-7-1

      神様は全てをお造りになりました。すべて

    のものに命をお与えになりました。生きなさい。生き生きと喜びのうちに生きなさい。喜びのうちに生きいる世界、これが神様の喜びです。豊かに生きる。

    豊かさ、一緒に生きること。支えられている、支える者となる。

     

    神父になる道があると知りました。神様のみことばを味わい、教会で働く。神様の力が注がれイエスのまことの弟子となれる。 神学校の時代、神学生の生活を思い出しました。神学校は全寮制です。祈りが生活の中心となる。共同生活をする。今までの生活を変えるのです。わたしは神学校に入った時、36歳でした。仲間は10幾つか下です。苦労しました。祈りの中で自分の生活を見る。祈りの中から社会を見る。その時は混乱の時代が終わりかけているように思います。

    ベトナム戦争、アメリカがベトナムを大量の兵器を使って攻撃、爆撃する。日本は何なのか。学生運動が続いている。反体制の姿勢が正しい、そんな世論の波があったように思いました。神学生も自分たちのいる社会、そのような社会を見つめていました。

    神学生の勉強は上智大学に行きます。上智大学の神学部に入学するのです。神学校から上智大学までは新宿駅を通ります。私鉄の新宿駅からJRの新宿駅まで歩くのです。

    ある日、朝、ある神学生が新宿駅の近くでホームレスの人に声をかけられました。ちょっと、わたしに援助してほしい。はっきり言いますと、お金を恵んでくれないかと言われたのです。その神学生は地方の出身です。その出来事をまことの問題としてとらえました。住むところがない、毎日の生活に収入がない。もし、キリストがここにいるならば、どうするだろう。その神学生はその人と一緒に交番に行きました。大学の授業に間に合ったかは知りません。その神学生は神学校の指導神父さんたちに言われます。今は社会を見つめる時、矛盾を見つめる時です。

     

    ある神学生はお父さんが大学教授です。社会問題、政治問題に詳しい。その神学生はこんな話をします。バナナがフィリピンから日本に大量に入って来る。その時のフィリピン労働者の賃金を考えたことがあるか。バナナは船の中で熟すように考えて送られて来るんだ。俺はバナナを食べない。その神学生は特に、部落解放に人の重さを考えました。わたしたちの社会がエジプト、部落の人たちは奴隷のように扱われている。部落に人たちの中に入り、運動の中で結婚し、今でも活動しているようです。その神学生は関東の人、京都に住んでいるようです。

     

    信仰とは生活です。命の喜びのうちに生きる生活の道です。神学校で神様とちょっと深く出会った。今までとはちょっと違った神様を知った。信仰を持っていると言いたい。わたしたちが信仰の道を歩く、信仰生活をするのです。 ある神学生は山谷で仕事をする体験をしました。山谷に集まるホームレスの人たちのために相談にのったり、山谷の食堂で食事を造ったりの世話をする。その神学生は、神学の勉強をする以上に神様の力を感じると言います。神学生を離れました。

     

    ヤイロと幼い娘さんは、また、二人を囲む人々はイエスと出会いました。失って行く命の悲しさのうちに命の尊さを知るのです。命が与えられた。これは神様の恵み、大きな神様の恵みです。こんな喜びはない。わたしたちは神様から与えられた命によって生きていることを目の前に見たのです。

     人々は大声で、泣きわめいていた。イエスは子供のいる部屋に入った。静かに祈る。その部屋は神様の場となった。イエスは子供の手を取って言われます。「タリタ、クム。」

    子供はすぐ起き上がって、歩き始めます。

     

    12年間、出血で苦しんでいた娘さんは全く希望を失くしていた。全財産を使い果たした。その日、イエスの事を聞いた。イエスに希望を持った。服にでも触れたい。触れるとすぐ、出血が止まり、体が癒されたと感じた。イエスはその娘さんに言われます。あなたの信仰があなたを救った。

     

  • 洗礼者聖ヨハネの誕生 18-6-24

      ある人が言いました。わたしの洗礼名は洗礼者ヨハネです。母が決めたようです。使徒ヨハネの方が良かったのに。相当日が経った時、その人は言いました。ヨハネの事を考えました。ヨハネは修道生活をしていたのですね。神様の道を歩いた。自分の人生をかけて神様のみことばを示したのです。 わたしたちは聖書に出てくる人たち見る時、その人たちには神様の特別な力が働いて、修道生活を送った、イエスについて行ったと思っているかも知れません。誘いを決断するのは自分です。皆、自分の決断によって、与えられた人生の道を歩いたのです。選んで歩いた。

    求めるものを静かに考えていたと思うのです。

     

    その時代、イスラエルでは独立動が起こっていました。ガリラヤはエルサレムから遠く離れていることもあって、武器を持った小さい集団から500人を超える武装集団が騒動を起こしていました。イスラエルはローマ帝国の植民地だ。独立すべきだ。独立運動には神様の力が必ず働く。イスラエル王国を造ろう、そんな運動です。ある人たちは言います。わたしたちが住んでいるイスラエルは神の国ではなかったのか。アブラハム、モーセに率いられてイスラエル着いた。神様のみことばによって神の国を造って行こう、それがイスラエルではなかったのか。しかし、今、この世には光がない。この世は終わる。終末が来る。一方ではそんな終末思想がイスラエルを覆っていたのです。

     

    人々は預言者を求めていました。今、わたしたちはどこに神様を見るのか。

    ヨルダン川のほとりに預言者が現れたと言いう噂が立ちました。その人は神様の道を語る。力強く語る。神様を求めるものはヨルダン川に向かいます。多くの人たちがヨルダン川に集まりました。そしてヨハネに出会ったのです。

     

    ヨハネの生活は修道生活でした。人々は言います。ヨハネの姿はエリヤのようだ。ラクダの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食物としている。(マルコ14~)

    ヨルダン川のほとりでヨハネは叫びます。律法のうちに正しさを見出しなさい。善い実を結ばない木は切り倒される。斧はすでに木の根本に置かれている。あなたの生活は何なのですか。神様のもとに戻りなさい。律法の教えを思い起こしなさい。

     

    ヨハネはわたしたちに言っているように思います。あなたたちは洗礼という上着を着ている。洗礼の上着によってあなたの心は温まっていますか。

      

    ある人は相談します。給料が安いのです。自分の給料で満足しなさい。今のあなたが善い社会を造ろうと歩き始めなさい。不満のうちに止まってはいけない。徴税人が洗礼を受けるために来ました。わたしはイスラエルを裏切る徴税人です。わたしはどうすればよいですか。徴税人のあなたは、高収入のあなたは何を求めていますか。あなたの富はあなたの富ではない。人のために働く富ではないですか。多くの富を喜びなさい。兵士も聞きます。わたしたちはどうすれば善いのですか。守ろうとしている物を見つめなさい。何を守るのか、誰を守るのか考えなさい。そして自分の役割を考えなさい。 自分のために働くのではない。自分の得のために働くのではない。

     

    ヨハネの思いは、第一朗読イザヤ預言書に書かれている事のように思います。

    わたしは神様と出会った。そして知ったのです。神様はわたしが母の胎にいる時にわたしを呼ばれた。わたしは神様のみ心に包まれている。わたしの口は神様のみ心を語る。神様は言われました。あなたはわたしのために働きなさい。あなたによってわたしが現れる。あなたの輝きによってわたしが輝く。あなたはイスラエルを集めなさい。信仰のうちに歩む。神の義のうちに歩む。わたしの救いを地の果てまでもたらす者となりなさい。

     

  • 年間第11主日B  18-6-17

      今日は神の国の話です。天の国、神の国というとこんな思いがあります。わたしたちがこの世の旅、人生の旅を終わった時、神様に呼ばれ、導かれあの世に行く、そこが天国ではないか。神の国は神様が治めておられるところ、全く清い、汚れがない、罪がない、苦しみがない、悲しみがない、まことの喜びに満ちているところ。何の気づかいもなく、自由を味わう、そんな善いところと思っていました。だから、神の国に入ったら、苦労して働くことがない、好きでもない勉強をしなくてもよい、嫌いな奴に会うこともない。神の国に入ったら、何の気づかいもなく自由に自分の思い通りに、願っていることが実現できる。

    神様は言われます。神の国に入った時、神様は善い肉と古い酒で祝宴を開いてくださる。死を永久に滅ぼしてくださる。これこそ救い。皆が一緒に喜ぶ救い。(イザヤ25・6a)

     

    神の国は天にある?イエスは常に言われています。神の国はあなたがたに接している。あなたがたの前にある。神の国への出発は今、ここから始まるのです。

     

    福音書を読みます。

    神の国は次のようなものである。神の国は大地に種を蒔くところから始まるのです。土地がある、畑を造る。種を蒔きなさい。陽の当たるように工夫する、水をあげる。(自然に、陽が当たらない芽、水充分にない芽は枯れてしまいます。)芽生え、成長し、ついには実を結び、熟します。大地に種を蒔きなさい。そうすれば、知らないうちに収穫の時が来る。何と嬉しい事か。

     

    また、からし種のようである。本当に小さな種であるけれど、土に蒔かれて、成長すると。どんな大きな野菜よりも大きくなる。空の鳥が巣を作れるほど育つのです。

     

    大地を感謝していますか。畑を造ろうとしていますか。心を育てる畑を造っていますか。

    自分はからし種。大きなものは何もない。しかし、神の国に向かって歩く。歩いているうちに面白くなってくる。

     

    神の国を思う時、子供の頃を思い出します。今思えば、毎日が楽しかった。実際は物がなく、貧しい生活でしたが、そんなことは思わない。いつもお腹が空いていたけれど、忘れている。自由だった。秋、夕方になると、赤とんぼが空に群れをなして飛んでいた。夕焼けが真っ赤で綺麗だった。空き地があり、かけっこをしたり、チャンバラごっこしたり、缶蹴り、馬飛び、思い切り遊び回った。夕方まで遊んだ。勉強なんてしなかった。テレビはなかった。毎日毎日が精いっぱいだった。

     

    大人になると、煩わしさに囲まれているように思います。勉強をしなければならない。仕事をしなければならない。仕事をして苦しむのは当たり前だと教えられる。残業は当たり前。残業しない方がおかしい。面白いのは、定時に帰ろうとすると、帰って何か用があるのかねと聞かれる。

     

    神の国は死んでからあるものですか?いや、今、あなたの前にある。神の国に向かって歩きなさい。働く、自分のために、それと同じように、隣人を助けるために働く。

    自由を喜ぶ。自由とは命を生きる自由です。自分が生きる、それ以上に隣人が生きる。自分の命を喜ぶ。それ以上に隣人の命を喜ぶ。

     

    支えられて生きている。天に支えられている。大地に支えられてえいる。海に支えられている。

    こんな喜びを知らなかった。小さなからし種がこの恵の中に育って行く。皆が生きるように、生き生きと生きるように働きたいと思います。神の国はそこにあると思います。神に国は今から始まっています。
  • 年間第10主日B 18-6-10

      主なる神はアダムを呼ばれた。「アダム、あなたはどこにいるのか。」「わたしは隠れています。裸ですから。わたしは裸であることを知りました。わたしは何も持っていない。わたしは何も知らなかった。わたしは助けがなければ生きて行けないと知ったのです。こんな裸のわたしがあなたの前に立つ事は出来ません。」「あなたは食べるなと命じた木から食べたのか?」

     

    食べてはいけない木の実は命の木、善悪の知識の木の実です。 

    命の木の実を食べる。生きていることを知る事ではないでしょうか。今、見ている、聞こえている、味わっている、触れている。今、愛する者がいる。話を聞いている、話している。すべてが喜びとなって心と体に響いている。そして、支えられて、今、ここに生きていると知る。

    善悪の知識の木の実を食べる。命に善いものか悪い者かを知る。まことに善いものを知る。排斥しなければならないものを知る。善悪の知識、知識が全くない。

     

    アダムは支えられていることを知った。恵みを知った。喜びを感じている。善に包まれていることを知った。しかし、善悪の知識がない。「食べてはいけないと命じたではないか。」

     

    群衆がイエスの家に集まって来た。群衆はイエスを求めている。群衆、わたしたちは裸である。イエスは裸であるわたしたちを見守ってくれる。群衆は言います。わたしたちはイエスに平安を見た。イエスはわたしたちの心を打つものを持っている。イエスに神様の命を感じている。

    イエスに出会ったことのない者は悪い噂を流します。「あの男はベルゼブルに取りつかれている。」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」 

    イエスは言われます。「悪霊が悪霊を追い出すことはない。悪は悪霊のうちに一つの力となっている。神様の力が、聖霊が悪を追い出す。人のどんな罪でも赦される。どんな冒?の言葉を語っても赦される。しかし、聖霊を冒?する者は永遠に赦されない。」

     

    周りに集まっている人がイエスに言います。

    「あなたの母上、兄弟たちがあなたを捜しています。」

    「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」

    イエスは静かに言われます。

    「わたしの母、兄弟は。ここにわたしの母、兄弟がいる。神様のみ心を行う者こそまことの母、まことの兄弟です。」

     

    聖霊の衣を着なさい。聖霊を冒?してはいけない。聖霊は神様です。聖霊が神様のみ心。聖霊が命の恵みとなる。生きる喜びをもたらす。

    アダムは命の木の実を食べた。命の大きさ、命の神秘を知った。

    今、わたしたちは聖霊によって命の輝きを知っているのです

    善悪の知識の実を食べた。善悪を知ろうとした。知識によって、律法によって善悪を決めた。

    善悪は働き。命のうちに、命のつながり愛の中に生まれるもの。聖霊のうちに善悪は働くのです。

     

    わたしは主。あなたたちの父である。父さんのいうことを聞いてしっかりと歩みなさい。

  • キリストの聖体B  18-6-3

      キリストの聖体。神様からわたしたちへの最大の贈り物です。

    ご聖体はイエスの姿です。

    ご聖体はイエスのみ心、み言葉、み業です。

    ご聖体はいのちの贈り物、愛の贈り物です。

     

    愛する人に何かをプレゼントしたい。愛する人から何かを貰いたい。

    わたしたちの子供の頃は貧しい生活でした。周りの人たちが皆が貧しかった。貧しいからいやだとは感じなかった。いつもお腹が空いていた。小学校から帰るといつも、「ただいまー。母ちゃん、何かある?」と聞くのです。

    その頃、クリスマスに何を貰ったのか覚えていないくらいですが、小学校の4年生か5年生くらいの時、お正月のお年玉をもらって、お年玉は500円だったと思いますが、一人でバスに乗り、大森駅まで行きました。そして、ずっとほしかった児童文学全集の一つを買ったのです。290円だったと思います。そして、佐久間のドロップの缶を買いました。この二つを握りしめてバスに乗って家に帰ります。お年玉はなくなるのですが、今でもその時の事を思い出します。

    そんなことを見ていた兄さん、姉さんがわたしが中学校に入ってから誕生日に本をプレゼントしてくれました。心に残るプレゼントです。

    あっ、忘れていましたが、心に残る最初のプレゼントは小学一年生の時に担任の先生から頂いたクリスマス・プレゼントです。イエス様の誕生の固い表紙の大きな絵本です。

     

    大人になり社会に出ます。心に残る贈り物がなくなって来ました。仕事の事しか考えていないのです。一日が仕事で終わってしまう。疲れている毎日でした。

    社会の中で自分は何なのか。

    自分は自分でないのか。

    自分の冒険が始まりました。

    ついにイエスと出会いました。

     

    イエスは語ります。心をぬくもりで包んでくれる話です。例えば、悪口を言われている時、いじめに会っている時は、その時、悪口を受け入れなさい。いじめを受け入れなさい。その人をもっともっと愛しなさい。それが愛のプレゼントですよ。愛ってそんなすごい事なんだと思ったのです。本当のプレゼントは愛のプレゼント。その人の心に入って行くプレゼントです。

     

    イエスは言われます。わたしの愛にとどまりなさい。わたしの喜びがあなたの内にあり、あなたの喜びが満たされますように。そして、わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15・1~)

     

    イエスは毎日語られました。憐れみの業を行いました。イエスの話を聞こうと、イエスの力によって病を癒してもらおうとイエスの周りの多くの人が集まります。イエスの話が心に響く。病が癒されて喜びが心に響く。皆、支えられているのですよ。今度はあなたたちが支える者になりなさい。貧しい者になりなさい。支えて行く、だから貧しい者になる。

     

    今、こんなに貧しい。もっと貧しい者になるのですか。

    隣人を思わない人になってはいけない。

    何も持っていない? それなら心をその人たちに向けなさい。

    人はイエスを理解していると思っていた。わたしたちを助けてくれる力ある方。

     

    イエスは求めているのです。わたしの中に入りなさい。

     

    わたしは何も持っていない。しかし、あなたたちに最高の贈り物を与えよう。あなたたちを愛する出来事を与えよう。あなたたちを愛しています。あなたたちをわたしの「いのち」よりも愛しています。わたしのあなたたちへの贈り物、それはわたしの体です。わたしの体を食べなさい。わたしの姿が見える。わたしの愛が見える。命が何であるかが見える。愛が何であるかが見える。

     

    イエスは苦しんで死なれました。イエスは復活されました。新しい命に生きる。新しい命の世界を信じなさい。この世の命を超える命がある。

    わたしは今、復活の命、新しい命の内に生きている。わたしの中に入りなさい。わたしはあなたの中に入る。あなたの目の前に置かれるパンになる。わたしがパン。わたしの体がパンになるのです。わたしを食べなさい。あなたの体の中に入る。イエスはわたしたちの中に入り、イエスのみ心がわたしたちの中で生きるのです。

     

    いのちとは何かを知ってもらいたい、愛とは何かを知ってもらいたい、神様とは何かを知ってもらいたい。 命をかけて「キリストの聖体」を示したのです。

     

    ご聖体を受けます。

    ご聖体はイエス様ご自身です。

    イエスを食べます。

  • 三位一体の主日B  18-5-27

      神様って何ですか。 

    入門講座の時、質問します。神様の名前は何ですか。多くの人はイエスですと言います。

    ある人は言います。名前はないと思うのですが、すべてのものを造られた方ではないですか。

    神様の名をわたしたちはイエスと呼んでいます。そして、名前は分からないけれど、すべてを造られた方、両方正しいんですけれど、満点ではないと思います。イエスは呼び名です。

    神様の本名は父と子と聖霊です。三位一体という言葉を聞いたことがあると思いますが、それが父と子と聖霊です。子がイエスです。

     すべてを造られた方:神様はおっしゃいました。わたしの名は、「わたしはある。わたしはあるというの者だ。」(出エジプト314

     

    神様はお一方です。 一つでなければいけないというのは、違いを包むものがあるということです。見えるもの、見えないもの、神様はたくさんのものを造られた。心も、生活も違うものがたくさんある。争いが生まれる。それを包む大きな心がある。大きな力があるのです。それが神様です。

    神様が3名なのですか。数える時、位格と呼びますが、この3つの位格は一つです。

    神様は働いておられます。神様が働く時、3つの姿をもって働かれるのです。父として、子として、聖霊として働かられるのです。三位であって一つです。

     

    父はご自分の子をわたしたちに送られました。わたしたちはイエスにキリストを見ました。イエスこそキリストだ。わたしたちを救う方。わたしたちは毎日、わたしたちに語りかけるイエスを見ました。

    また、病を癒すイエス、悪霊を追い出すイエス、死んだ者に命を与えられたイエスを見ました。

    イエスは殺されました。しかし、ある人たちは言います。イエスは死んでいない。生きている。わたしたちは生きているイエスに会った。イエスに神様の姿を見ました。イエスは人となられた神様です。そして、イエスが神であると宣言したのです。

    イエスは言われたのです。わたしは父の思いを語ります。父の憐れみを業で示します。父がおられなければわたしは何も出来ない。

     

    父と子の心は一体です。また、父と子は別々の存在です。別々の存在がどうして一体になれるのですか。思いを、憐みを業で示されるお方がおられるのです。聖霊という神様です。思いを実現なさる。どんな大きい思いでも、それがみ心に適うものなら、実現なさいます。

     例えば、天地創造、父はすべてのものを造ろうと思われた。子に言われます。天を造り、地を造りなさい。そして、万物をわたしの心の思いのまま造りなさい。子は造る。光よ、ありなさい。子が造ろうと思う時、聖霊が働いて現実のものとなるのです。父と子の思いのまま聖霊が造る。聖霊の中に父と子の思いがある。聖霊は道具ではありません。聖霊の中に、父と子が生きている。

    聖霊がいなければ、父と子は一体になれません。父は思うだけで、何も出来ない。子も思うだけで何も出来ない。聖霊によって父と子の思いが実現するのです。

     [聖霊の続唱という聖歌があります。その詞をゆっくり、何度も何度も読んでほしいと思います。]

     

    わたしたちは、イエスに向かって祈ります。その時、聖霊が働き、わたしたちの心を聖霊が受け取って、イエスにわたしたちの心をイエスに伝えてくれるのです。聖霊によって祈りたい。聖霊は神様の力の神様です。しかし、聖霊は父と子の思いがなければ何もしません。

     

    イエスはガリラヤの山弟子たちに出会い言われました。

    わたしのうちに一切の権能がある。わたしは父の心を、父の力を持ってもいる。聖霊が働かれている。すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。

    わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。

     

    イエスはインマヌエル。

    イスラエルを導く方はヨシュアーイエス。

    イスラエルは神様を求める人々、神様に従う人々。

    新しいイスラエルの王はイエス。

     

    インマヌエル、神はわたしたちと共にいる。

     

    わたしたちは父と子と聖霊の愛のうちに歩みます。

    神に感謝。

  • 聖霊降臨の主日B  18-5-20

      「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いているような音が天から聞こえ、彼らが座っていた、家中に響いた。」

    五旬祭の日、弟子たちが一つの家に集まり、祈っていました。天から吹き込んでくるような激しい風の音が家中響きました。炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。天からの力が、風のような、炎のような力が一人一人の中に入って行きました。 その力は聖霊です。一同が聖霊に満たされ、一人一人が語り始めました。神様を讃える、神様を喜ぶ言葉です。この物音に大勢の人たちが集まってきました。一人一人が語っている言葉は、集まった人々のそれぞれ自分たちの故郷の言葉だったので驚きました。 神様を讃える言葉が典礼の時のような、文語体でなく、普段使っている話し言葉、口語体で神様を賛美しているのだと思います。それも懐かしい故郷の言葉です。

     神様、ありがとう。お恵みありがとう。喜びの時をありがとう。今日、皆で神様に祈ることが出来ます。感謝します。家族が元気です。ありがとう。兄ちゃん、姉ちゃんが元気です。ありがとう。

    こんな祈りをそれぞれの故郷の言葉で祈っている。心が祈っている。

     

    今日、わたしたちは聖霊降臨を祝います。五旬祭の日が聖霊降臨の日です。

    聖霊降臨、聖霊がわたしたち皆に注がれました。わたしたちのうちに聖霊が住んでおられます。

    聖霊は神様の命を持っておられる。

    わたしたちは神の命に生きている。自分の命は神様の命。

    神様の命につながっている。それは、愛ではないでしょうか。

    神様はこの世で自分の命を人に、わたしたちに与えられた。神様はそれほどまでに、人を愛しておられるからではないでしょうか。

     

    神様は人への愛のために、ご自分の独り子を世に遣わされました。その独り子、イエスによって神様はわたしたちをご自分の世界に買い戻されたのです。わたしたちの代金がイエス様の命です。わたしたちは今、神様の世界にいます。

    神様がわたしたちの心と体の中に住むほどにつながっています。そのつながりが愛です。

     

    今まで、わたしたちの中に欲望、欲求の霊が住んでいました。いや、わたしたちが神様の霊を追い出し、欲求の霊を呼んだのです。人は神様のものではなくなったのでした。

    自分の世界を求めました。自分の幸せのために働く。

    人に勝つ。人を支配する。強い人が豊かな物を持つ社会を作っていったのです。

    そして、弱い人たちは苦しみを受け取りながら、死んでいったのです。

    命は神様から注がれる。命を注がれて生まれる。

    人の命はすべて神様のものではなかったのはないですか。

    神様の世界に戻りなさい。神様の命に生きなさい。

    神様は、イエスを通して、人のうちに住む欲求の霊、悪の霊を追い出し、神様の霊を人の注がれたのではないでしょうか。

    神様はご自分の子イエスによって悪い霊を追い出し、神の霊を注ぐようにされたのです。

     

    今日、聖霊降臨を祝い、聖霊が注がれている事を感謝します。

    愛を行いなさい。聖霊が助けてくださる。

    イエスの姿を思い浮かべなさい。聖霊が助けてくださる。

     

    聖霊によって神の国へ出発です。

     

     (五旬祭は「七週の祭り」刈り入れの祭り。過越祭から50日目に行われた。過越祭から始まる大きな祭りを締めくくる祭りです。)


  • 主の昇天 B  18-5-13

      その時、イエスは11人の弟子たちに現れて言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

     

     立ち上がり、出て行きなさい。

    祈りが大切です。静かに、神様を見つめ祈りたいのですが。 

    祈りについてこのように言われた事があります。薄暗い部屋の中で十字架の前で祈る。自分の罪を思い起こして、回心の思いで祈る。しかし、そのような祈りのやり方は卒業しよう。皆がそのように祈ったら、皆が修道士、シスターのように祈ったら、社会が暗くなる。 

    祈りは喜びではないですか。神様と出会う時、神様の声を聞く時ではないですか。祈りのうちに神様の中に入って行くのではないですか。神様が自分の中に入って来るのではないですか。こもってはいけない。出て行きなさい。出て行き、人と出会うのです。 ある人は言いました。修道院で、庭を歩きながらロザアリオを唱えている神父さんがいました。歩きながら祈る、落ち着いて祈っているのかなと思ったそうです。しかし、自分の中にこもる、自分に集中して祈る祈りではない、これは自分から解放される祈りだと思ったそうです。 

    出て行く、出て行き人と出会う。 思いつめたような顔で出会った人と会話をするのですか。

     

    すべてのものに福音を宣べ伝えなさい。出会う人と、今を、今までの出来事の喜びを語り合うのです。今日の注釈にすべての造られたものは人間ですと言いますが、人間だけではないと思いたいのです。すべてのものが生きている。ある物は語ることが出来ない、聞くことが出来ない、見ることが出来ない、触れて感じることが出来ない。動物、植物のような命を持っていない。人のような命を持っていない。しかし、神様がその物を造られた。その物は、その時、そこに置かれた。そのものは自分の体を持っている。自分の場所を持っている。時間のうちにいる。自分に与えられた場所にいるのではないでしょうか。 大きな木がすくっと立っている。生きている。嬉しくなる。その木に触れて、ありがとうと言ってもいいのではないでしょうか。花に話しかけてもいいのではないでしょうか。海に、川に話しかけてもいいのではないかと思うのです。(人がいる所ですると、見ている人が心配するかも知れません。) 生きている、一緒に生きている。神様の力によって、み心によって生きている。支えられて生きている。喜ぶ、声に出して喜びたいと思うのです。 自然と語り合う。

     

    イエスは話し終わると天にあげられました。わたしは天に昇り、父のもとからあなたがたに真理の霊、弁護者、聖霊を送ります。あなた方は聖霊によって、心の耳で神様のみことばを聞きます。聖霊によって、あなたがたが神様の温かさを知り、和やかさ、ほんのりとした優しさを知るようになります。生きることは愛することだと知ります。

     

    イエスの昇天は新しい命の生活の始まりではないでしょうか。聖霊がこの世を包みます。

    天の御父のみ心、御子イエスの思いが聖霊によって行われます。

    教会が造られました。聖霊が教会を造ります。教会は聖霊によって働きます。わたしたちが聖霊によって教会の煉瓦となります。

     

    天に戻られたイエスは全く自由に、場所を超えて、時間を超えてわたしたちに声をかけられます。

 
  • 復活節第6主日B  18-5-6

      イエスは言われます。

    父とわたしは命のうちに一つ。心のうちに、思いのうちに一つ。あり方のうちに一つです。

    わたしと父は全く一つにつながっています。そのつながりが愛です。

    一つに生きている、愛のうちに生きているのです。

    わたしは父のみ心を守っている。

    そのようにあなた方もわたしの心のうちにわたしと一つになりなさい。

    わたしのあなた方への愛のうちにとどまりなさい。

     

    ずっと昔の事ですが、東京大学のある学生が華厳の滝に身を投げて自殺しました。

     

    自分は何で生きているのかわからない。自分のこの命は何か。どこに希望を持つのか。

    存在とは何か。

    考えた。考えた。分からない。考えれば考えるほど分からない。

    そして、ついにその学生は華厳の滝に身を投げて死んだのです。

    その学生と同窓の神父さんが言いました。

    わたしたちは神様と出会った。神様の思いを知っている。

     

    わたしたちの命は神様のものです。

    自分の命が神様のものなのですか?

    そうです。自分の命が神様の命だと知った時に、本当に生きることが出来るのではないですか。

    自分の命が自分のものだと思って、生きている自分が分からないという。

    何のために生きているか、どこに向かって生きているのか。

    生きている自分が知らず知らずのうちに歩いているその道が分からないという。 知りたいという。

     

    神様の命に生きているわたしたちは神様のみ心を知ったらいいのではないですか。

    神様に希望を置いたらいいのではないですか。

     

    神様って何ですか。

    神様が見えるもの、見えないものをお造りになったのですか。

    見えるもの、見えないものが時間のうちに消えて行く。

    物があるとは何ですか。何の意味があるのですか。

    神様の遊びですか。

    人が造られた。時間のうちに消えてしまう命。

    人の命も神様の遊びですか。

     

    今、自分が生きている。自分の命が生きている。支えられて生きている。愛によって生きている。

    自然に支えられ、人に支えられて生きている。生きている、支えられている、愛されている。

    神様は言われます。

    わたしはあなたを愛している。あなたの必要なものはすべてあなたの前にある。全部あなたの前にある。それを取るために働きなさい。

    しかし、聞いてほしい。わたしはあなたが生きるためにあなたに命を与えたのではない。

    出会った人と一緒に生きるために、わたしはあなたに命を与えた。

    支え合って一緒に生きる、それが愛です。

    出会った人が友。

     

    出会った人が友となるのですか。

    神様は人に命を注がれ、人はこの世に生まれます。すべての人が神様から命を注がれて生きるものになっている。人と人が出会う、出会った人が友となる。いや、出会った人は皆兄弟ではないでしょうか。神様が父さん、父さんから命をもらった。

     

    そして神様は言われました。

    友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

    出会う人を友以上のもの、兄弟とする。兄弟のためなら、どんな犠牲を払ってもいいと思う。兄弟のためだったら命も捨てることが出来る。

     

    華厳の滝の大学生は人と出会おうとしなかったのではないでしょうか。

    人が自分の中にはいって来ない。自分の中に入れない。友がいない、兄弟がいない。

    誰にもつながろうとしなかったのではないでしょうか。 自分の中に命がある。それしか見ようとしない。自分しかに見ない。

    生きることは愛すること。誰も愛そうとしなければ、その人は生きていない。

    その人の命は生きる喜びをもたらす命ではない。

     

    神様は言われます。わたしはあなた方を愛しています。

    わたしの愛にとどまりなさい。

     

    神様の愛を喜ぶことが出来ますように。

     

    あなたが自分を消した時、神様のうちに入る。神様の命に入って行く。

    わたしの喜びのうちにいなさい。わたしの喜びがあなたの喜びとなる。

     

    互いに愛し合いなさい。



   
  • 復活節第5主日B  18-4-29

      サウロは純粋な青年だったと思います。曲がった事が嫌いです。妥協せず、何事にもまっすぐ進みます。ユダヤ人の家庭に生まれました。神様がすべてを造られた。イスラエルは神様から選ばれた民、神様の道を行く手本となりなさい。祝福の源となりなさい。サウロは信仰を求めた。純粋な信仰を求めました。ファリサイ派のガマリエルのもとで学びました。イスラエルの歴史を学んだ、聖書を覚えるほど読んだ、律法を学んだ。律法は神様の思い、すべてのものは律法のうちにある。律法に従いなさい。社会が律法によって動かされるのです。サウロは律法を自分の信仰の道筋としました。神様と律法のうちに向き合う。

     

    サウロはキリスト者と言いう集団が活躍していると聞きました。。彼らは神様のみ心を語る。神様のみ心を行うという。しかし彼らは律法を自由に考えている。自由に考え得るというのは律法を守らないということではないか。そして、驚いたことにはキリストという者が神だという。何を言っているのか。人が神であるはずは決してない。彼らの神はわたしたちの神ではない。イスラエルの神ではない。

     

    キリストという指導者はローマに渡され、十字架の刑に処せられ、死んだのです。キリスト集団に指導者がいなくなりました。しかし、キリスト集団はキリスト・イエスは死んでないと言っている。わたしたちは神様といであったと言っている。むしろ、今までよりも深く生活しているというのです。

     

    イスラエルは混乱しています。キリスト集団が混乱の原因を作っているのです。彼らの信仰は間違っている。彼らを許すことは出来ない。子供も大人も、女も男も、見つけ次第、捕らえて牢に入れてしまう。 サウロにとって神様を信じるとは、聖書を知り、祈りの時間を持ち、律法をより従順に守ることなのです。

     

    イエスはサウロを見ています。キリスト者の迫害に情熱を燃やしているサウロにキリストは呼びかけます。新しい命のうちにいるキリストは天からサウロに呼びかけます。「あなたはわたしを迫害している。」 サウロはこの出来事に驚きます。イエスは何者なのか。イエスはキリストか。新しい命とは何か。イスラエルとは何か。信仰とは何か。

     

    サウロは3年間アラビアに退き、自分を見つめなおしたのです。自分にとって神とは何か。イスラエルは神様から選ばれた民ではないのか。選ばれた、何のために選ばれたのか。

     

    サウロはイエスに出会った。イエスがサウロを包んだのです。

     

    イエスは言われる。わたしは葡萄の木。わたしにつながっていなさい。わたしにつながってわたしの実を結びなさい。

    サウロは神様を求めていました。聖書によって、祈りによって、律法によって、求めていました。

    イエスは言われます。わたしはあなたのどこにいますかあなたは神様を自分のものにしようとしているのではないですか。聖書をいかに知っているかを競う、どれだけ祈っているか競う、どれほど真剣に律法を守っているかを競う。 そんなのは信仰ではありません。あなたを超えて神様はおられます。神様は今も生きておられます。生きておられる神様と向かい合って話をしなさい。

     

    わたしは葡萄の木。与えなさい。与えなさい。与え尽くしなさい。その時葡萄の木の枝になります。自然と出会いなさい。人と出会いなさい。出会った時、聞く者となりなさい。出会う相手の心とつながりなさい。自然を聞く。自然に語っても自然を聞くことは出来ません。心に何もなくなった時、自分の思いがなくなった時、自然の言葉が心に入って来ます。人と出会う。聞く者となった時、語りなさい。 それが平和。神様の喜びです。生きている、それは神様の支えです。神様の支えがなければ生きることは出来ません。 もしその人の信仰がなかったとしたら、神様はその人にいつでも、どんなことをしていても、呼びかけます。わたしのもとに戻っておいで。信仰のない人を裁く、苦しめる、それは神様の出来事ではありません。その人が神様のみ心を知ったなら、その人は神様のもとに帰ります。

     

    わたしは葡萄の木。わたしにつながっていなければ、善悪の判断をすることは出来ません。わたしにつながっていなければ、実を結ぶことは出来ません。

     

    サウロは葡萄の木に神様のみ心を見たのだと思います。

     

    神様のみ心、聖霊によって働く教会は葡萄の木ではないでしょうか。
  • 復活節第4主日B 18-4-22

      この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。

    わたしたちは社会という共同体に生きています。共同体、家の中に生きているのです。家はまず始めは家庭です。町内会があって、市があります。県があり、国があります。わたしたちは家を造りながら生活しています。家はこの世の共同体なのでしょうか。いや、わたしたちが属しているこの世の共同体を超える教会という集まりがあります。

    わたしたちは2つの家に住んでいるのかなと思ってしまいます。 イエス様の時代、ペトロ、ヨハネが働いていた時、会堂共同体が町の共同体を作っていたのではないかと思います。町が神様の思いのうちにあるように。そんな家を造って行くのです。

     

    ペトロとヨハネは捕らえられました。わたしたちは病人を癒しました。そのことで捕らえられているのですか。病人を癒すことが善い事ではありませんか。神様の喜びとなることではありませんか。

    わたしたちは病人を癒す力をいただきました。それは、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスの名によるものです。

    イエス様は神様が求める家を造ろうと働いていた方ではありませんか。神様の恵あふれる、光あふれる、温かな、ゆったりとした、喜び、感謝の家、苦しんでいる人たちが支えられる、そんなつながりのある家を造ろうとしていたのです。 そのイエス様をあなた方は十字架にかけえて殺してしまったのです。

     

    イエス様は言われました。わたしは善い羊飼いです。羊は羊飼いのうちにいます。羊飼いから食べることを教えられ、飲むことを教えられます。歩く、走る、休むことを覚えます。その羊飼いによって小羊はまことの羊になるのです。善い羊飼いは羊とつながっています。羊は羊飼いの呼びかける声を聞き取ります。羊は羊飼いの声を知っています。羊飼いは羊を一人ぼっちにしない、置いてけぼりにしません。羊飼いは羊のためにそばにいる、一緒にいる、羊のために働く、それが羊飼いの生活です。羊のためにいのちも捨てると、まことの羊飼いイエス様は言われました。危険が迫った時、命をかけて危険と戦う。危険から守る。羊飼いは羊を本当に大切にしている、羊を愛しています。羊飼いと羊はつながっている。命によってつながっている。まこと羊飼いイエス様は言われます。わたしの羊を奪う者はわたしの命を奪う者だ。

     

    この囲いの中に入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。

    その羊も羊飼いの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れとなる。

     

    羊は誰ですか。羊飼いは誰ですか。

    復活節第3主日B  18-4-15

      復活、この世を超える命があります。その命を見た。復活の命を見た。死んでも生きる命があります。復活を信じます。神の恵みを深く感じることが出来ますように。

    わたしたちは復活の証人です。復活の喜びを出会う人と分かち合うことが出来ますように。

     

    日曜日、2人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって旅をしていた。2人は歩きながら議論している。 イエスは毎日、神様のみ心を語ったのではないか。イエスの言葉が、神様の喜び、温かさ、慰め、憐れみを語った。神様の思いがイエスの話となって流れ出てくる。イエスの話が人々の心に入って行くのですイエスの言葉が水のように人々の心の中に入って行く。

    神様のみ心がイエスの業となる。イエスは悪霊を追い出す。死んだ者が生き返る。

    安息日の前、イエスが十字架にかかって死なれた。苦しみのうちに、苦しみを受け取りながら、何の抵抗もせず、十字架に釘付けされ殺された。

    なぜ何も抵抗をしなかったのか。万軍の主に助けを求めなかったのか。そんなことを神様は赦されたのか。 そして墓に行った婦人たちは言った、墓の中に遺体がなかった。

    しかし、天使たちが言ったという。あの方はここにおられない。復活なさった。

    2人がイエスの出来事を論じ合っていると、道連れが話に入って来た。宿で食事をした時、その人が感謝をささげパンを裂いた、その時2人はその人がイエスだと気づいたのです

     

    2人の弟子はエマオからエルサレムに帰って皆に、告げる。わたしたちは復活したイエスに出会った。仲間たちは誰もその話を信じない。

     

    鍵のかかっている家の中、弟子たちが集まっている真ん中にイエスは立った。そして「あなたがたに平和があるように」と言われた。 目の前にイエスがいる。皆、驚く。恐れおののく。うろたえる。

    イエスは言われる。「わたしだ。まさしくわたしだ。わたしの手や足を見なさい。触ってよく見なさい。」

     

    イエスは言われる。わたしについて聖書に記されている事柄はすべて実現する。

    聖書を心の目で読みなさい。 聖書の言葉は心の言葉です。文字を理解するのではない、イエスの出来事を考えるのではない、イエスと出会う、生きているイエスと出会うのです。

    聖書を読む。その世界の中でイエスが今、あなたと語られているのです。

     

    復活は見えない出来事です。見えない恵です。大きな、本当に大きな恵み、命にかかわる、生き方にかかわることです。イエスの出来事、イエスの歩いた道です。わたしたちは十字架に向かって祈ります。十字架は愛の苦しみです。苦しみの命を超えて喜びの命が働きます。

    復活は生き生きとしたいのちの喜びです。

     

    自分の十字架を受け取ります。十字架を背負いながら、復活の道を歩きます。

      (自分の十字架って何ですか。イエスは平和があるようにと言われました。

      平和とは与えることです。人のために働くことです。特に隣人のために働

    くのです。

      あなたには隣人がいますか?)

    復活節第2主日B  18-4-8

      イエスが捕らえられた。イエスは神を冒涜している者、律法を破る者。イエスを亡き者にしたい。ユダヤ人の我々には人を死刑にすることが出来ない。イエスをローマに引き渡そう。イエスは死刑の宣告を受けた。十字架を背負って、人々の前を歩き、ゴルゴタの丘に登った。十字架に釘付けにされ、命を奪われた。

     

    イエスが残酷な姿で、死んでしまった。イエスの力に期待を持っていた人たちは希望を失った。

    弟子たちはいイエスから離れ、逃げ去ってしまった。

     

    日曜日、弟子たちは集まった。自分たちはイエスにつながるもの。弟子たちはユダヤ人たちを恐れていた。世を支配する力を恐れていた。弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、沈鬱に黙り、ある者は言葉少なに語るだけだった。

    イエスが来られた。「あなたがたに平和があるように。」 皆はイエスを見た。

    平和:心静かに聞く者になりなさい。平和とは我慢することではありません。忍耐を争うことではありません。相手のいうことを聴く。何時間でも聴くのです。言うことが亡くなるまで聞き入るのです。そして、静かに自分の思いを語るのです。このように引き籠ってはいけません。

     

    「聖霊を受けなさい。内に籠もるのではなく出て行きなさい。人と出会いなさい。生きる命の喜びを語り合いなさい。」

    あなたは神様と出会った。今、あなたがたは神様の大きな恵み、祝福のうちにいる。聖霊があなたの内に入られた。神様が今、あなたの内におられる。

     

    弟子たちはイエスを見た。イエスの声を聞いた。弟子たちは生まれ変わったようなイエスを見たのです。ますます汚れのない、清さがにじみ出ている姿を見たのです。

     

    トマスは言う。イエスを見たというが、イエスは死んだ。死んだ者が姿を現したというのか。そんなことはあり得ない。あの方に体にこの手で触れなければ、わたしは決して信じない。

     

    次の日曜日、弟子たちは鍵のかかった家に集まっている。イエスが来られた。イエスは言われる。トマス、わたしの体に触れなさい。わたしの手を見なさい。わたしの脇腹に触れなさい。わたしの苦しんだ傷跡です。

     

    信じる者になりなさい。

     

    トマスは言う。「わたしの主、わたしの神。」

    トマスの内にイエスは入って来られた。心と体がイエスでいっぱいになった。わたしは神様のものです。

     

    信じる者になる:神様のものになることです。精一杯神様を愛する。隣人を自分のように愛する。人のために苦労することではないですか。隣人を理解超えて受け入れること。問題が起こった時、無理と思っても、そのまま受け入れることではないでしょうか。我儘だと思っても、一方的だと思っても、そのまま受け取ることです。

    その姿はわたしたちに対するイエスの姿です。

     

    イエスのわたしたちへの愛を信じます。天の父のわたしたちへの愛を信じます。

     

    わたしたちは復活の命への道を歩みます。

     

    復活の主日・日中のミサ 18-4-1

      主は復活された。死んだ人が生き返る。そんなことがあるはずはない。

    イエスは死んだ。イエスの死をエルサレムの人たちは皆、見た。イエスの活動していた時は終わったのだ。皆そう思った。もう、イエスの姿を思い起こすまい。イエスを忘れよう。

    ペトロもヨハネも復活を知らなかった。神様の力。神様の神秘。神様が与えてくださるの新しい命への復活の神秘を知らなかった。

    墓の中にいない。どこに行ったのでしょうか。

    イエスは来られた。弟子たちは言う。わたしたちはこの目でイエスを見た。

    イエスの言葉を思い起こした。わたしは3日目に復活する。イエスの言葉が見えるものとなった。

    その時から弟子たちは言うのです。イエスは生きておられる。イエスは神様が聖霊と力によって油注がれた方です。イエスに新しい命が生まれた。

    死んだ人が生き返ったのではない。死んだ人が今までの命を終え、神様に呼ばれ新しい命を与えられたのです。イエスが新しい命を身をもって示された。イエスによって新しい命が与えられる。イエスがそれを示されたのです。

     

    わたしたちはイエスの復活を見た人たちの証言を信じます。神様の不思議を信じます。コロサイ書は言います。「地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのである。」(コロサイ323) 復活を信じる者は死んだのです。地上から離れるのです。

    あぁ、そうか。イエスは言われました。わたしの国はこの世に属していない。

     

    わたしたちは復活の道を歩みます。

    復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 18-3-31

      復活:喜ぶこと、ありがとうが心に溢れることです。一緒にいることが出来る。そうだ、喜んでいるときは悪い事を起こそうなんて浮かんでこない。復活は喜びの出発です。

     

    こんなことを思いました。神父、お前は命について語っている。貧しさ、苦しみ、悲しみについて語る。貧しいものは何も持っていない。悲しい者は自分に仲間がいない、人を誰も信用できないと思ってしまう。貧しさを見つめなさい。持っていることは不自由です。何も持っていない自由を見つめなさい。自分の思いを行える喜びを思いなさい。悲しい、苦しい、十分悲しんで、十分苦しんで、悲しさ、苦しさを克服しなさい。その時自由になる。

     

    神父であるお前は昨日の断食に自分の中にある誘惑の強さを知ったのではないか。お前はほんの一時、足がふらつくように思った。一日、心が落ち着かなかった。たった一日の断食にようやっと耐えることが出来た。でも、水を飲んだな。水がなければ、声が涸れてしまう。そんな理由をつけた。

     

    今日、朝早く起きました。不思議なのですが、その時、お腹が空いて仕方がないとは思わなかったのです。今日、何かごちそうを食べたいとは考えなかったのです。自分の体の自分勝手を思ったのです。 昨晩はよく眠れたので、朝からハンバーグとガーリックライスを作って食べました。レタスのサラダも食べました。

     

    命は愛。一方、人と付き合うのは煩わしいから、一人で時を過ごす。心理学の勉強をして見ようかな。歴史は面白い、神学を勉強しよう。一人で学問の世界に入って行く。勉強が面白くなってどんどん一人になって行く。出口がなければ、それは自分の世界の構築です。強い自分の世界です。

    祈る。深く祈る。祈って行くと、どんどん見えない世界が感じられる。心持ちが変わってくる。聖書を深く読む。聖書の世界に入って行く。それらも自分の世界です。強い自分の世界です。

    この人は愛は持っているけれど、自分の愛は行き場所がない。誰のために働いているのですか。

    愛は出会いです。その人のために働く事です。

     

    死ぬのは一人。死にたい人は誰にも煩わされたくないと思って人ではないですか。死は一人、今までも、今からも一人。暗闇でいくら叫んでも、何を叫んでも返答がない。死んでしまったら言葉もなくなってしまう。誰もいない、話が出来なくなる。言葉がなくなってしまう。

    喜びは誰にでも声をかけたい。一緒に喜んでもらえたらいい。

     

    復活は命への感謝です。神様の事を思うと気が引き締まる。体が引き締まる。聖書を読むと、聖書から何かを教えられる。聖書は神様のみ心を伝えたくて書かれた物。神様を囲む人たち、神様のみ心を大切にする人たちの様子だと思っていました。聖書を知識で読んでいたのです。

     

    弟子たちは3年間イエスと一緒に生活していました。朝から晩までいつもイエスと顔を合わせていました。弟子たち同士、何もかも語り合う生活が出来て行ったように思います。弟子たちは聖書を読んだことがなかった。神様のみ心は子供の時、寝る前に、父さん、母さんから話を聞かされていたのです。そして、安息日に、会堂の別の部屋で、今でいう教会学校でレビの人たちから教えられたのです。 弟子たちは、いつも一緒にいるイエスがもし、しかめっ面だったら、我慢できたろうかと思うのです。この社会に不満を持つ、血気盛んな青年たちです。毎日のように語り合う、イエスはおおらかです。ユーモアが分かる方です。顔はにこやか、時には厳しい方です。

    聖書はそんなことは書かなかった。一番真に迫まることを書いたのです。

     

    復活を喜びます。新しい命を、新しい世界を示された。言葉ではなく、この世に示された。言葉がしるしとなったのです。

    受難の主日(枝の主日B) 18-3-25

      イエスがエルサレムに上られる。大預言者、ダビデの子、あの方こそメシアではないか。温和なロバに乗り、ゆっくりとエルサレムに上られる。人々は自分たちの服を道に敷いて、木の枝を道に敷いて、喜びながらイエスと一緒に歩く。ホサナ、ホサナと叫びながら歩く。イエスがエルサレムに入るならば、万軍の主が味方してローマ軍を蹴散らし、イスラエルが独立する。人々はイエスの姿に心を躍らせるのです。

     

    一方、ユダヤの指導者たちは最高法院を開いて言います。イスラエルは不安定になって来ている。ローマ軍がエルサレムに入って来るかも知れない。大祭司カイアファが言います。

    「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたたちのために好都合だと思わないのか。」

     

    イエスがピラトの前に引いて来られました。

    「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」

    「十字架につけろ。」 

    イエスは鞭で打たれて、十字架を背負わされる。

    茨の冠をかぶせられ、唾を吐きかけられ、侮辱される。

    十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。

    イエスは9時から3時まで十字架の上で苦しまれました。3時にイエスはついに叫ばれました。

    「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」

    イエスは息を引き取られました。命を献げられたのです。

     

    今日は「受難の主日」と「枝の主日」を祝います。一緒に祝います。

     

    本当にこの人は神の子だった。

  • 四旬節第5主日B  18-3-18

      主はわたしたちに言われます。新しい掟を与える。今まで、わたしは言葉のうちにわたしの律法掟と法をあなたたちに与えた。すべての言葉とすべての法が文字によって人々に示された。律法に神様のみ心を見ます。力を尽くして律法に従いなさい。人々は律法を守るよう努力した。

    主は言われます。あなたたちはわたしの思いのうちに、わたしの心のうちいなかった。あなたたちはわたしの契約を破った。あなたたちはわたしの心を考えずに、律法の道を歩いた。悔い改めの心を持たないで、いけにえを捧げた。勉強を楽しく思わない者が百点をとって威張るのです。

     

    今、わたしは新しい契約を与える。わたしを知る者となりなさい。

    わたしの律法をあなた自身の中に与えるのです。あなたの胸に授け、あなたの心の中にそれを記します。新しい契約は主であるわたしとあなたとの心のつながり、命のつながりです。わたしとあなたの命がつながっている。あなたはわたしを心で知る者になる。

    その時わたしは言います。主を知った者は、主のうちにいるものは罪を犯すことは出来ない。

     

    イスラエルの祭りに、イエスはエルサレムで祭りを祝います。神様と共にいる心を新たにするのです。 イエスは言われます。人の子が栄光を現す時が来た。栄光は神様の力が光となって現れることです。神様のすべてを包む、圧倒する力を目の前に見る。まことの喜び、まことの安らぎ、温み、心地よさです。神様の新しい契約は栄光で人を包むこと、愛ではないかと思うのです。愛は言葉ではない。律法を守ることではない。心の中に入ること。その人のために働くことです。

    神様の愛が栄光となる。絶対の愛です。絶対の愛がわたしたちを包む。

     

    イエスは栄光について、愛について不思議なことを語ります。

    一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。わたしに仕えようとする者はわたしに従え。わたしのいるところにわたしに仕える者もいるからである。

     神様からいただいた命は一粒の麦ではないか。麦が生きるためには愛のために命をかけることではないか。そしてイエスは言われます。わたしはそのために来たのである。

     

    わたしは父にみ心と一つになるため、命を捨てる。このために来たからである。わたしはすべての人の罪を背負うのである。わたしの中には何もない。空っぽである。人々の罪がわたしの中に入り込む。わたしは人々の罪でいっぱいになる。そしてわたしは罪と共に命を失う。人の中に巣食っている罪は消える。

     

    人を愛する時、自分の命が生きる。自分の命を愛のために捨てる時、自分の命が生きる。

    イエスの姿を深く深く思い巡らします。イエスの十字架によってすべての人がイエスのもとに引き寄せられる。

  • 四旬節第4主日B  18-3-11

      今日の第2朗読・エフェソの教会への手紙を読みました。人間とは何ですか、神様は人間をこんなに愛しているのですよ、パウロによって、神様の人への愛を教えられているように思うのです。

    あなたがたの生活は自分の思いの生活ではないですか。自分の好き、嫌いを選び、楽しく過ごしているのではないですか。自分を楽しむ、家庭を楽しむ。小さな幸せ。神様は言われます。でも、そのような幸せ、そのような生活はわたしの求める生活ではありません。わたしの生きる命ではありません。あなたは自分しか、自分と自分の家族しか見ていないではないですか。あなたを支えている自然への感謝はどこに行ったのですか。あなたを支えている皆への感謝はどこに行ったのですか。わたしのあなたへの思いはどこに行ったのですか。

    あなたはあなたを囲むものを見ようとしない。あなたは自分の城をしっかりと造り上げ、その中に住んでいるのではないですか。

     

    エフェソの教会への手紙は語ります。憐れみ豊かな神はわたしたちをこの上なく愛してくださっている。憐れみ豊かな愛その愛によって死んでいる命を生きる命に変えてくださる。自分の命だけを楽しむのは罪ですと言われます。命は愛です。命は憐みです。愛はつながりです。憐れみは隣人を思う心。その人とつながる事。命はつながらなければ、生き生きと生きない。自分だけの命は死んだ命です。

    神様はわたしたちに恵みをふんだんに注がれています。神様からのあふれるほどの恵によって信仰を見つけられたらいい。信仰はつながりです。恵みを喜ぶ。恵によって新しい心生まれます。恵によって笑顔が生まれます。恵にあふれて話しかけたくなります。恵によって隣人が見えます。喜びの心で見渡すと助けを求めている人が見えます。信仰とは人の心の姿が見えることではないでしょうか。 

    キリストはご自分の思いのうちに人を造ります。人は神の命を注がれた神の子供です。神様に従順でありなさい。キリストに似て憐れみ深い人になりなさい。善い事を行いなさい。他人を兄弟としたらいい。兄弟のために働きなさい。手助けを求める兄弟のために働きなさい。神様に愛されている人が、神様の思いを知らずに生活している。自分が何であるか思い巡らします。

     

    福音書を読みました。 イエスはニコデモに言われました。

    モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。蛇は荒れ野で不平をつぶやく人をかみました。人は傷を負いました。命を奪われました。自分たちの命を奪った、自分たちに傷を負わせた蛇を旗竿の先に掲げて見上げなさい。見つめなさい。蛇の心が自分に入って来る。自分のわがままが見えてくる。

    人の子を旗の先に掲げて上げなさい。人の子はイエス。神様を十字架にかけた。父さんを苦しめている。全部父さんからもらったのに父さんを裏切って殺してしまった。イエスを、父さんを見上げる。自分の罪を見つめる。イエスの前に膝まづいてしまう。

     

    もっと身近に例えたらいいと思いました。蛇を、嫌な奴を、顔も見たくない奴を見つめる。自分がいじめていたものを見つめるのです。自分のうっ憤をその者にぶつけていた。そのものを使いッ走りにしていた。自分の罪をその者になすりつけていた。手下のように、奴隷のように扱っていた。その自分の手下、奴隷のような人が苦しんで死んだ。あなたが苦めて死なせた。その人を見上げなさい。その人の苦しみを思い、味わいなさい。その人はあなたの見せたくない部分、嫌な部分ではないですか。その人を見続けなさい。

     

    悪の世界。光がない世界。見たくない、もう見ない、捨てたい世界。 

    人の子が来られました。それはみんなと一緒に光の道を歩むためです。人は神様の愛によって生まれた。神様の愛によって命を注がれたのです。人は自然に支えられている、人に支えられている。光に向かって歩んでゆくのです。

    四旬節第3主日B  18-3-4

      今日の聖書を呼んでいると、出エジプトを忘れてはいけないと言われているようです。四旬節の道は出エジプトの道ではないですか、四旬節の歩んでいるあなたの心をじっと見つめなさいと言われているのです。 第一朗読、イスラエルはエジプトから脱出して、3か月後にシナイの荒れ野に着きました。モーセは神様に呼ばれ、シナイ山に登ります。シナイ山の山頂に着きます。モーセはそこで4040夜断食します。主はモーセを見つめている。そして、ついに主なる神は神様のみ心を文字にして律法を与えられました。

    その律法は言います。わたしの心のうちに歩みなさい。この律法はわたしの道からそれないようにするための道しるべです。 あなたたちはわたしのものです。どんな偉大な人と出会っても、その人の奴隷となってはいけない。あなたがどれほど大金持ちであっても、どれほど強力な力を持っていても、どんな人であってもその人を、その人たちを奴隷としてはいけない。

    十戒はそれぞれの箇条で、してはいけない、しなさいと命じられています。この根底には「あなたを奴隷の家から導き出すためである」という神様のみ心があるのです。自分が自由であるためには他人の自由も大切にするのです。

     

    過越祭が近づきました。過越祭はモーセの出エジプトを祝う、思い出す、心に留める祭りです。過越祭が近い、正しく四旬節ではないでしょうか。イエスは神殿の境内に入ります。賑わっている。神殿の境内に大勢の人たちが行き交い、神殿の境内が市場になっている。四旬節にどうしたのか。神殿に入るために、いけにえを用意する。いけにえを買う。いけにえをささげて祈る。それが神殿の境内の賑わいの流れになっている。

    神殿に行くのは祈りに行くのではないですか。神殿で神様と会う。心が清められるのではないですか。 いけにえは自分自身ではないですか。自分自身がいけにえとなるのではないですか。

     

    イエス様は言われます。この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。

     

    わたしたちは今、四旬節の道を歩いています。教会で休む。心を休ませる。静かに、深く愛の世界を思い巡らしたいと思います。

    四旬節第2主日B  18-2-25

      神様はわたしたち問われます。一番大切なことは何ですか。

    それは、弱い者である、小さい者であることを知りなさい、と言いうことですか。完全な者でありなさいということですか。神様を愛し、また、隣人を愛しなさいということですか。これらはみな大切なことばかりです。これらのもととなることを見つめなさいと言われるのです。それは命です。命を喜ぶことです。いのちとは動物、植物が生きている、働いている事、人が動いている、働いていることです。神様は言われます。わたしの喜びは人が皆生き生きと生きている、自然の命の世界の中にいて、自分が生きていることを知る。自然の命を喜ぶ。自分の命を喜ぶのです。

    完全な者になりなさいと言われました。(マタイ548

    人は弱い者である、小さい者である、それが完全な姿。だから少しでも強くなろうと道を歩む、少しでも大きくなろうと道を歩むのです。

    生きることは愛すること、愛することが生きること。神様を会いなさい、隣人を愛しなさい。愛し続ける事、いのちを感謝し続ける事、それが人の完全な姿です。

     

    わたしたちは神様の愛によって、いのちが注がれ、この世に生まれました。そして、今生きています。この命は自分の命ではない。それを忘れている。

    そして、命は動かなければ、働かなければ命ではない。それ以上に、人の命は自然に支えられている、人に支えられている。そこで、自分は小さい者、弱い者であることを知るのです。生きる、だから愛することを知って行くのです。

     

    アブラハム、あなたは自分の独り子である息子さえ、わたしに献げる事を惜しまなかった。あなたはまことに神を畏れる者だという事が分かった。あなたの信仰の如何に深いかを知った。あなたを豊かに祝福しよう。

     

    アブラハム、あなたの愛してやまない一人息子イサクを、焼き尽くす生贄としてささげなさいと神様は言われた。アブラハムは苦しむ、悩む。しかし、どんなに苦しくても神様に従う。その出来事が全く理解できなくても神様に従う。これが信仰ではないか。神様はその姿を喜んだ。

    そして言われる。わたしの喜びは人の命を喜ぶことです。だから、わたしは人の命を生贄とすることは望んでいない。あなたたちは自分たちの利益のため、赤ちゃんをささげ物として来た、おとめをささげ物として来た。わたしは言う。どんな状況であっても、決して人をささげものとしてはいけない。アブラハム、あなたの信仰の深さを見た。信仰の心をもって、なんでも分からないことを問いなさい。

     

    高い山の上で、弟子たちはイエスの姿が変わるのを見た。イエスの衣は雪のように白く輝いている。イエスはモーセ、エリヤと語り合っている。雲が現れて、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 山を降りる時、イエスは弟子たちに命じます。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」 弟子たちはイエスのこの言葉の意味は全く分からなかった。

     

    その世界は、イエスがおられる神の世界を見たのではないでしょうか。モーセの歩いた道、エリヤの歩いた道がイエスを目指し、イエスにつながっていたのではないでしょうか。

    神様の世界に復活の命がある。

     

    いのちの喜び、一番の喜びは復活の喜びではないでしょうか。イエスの生きたそのいのちに学びなさい。そのいのちの道を歩みなさい。

     

    人と出会う、自然と出会う。人のために働く、自然のために働く。出会って祈りたいと思います

 
  • 四旬節第1主日B 18-2-18

     わたしたちの社会はノアの時代と同じではないですかと主は問われているように思います。

    第一朗読でノアの箱舟が語られま。神様は水によって地上を洗い清められたのです。悪いものは滅びよ。水で、洪水によって地上のすべてのものは滅びました。人が滅ぼされた。神様は人の生活を見ました。人は神様の命を捨ててしまった、生き生きと生きるいのちの喜びを失ってしまった。殺伐とした欲望の世界になっていたのです。自分の思いしか見ない。自分の欲求しか考えない。 山の上で「どでかい舟」を造っている。えっ、何をしているのか。人のために働く場を作るという。一緒に働いて、一緒に喜ぶという。何て馬鹿なことをしているのか。笑いながら、酒を飲もう。

    箱舟は教会ではないですか。隣人のために働く教会です、そんなことを考えたいのです。

     

    神様は水で地上に生きるものをすべて滅ぼされた。水は人命を滅ぼすためのものではない天からの水、地から湧き出る水は人の命、植物、動物の命を支えるものではないですか。

     

    箱舟の人たちに主は言われます。あなたたち、あなたたちの子孫に契約を与えよう。契約は神様とわたしたちとの約束です。神様とわたしたちの特別なつながりです。

    その契約は生きなさいということではないでしょうか。わたしはあなたがた一人一人を見つめています。一人一人、心に留めています。わたしはいのち命を注ぎ生まれるのです。これが愛です。あなたたちはわたしの愛のうちに、自然の力によって生きます。人の支えによって生きます。

    主は言われる。この契約のしるしは虹、雲の中に虹を置きます。虹を英語でrainbowです。rainは雨。bowは弓です。弓は矢で生きる物を刺し貫きます。神様は矢で地上に命の雨を降らせます。雨は命の水。生きる者となりなさい。一緒に生きる。愛のうちに生きる。

     

    神様の契約は生きなさいということです。あなたたち一人一人に命の力を注ぎます。愛のうちに生きなさい。 水によって生きる者となる。あぁ、これこそ洗礼ではないかと思います。

     

    神様はこの世にイエスを送られました。霊はイエスを荒れ野に送り出したと書かれています。社会は荒れ野です。荒れ野、生きる物のない世界。水もない、食べるものもない。イエスは神の力を内に秘めています。本当の人となりなさい。人であるイエスは人の弱さを知らない、人の小ささを知らない。苦しみ、悲しみを体験していない。空腹である、渇くことを体で知る。祈らざるを得ないことを、逃げられない苦しみ、避けられない悲しみを知るのです。心で思うことを体が表現する、社会で体が相手と交わる。人の心と体が一つであることをもう一度考えなさい。

     

    荒れ野の世界、サタンがイエスを誘惑します。誘惑:待つことはない、出来るんだからさっさとやればいいじゃないか。忍耐することはない。欲しい物はすぐに手に入れる。それだけ力があるのだから。悲しい事を聞いたのか。それは他人の事じゃないか。あなたの問題じゃない。離れればいいさ。迷うことはない。自分の思う通りにすればいい。他人の事など構っていたら何も出来ないよ。

     

    40日間荒れ野にいました。

    ノアの時代、4040夜、雨が天から降り続けました。地上は海になりました。40年モーセは荒れ野の道を歩きました。4040夜、モーゼは断食しました。そして神様から十戒を授かりました。40は苦しみの期間です。 イエスは苦しみ、悲しみを受け取りました。人の弱さを体で感じました。天使たちが仕えていた、イエスは神の国は荒れ野から始まる、苦しみ悲しみを超えたところから始まると思ったのです。

     

    イエスは社会を歩き始めました。預言者ヨハネが捕らえられたと聞きました。

    ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。



  • 灰の水曜日 18-2-14

      キリストの出来事を思って、思って、思い巡らす。この出来事こそ神様からわたしたちに与えられたまことの恵ではないでしょうか。「いのち」をかけた「いのち」の恵です。恵を受け取ります。

    神様の恵を受け取ったわたしたちが恵みのうちに生きる。キリストが示された道を歩みます。歩み始めます。その日が救いの日の始まりです。

     

    今日は灰の水曜日です。回心のしるしとして灰を受けます。

    回心:心を改める。自分の犯した悪い事を心から悔い改める。自分を本当に小さなものと知る。弱い者と知る。神様の求める正義を求めていなかった。正義のために働かなかった。

    灰の水曜日の回心は心を改める以上にあなたの心を引き裂きなさい、自分の心を明確にしなさいと求められているように思います。明確にはっきりすると角が立つ。優しい決断をしたい。優しいとは曖昧だということではないですか。自分独断の意見を持つことが難しいと考えてしまうのではないですか。回心にいつも曖昧さを残しているのではないですか。

     

    「あなたは塵であり、塵に戻って行く。」「悔い改めて福音を信じなさい。」灰を頭にかぶります。

    信じるとは、信仰とは決断です。神様のうちに戻る、その心のうちに歩くのです。自然と出会う、人と出会うのです。

    今日は回心の日。心を引き裂きます。

     

    年間第6主日B  18-2-11

      重い皮膚病を患っている人がいました その人と一緒にいたくありません。その人の顔も見られません。重い皮膚病、あまりにもひどい病気ではないですか。皆はその病気を嫌いました。神様なぜこんな苦しい病気を人に与えるのですか。 出会った人たちは言いました。あの人の心はその体の醜さほど汚れている。あれは神様から嫌われているしるしではないか。

    重い皮膚病について、律法に記されています。汚れているから、離れて住まわなければならない。家族から取り上げられているのです。父さん、母さんと一緒に住むことが出来ない。兄さん、姉さん、弟、妹と一緒に生活できないのです。律法、レビ記(1345~)にこのように書かれています。重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を引き裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。」と呼ばわらなければならない。町に出る時は、汚れを表現する服装、姿で大声で呼ばわりながら歩くのです。町の皆はその声を聞いたら、重い皮膚病の人と出会わない様に、さっと道を開けます。

     

    イエスがその町に来られました。それを聞いた重い皮膚病の人は叫びながら、町に入り、イエスの前にたどり着きます。イエスの前に来ました。イエスの前にひざまづいて願います。「わたしを憐れんでください。あなたのみ心によって、わたしを清くしてくださいますか。」イエスはその人の前に立っています。その人を見ます。イエスは憐みに満たされます。憐れみが深くイエスをとらえました。心と体が、はらわたが動きました。イエスは手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われると、たちまち皮膚病は去り、その人は清くなりました。 イエスは言われます。「これは神様のみ心です。神様はあなたにみ心を注がれました。神様があなたを包まれたのです。神様はあなたを見つめています。それを忘れてはいけない。神様のうちに生きなさい。誰にも話さないで司祭に体を見せ、清めの儀式を献げ、人々に証明しなさい。」

     

    人々はこの出来事を見ていました。この出来事が言い広められました。語られた噂は、イエスは病を癒される。悪霊を追い出される。重い皮膚病を癒された。そんなすごい力を持っておられる。

    信仰は神様とのつながりです。噂は神様と出会う苦しみ、喜びをもたらさない。

     

    苦しみについて考えます。神様、なぜこんな苦しみを与えられるのですか。オリンピックのうちに、パラリンピックがあります。体の不自由な人たちが競技を行います。足が動かない。手が動かない。走れない、泳げない。しかし、足を動かす道具を作りました。手を動かす道具を作りました。足を動いた。手がうごいた。走れる、泳げる。体の不自由な人が集まり、競技が出来るのです。世界にそれを示すのです。苦しみが多かった。それだけ喜びが膨らむのではないでしょうか。体の不自由な人は率先してパラリンピックを見ると思います。自分も立てる。自分も走れる。泳げるのです。

     

    ハンセン氏病の人たちについて、ある思い出があります。

    ある教会に赴任していた時、近くにハンセン氏病の施設がありました。国の施設です。その中にお聖堂があります。そこで月に一度、ミサをささげます。その施設でハンセン氏病にかかっている人たちと身近に接することが出来たのですが、ある時、その施設から電話がありました。そこに住むご夫婦の息子さんが亡くなったという知らせです。その息子の家には両親がそこにいるとは言っていない。孫たちはおじいちゃん、おばあちゃんがハンセン氏病だとは知らない。息子さんは会社で仕事の出来る人だったようです。事故で亡くなった。 葬儀を教会でしました。お父さん、お母さんは息子の顔を見ることもできない。式にも出席できない。別れも言えない。 葬儀の時間に祈ります。夫婦で一緒に祈ります。葬儀が終わったら、その様子を知らせてください。涙ながらに、話されました。苦しい。苦しみの中で神様を一心に思う。 

    苦しみの中で生み出す。得たい事のために苦しみを超えて力を尽くしたいと思います。

    重い皮膚病の人は神様の恵を、心に深く刻みました。日常、わたしたちも不満、不平がある時はそれを見つめて苦しむ。それを越える力を得たらいいと思います。

  
  • 年間第5主日B  18-2-4

      第一朗読ヨブ記を読みました。ヨブと言う名は、憎まれた者、敵を持つ者、また、悔い改めた者、愛された者という意味があるそうです。はっきりとした意味は判然としないと書かれていました。

    しかし、この名前の意味全部がヨブを現しているように思います。 

    ヨブに苦難が来ました。持っているもの全部が奪われた。体全部に腫物、できものが出来た。お前は神様から「憎まれた者」ではないか。神様の「敵となった者」ではないか。 

    ヨブは友人に答える。わたしは正しい生活を送っているのに、この苦しみは何だ。なぜ、こんなに苦しまなければならないのか。生きることは不当な試練だ。生活は兵役にあるようなもの。雇人、奴隷のようなものだ。報酬を貰いながら、日の暮れるのを待ち焦がれながら過ごす。わたしの人生は望みのないまま過ぎ去る。苦労ばかりしかない。わたしの命は風に過ぎない。さあーっと起こり、さあーっと過ぎて行く。過ぎ去って行くものに幸いはない。わたしには幸いはない。 しかし、ヨブは苦しみに疲れ果て、議論に疲れ果てているとき神様の声を聞いたのです。

    お前がどんなに苦しんでいても、わたしはお前と共にいる。

     

    生きるという事は神様と一緒にいることではないですか。生きるということは、欲求によって、欲望によって命が喜ぶことではない。神様からの命を喜ぶことではないですか。どんな状態であっても、苦しい、悲しい時でも、生きていることを喜ぶのです。生きているということは愛されている事なのです。

     

    安息日、イエスは会堂を出てシモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ熱を出して寝ていたのです。イエスはそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、起き上がった。 シモンのしゅうとめはその時、イエスに出会ったのです。イエスは手を取る。イエスは言う。「起き上がりなさい。」イエスのみことばがしゅうとめを包み、しゅうとめの心に突き刺さった。 熱が去った。体に緩やかさが戻った。力が湧いてきた。しゅうとめは喜んで、嬉しくて言う。食事を用意しましょう。会食が始まった。しゅうとめは喜んだ。皆も喜んだ。 

     

    夕方になって、安息日が終わると、人々は病人や悪霊に取りつかれている者を皆、イエスのもとに連れて来た。戸口がいっぱいになった。イエスは大勢の人を癒された。

     

    人々はイエスに救いを感じた。イエスが病を癒される。見える喜びが与えられる。体が不自由な人は社会で皆と一緒に働くことが出来なかった。のけ者にされていた。今、皆と一緒にいることが出来る、一緒に語ることが出来る、一緒に喜びを味わうことが出来る。そればかりか、イエスは悪霊を追い出される。体が麻痺している人、また、癲癇の人が癒される。

    イエスは驚きの力を持った方。イエスがここにずっといてほしい。

     

    翌朝、まだ暗いうちに、イエスは人里離れたところで祈っておられた。シモンと仲間たちがイエスを捜し当て、言う。「皆が捜しています。」イエスは言う。「わたしはほかの町や村に行こう。わたしは宣教するために来たのである。」

     


  • 年間第4主日B  18-1-28

      安息日、人々は会堂に集まります。会堂教会で神様のみことばを聞きます。今の自分を見ます。静かに自分の心を見つめます。この世に生きていて、この世を超える神様のみ心に心を向けるのです。この世の力に流されていないか。今、いろいろはやりの流行を静かに見たらいいと思います。静かな時を味わう。ちょっと違う世界を持ったら面白いと思います。自分の時間に童話を読んだら面白い、童謡・唱歌を聞いたり、心を解放したらいいと思います。

     

    イエスは集まった人たちに話されます。神様を聖書の中に、律法の中に見つけるのですか、祈りの中に見つけるのですか。生きておられる神様に出会いなさい。神様は今も生きて、働いておられます。人は神様の愛によって生まれます。愛によって育って行きます。愛はつながりです。つながりは頭の中にあるのではありません。

    例えば、神様はわたしたちに呼びかけて言われます。お前の顔は汚れている。石鹸を使ってでも洗いなさい。顔は心の顔かも知れません。そんな身近な出来事に声をかけられるのです。

     

    熱心に会堂に通う人々は神様の心は律法に書かれていると思っていました。人々の思う律法は

    祭司たちの話す教えです、律法学者の話す教えです。ファリサイ派の人たちの律法を厳しく守って行こうという姿です。祭司は聖書を引用して教えるように話します。そして言います。律法の道をまっすぐ歩きなさい。人々の心には律法の教えが厳しく入っている。そして思うのです、律法を外す者は神から離れている。

     

    安息日、人々は会堂でイエスの話を聞いた。イエスの語る言葉に驚いた。聖書の解釈ではない、律法の解釈ではないのです。イエスは神様の心を語るのです。神様の喜び、神様の悲しみ、苦しみを語ります。貧しい人々への、苦しんでいる人々への励ましを語ります。愛を語ります。

    愛するという事はその人のために働くことではないか。その人のために一生懸命祈る、心を込めて祈る。隣人であるその人に同情するのではない。不自由で苦しいでしょうね、なんてことではない。心を込めて同情するのです。でも足りない。それはその人のために働こうとしていないのです。

    憐れに思うことをヘブライ語ではらわた(内臓)が引き裂かれると言うそうです。

    憐れに思う=スプランクニゾーマイ。スプランクノンがはらわた。ゾーマイが動く、という意味です。その人の姿を見て体が動いてくる。はらわたが裂かれる程、体がその人に向かって動くのです。

    愛は体が動くのです。

     

    人は神様の愛につながっているから生きている。神様は今生きておられるから、イエスは難しい話はなさらないのです。

     

    会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいた。汚れた霊が男の口を通して叫ぶ。「ナザレのイエスかまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」 かまわないでくれ=俺とかかわりを持たないでくれ。俺に話しかけないでくれ。わたしの顔を見ないでくれ。あなたは聖なる者。あなたは聖なる権威によってわたしたちを滅ぼされる。

    権威とは清い言葉が行いによって結ばれることです。清さが行いになる。憐れみ、慈しみの心が相手に行いをもたらす。その姿が権威です。(ローマ131~)

     

    イエスは悪霊に言われる。「黙れ。この人から出て行け。」 悪霊はその人から出て行った。

     

    イエスの愛が律法を超え、律法を全うするのです。

    イエスのみ心がわたしたちの前に見えるものとなった。神の国の始まりではないでしょうか。

  • 年間第3主日B  18-1-21

      千葉に来て、木更津に住み、自然がきれいだと、ますます、思っています。しかし、移動する時は車です。車に乗っていると、車を運転していると、目はナビゲーターと道路をじっと見つめています。周りは見ません。周りは見えません。歩いたらいいですね。(便利を求めているのですね。)

    館山の海岸沿いの道を走ると、それはそれはきれいな海岸景色です。車を止めて海を見ます。車を停めて空を見ます。海と空を見ます。遠くに山々が見えます。富士山が見えます。

     

    わたしは東京育ちです。東京は住宅の町です。町を歩く、窮屈に立っている建物ばかりです。東京は人の考えの詰まった町だと思います。

     

    イエスは言われます。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。わたしについてきなさい。

     

    わたしは33歳で洗礼を受けました。人は考え、働いて生活する。それしか思いはなかった。お金があれば何でもできる、本当にそう思っていました。楽が出来る、楽しみを買える。時間を楽しむ。ゆっくり出来る。人を使える。人も買える。それまでの生活はお金で物が動いていると思っていたのです。設計事務所にいたのですが、所長さんは土下座してお金が入るならいくらでも土下座するよと言います。

     

    若い頃、ある出来事が起こりました。貧乏旅行の外国で持ち物をすべて取られてしまったのです。生きるか死ぬか分からない、誰も知り合いがいない、人に助けてくれと言えない時、祈りました。神様、助けてください。あなたを信じます。

    そんなことを思いながら、「時は満ちた」、その言葉を聞きました。それを「時は今」ですよと読んだのです。  悔い改めて福音を信じなさい。 あなたは歩いている。あなたは前しか見ていない。まわりを見ないのですかと問われていると思ったのです。歩いているその前にはあなたの自我しかありません。あなたの欲求しかありません。 悔い改める。自分の思いを捨てなさい。福音を信じる。福音とは、神様があなたを包んでいますと読んだのです。自分の命は、自分が造ったものではない、神様からのもの。それを素直に信じなさい。

     

    「わたしについて来なさい。」嬉しい言葉でした。教会に行きました。神父さんに言います。お金のない世界に行きたい。トラピストの修道士になりたい。神父さんは言います。今必要なのは教区の神父さんだ。神様の言葉を聞いて、人と一緒に歩く神父さんだ。お金が作る幸せ、以上に仲間と一緒に喜ぶ大きな喜びがある。 洗礼を受けました。

    幸せって何かを考えました。幸せは喜びです。心から沸き上がる喜びです。その喜びを見てほかの人たちも喜んでくれる喜びではないかと思うのです。その喜びに入って行きたいなと思う喜びです。静かに長く続く喜びです。

     

    イエス様、その魚をどのように取るのですか。わたしと一緒に歩きましょう。その魚が見える。

    神の国は近づいています。神の国が見えますか。悔い改めた時、自分を捨てた時、隣人が見えた時、神の国が見えます。

     

    イエスがわたしたちを呼んでおられます。わたしについてきなさい。一緒に歩きましょう。

    
  • 年間第2主日B  18-1-14

     昔、一人で外国に旅をしていた時、インドだと思いますが、養護施設を訪問したことがあります。たくさんの子供たちがいました。わたしを見ると、皆が一斉に駆け足で寄ってくるのです。声を出す。手を伸ばしてくる。足にしがみついて来る者もいました。その子を抱き上げました。離したくない思いでしがみついて来る。安心がほしい。抱いてくれる人がほしい。体に温みを与えてくれる人がほしい。インドの幼い子供が遠慮しないで心を現しているのだと思いました。しかし、後で言われました。その子に、何か長期にわたって援助する気がないのなら、抱き上げるようなことはしてはいけない。優しさは消してはいけない。  求めて来る力を静かに受けとめる。教会も長く静かにその人と、その施設、その団体と付き合って行くのだと思いました。

     

    ある教会で神父さんは考えました。教会学校で皆が外に出て何かしたい。その地域にお年寄りの施設があると聞きました。神父さんは思いました。クリスマスにその施設に行って子供たちが歌を披露できればいい。歌って、おじちゃん、おばあちゃんにお菓子を配ったらいい。おじいちゃん、おばあちゃんと少しでも話が出来ればいい。神父さんは考えているうちに面白くなって来ました。早速、施設に電話しました。ある施設は、養護の人たちが少なくて準備が出来ない。その様な応対もありました。ある施設の先生は言いました。今年その様な嬉しい集まりを行ってくれると言うのはとても楽しみです。でも来年来てくれると言う約束をしてくれないのなら、毎年、来てくれないなら、今年はない方がいい。おじいちゃんたちおばあちゃんたちは本当に楽しみに待っているのです。実は以前、そのようなことがあったのです。おじいちゃんおばあちゃんたちは本当に悲しがっていました。残念ながら、その計画はだめになってしまいました。出会いは心のつながりになる大切な出来事だと思うのです。

     

    わたしたちはイエスに従って歩きます。イエスは一緒に歩いているわたしたちに聞きます。「何を求めているのですか。」わたしたちは洗礼を受けて教会につながっています。イエスと一緒に歩いていると思っています。」イエスはもう一度自分を見つめなさいと言われるのです。

    イエスを受け止めたい。わたしたちは、イエスのみ心、み言葉、イエスの愛、いのち、それらをすべて包むイエスの体を頂いています。イエスを食べているのです。

    イエスは、今、ここでわたしたちに聞いているのです。

    あなたはわたしの道を歩いていますか。真剣にわたしを求めていますか。

     

    わたしたちはイエスに従って歩きます。イエス様、あなたの姿に十分入ることが出来ません。心でイエスを思い浮かべます。祈っています。清い心、善い事を行おうと思っています。しかし、自分を捨てる事が出来ません。本当に貧しいものになれないのです。  

     

    イエスは言います。「来なさい。そうすれば分かる。」

     

    人里離れたところでイエスと共に過ごす。社会を離れて自分を見る。常識から離れる。人間関係から離れる。飽きるほど祈る。疲れるほど聖書を読む、心で聖書を読むのです。

     

    わたしはイエスと出会った。イエスに触れた。イエスがわたしの中に入って来た。

    岩の上に生きる者となった。教会は岩の上に立っている。ペトロが岩。ペトロ、あなたは自分の力で教会を指導しようと思ってはならない。教会は天の父の思い、聖霊が働く、キリストの体です。(マタイ1613~)

     

    今日わたしたちは教会について考えなさいと勧められているように思います。わたしたちが教会の煉瓦である。キリストの体を造って行く部分です。教会の力、神様の力をわたしたちが隣人に現してゆくのだと思います。


    
  • 主の公現 18-1-7

      今日わたしたちは主の公現を祝います。 

    「主の公現」はわたしたち皆の前に、神様が現れましたということを語ります。

    東方からの博士たちに自己の姿を現された事。

    イエスが、キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を授けられた事。

    カナで最初の奇跡を行い、ご自身を現された事。

     

    わたしたちは信仰のうちに神様と出会っていると思っています。あなたの信仰のうちにいる神様は今どこにいますかとちょっと考えたいのです。

    祈りのうちに神様と出会っています。霊的な本を読み、神学書を読んでいます。日曜日にはミサに出ています。黙想会に行きます。毎日、喜びを感じています。平安を感じています。

    この信仰はご公現の神様と出会っていないのです。ご公現の示す信仰に届いていないのです。

    の東方からの博士にご自身を現された神様を求めることはイスラエルにとどまってはいけない宗教の枠にとどまってはいけない、生きる事の原点に返りなさい、そんなことを言っているように思うのです。

    ②③、神様はわたしたちを導く方です。そして、わたしたちは支え合って一緒に生きます。一緒に歩きます。わたしは個人です、と同時に社会を作っています。人々の中にいます。わたしは個人であって、人々の中にいます。個人であって、社会を作りなさいと言っていると思うのです。神様は神様です、しかし、人の思いのうちにいます。人と一緒に歩きます。人の苦しみを背負います。人の悲しみを味わいます。

     

    出エジプト記のこんな記事をを読みました。神様はモーセに言われます。

    「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

    「わたしを遣わす神様の名は一体何かと問われます。何と答えるべきでしょうか。」

    「〈わたしはある〉という者だ。」そんな難しいな名前は困ります。神様は続けて言われます。

    「わたしはあなた方の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

    わたしは存在は何かとか、愛とは何かを問う神ではない。よい生活を送るよう導く神である。祈って祈って、祈って外に出なさい。外に出なければ、公現の神様と出会えない。勉強しても、深く黙想しても公現の神様と出会えない。勉強しなさい、黙想しなさい、そして外に出なさい。自然を出会う、人と出会いなさい。

     

    神様はモーセを通してわたしたちに十戒を与えられました。その始めに言われます。

    「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

    歩きなさい。祈りなさい、行いなさい。自然の中で、人々の中で生きるのです。神様からの命を自由に生きなさい。人は人の奴隷となってはいけない、人を奴隷としてはいけないのです。

     

    主の公現は、主が今、あなたに声をかけておられますと言うことではないでしょうか。

    神様が見えますか、。神様の声が聞こえますか、と聞かれたら、見えます、聞こえますと答えたいと思います。 心の目で見えます。心の耳で聞こえます。

    神様はわたしたちを見ておられる。すべての人とつながっておられる。まことの神様は想像しながら、いる神様ではありません。あなたの前におられる。あなたの横におられる。あなたと一緒におられる。あなたと一緒にいると同時に、貧しくて、苦しんでいる者の中にわたしはいます。助けを求めている者の中にわたしはいます。

     


  • 神の母聖マリア 2018-1-1

      明けましておめでとうございます。嬉しい、喜びの挨拶は嬉しいですね。

    新しい年の初めはわたしたちは神の母マリアを思い巡らし、マリア様の姿を感謝します。

    そして、今日は世界平和の日、マリア様を思いながら、平和について考えたいと思います。

     

    神様はイエスをわたしたちのこの世に送ろうとお考えになりました。神のみ心を語る。預言者が語るのではない。神の命に生きる、聖霊のうちに生きる子によって人々に語るのです。心の思いのうちに語る。生きるとは何ですか。命とは何ですか。平安とは何ですか。まず神とは何かを、言葉以上に、光をその人に注ぐのです。

    神様は父にヨセフ、母にマリアを選ばれました。天使ガブリエルはヨセフ、マリアに言います。人々はイエスによってまことの平和を知ることになる。イエスのうちに平和がある。

     

    マリアは神様のみ心をそのまま受け取りました。マリアは今、生活しているこの世のすべてを捨てて、神様の道を歩むのです。気軽に神様の道を歩むなどと思ってはいけません。神様の道は細い、厳しい、重荷を背負って歩む道なのです。マリア様は今までの楽しかった生活を捨てたのです。

    そして、イエスを得た。イエスは何か。平和だと言われる。

    暗闇が続いている人の世界に光が与えられる。イエスは光。すべてのものに命を与える光です。人はみな生きる光を持っています。喜びの光を持っている。それが消えそうになっている。消えかかっている。イエスは人々の中にある喜びを喜ぶ光をもう一度つけるのです。

     

    イエスは暗闇を照らす命の光です。そしてイエスに出会う人、その人の心に光をつけるのです。

    イエスは言われます。これが平和です。

     

    マリアに光が注がれた。マリア、誰でも出会う人を受け入れなさい。出会う人とつながりなさい。マリアは自分は何も出来ないと思っている。マリア、何も語ることはありません。

    マリアは出会ったその人の話を聞きました。不平、不満、愚痴を聞きます。つまらないことでも聞きます。嫌なことも聞きます。悪口聞きます。その人の目を見つめながら聞いていたのだと思います。もちろん嬉しい出来事の話を、喜んで聞きます。(つまらないこと、嫌なこと、悪口をきれいな目で見つめられ、熱心聞かれると話したくなくなってしまうのだと思います。)

     

    たくさんの話を聞きます。聞き過ぎたと思う時、祈ります。祈って静かな心になります。出会った人を思い浮かべます。その人の出来事を聞いた。その出来事が見えてくる。祈りのうちに見えてくるのです。静かに、歩いている道を思い浮かべるのです。

     

    出会う人とつながる。それが平和の一歩ではないですか。

    自分が神様の道具と知る。自分が神様の手助けとなる。神様のために働く。自分の力は神様のもの。自分の存在は神様のもの。自分の存在は自然の物。自分の存在は人々の物。

     

    平和とは人とつながることではないでしょうか。人のために働くことではないでしょうか。

    人のために与える者になるのではないでしょうか。

     

    マリア様は自分の生活を通して、自分の命を通して神様のために働いたのではないでしょうか。

    マリア様に連れられて、イエス様のもとに行きたいと思います。


  • 聖家族 B  17-12-31

      父さんヨセフ、母さんマリアそして御子イエス、この家族を聖家族と言います。御子イエスは父ヨセフと母マリアのもとに生まれました。神様がイエスの父にヨセフ、母にマリアを選ばれたのですふと、わたしたちの事を考えて見ました。実に、子は皆お父さん、お母さんを選べないのです。子である息子、娘は神様の命が授けられこの世に生まれてきます。子は神様から愛されてこの世に生まれる。両親は子のお母さんお父さんに選ばれるのです。子が与えられる。子は神様からの預かりものです。お父さん、お母さんは小さいヨセフ、小さいマリアではないでしょうか。

     

    マリア、この子イエスを神様のみ心を思い育てなさい。

    わたしには経験がありません。わたしは何も出来ません。

    神様があなたを愛しているように、イエスを愛しなさい。

    あなたが神様を愛しているようにこの子イエスを愛しなさい。

     

    ヨセフ、マリアは正しい人でした。神様を大切にします。よく働きます。よく祈ります。仲間を大切にします。笑顔が絶えない人でした。律法を大切にし、律法を守る人でした。

    わたしに子が生まれる。まだ結婚もしていない。これは律法に反します。

    天使ガブリエルは言います。律法とは、神様のみ心が律法なのですよ。神様がマリア、あなたを見つめています。神様の愛のうちに生きなさい。愛のうちにイエスを育てなさい。

    ヨセフは正しい人、律法をよく守る人でした。ヨセフは言います。許嫁のマリアは結婚もしていないのに子を身ごもったと聞いた。神様のみ言葉のうちに身ごもったという。マリアはマリアの信仰のうちに生きればいい。わたしは律法の道を歩む。

    天使ガブリエルはヨセフに言います。おとめマリアを妻として迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである。神様のみ心、本当の律法のうちに生きなさい。

     

    ヨセフ、マリアは文字による律法を超えて生きる道を歩んだのです。

    小さいお父さん、お母さんが社会の常識を超えて、神様のみ心を示して行けたらいいのです。

    社会は法律によってなっているのですか。法律によって規制されています。しかし、神様のみ心によって生きる、命の喜びのうちに生きるのではないでしょうか。

     

    家庭を訪問する機会があります。家族みんな揃っていると和やかさが生まれる。家族の中では不自然な遠慮をしなくていい。一番気楽にいられる。裸の心でいられる。それが和やかさではないでしょうか。家族が一緒にいられないようになっている。一緒に食事をする。一緒に喜ぶ。

     

    ヨセフは本当のお父さんではない、イエスと血のつながりがないと言う。法的につながっていないと言う。肉のつながり、血のつながりがなければ本当に愛することが出来ないのかと問うのです。お父さん、お母さん、二人に血のつながりはありません。夫婦に本当の愛があってほしい。本当の愛でつながっていてほしい。ヨセフは本当の父親です。イエスを温かく包んだ。生きる人の姿を示した。働く姿を示した。一緒に祈った。

     

    イエスが言われます。わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。誰でもわたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である。信仰は心のつながりではないでしょうか。いや、それ以上に命のつながりです。(マタイ1246-

     

    聖家族、わたしたちも倣(なら)うことがあるのではないかと思います。


  • 主の降誕(日中のミサ) 17-12-25

      ヨハネの福音書を読みました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」 

    この文章は何か、ここを読んだ時、訳が分からなかった。ずっと経ってから、ある講座を聞いた時、その先生はこう話されたのです。声の言葉、文字の言葉は道具である。その言葉は脳の大本から来るのではないのか。脳が考えて言葉を話す。あぁ、そうかと思ったのです。

    そんな思いで考えてみました。だから、「言」は耳で聞いたり、文字で表されたりする言葉ではありません。わたしたちの知っている言葉、声は話している人の表現です。文字は書いている人の心の思いです。 万物は言によって成った。「言」が見えるもの、見えないものすべてを造った。宇宙が言葉によって造られたのです。見えるものー動物も、植物も、ついには人も言葉によって造られたのです。ちょっと待ってほしい。では、聞こえる言葉、文字による言葉の大本は何ですか。言は神と共にあった。いや、ちょっと違う。神と共にあったのです。言は神様の手の中にあるのではないでしょうか。すべてが神様のみ心の中にある。神様が言を持っておられる。

     

    神様が最後に人を造られました。人に命を与えられました。言を持っておられる神様がご自分に似せて人を造られたのです。

     

    神様は暗闇にある人の世にご自分の子を送られました。子に言を与えられました。子のうちに言があります。暗闇に光を与えられたのです。人となった言は光ー命、愛です。

    その方は神様の姿です。その方が神様を示しているのです。

    その方の名は何ですか。イエスです。イエス:「主は救い」。その方に救いがある。その方の中に入れば救いが見える。救いが自分の心と体に入って来る。消えない安心、平安が心と体に入るのです。

     

    その方は神様の姿と言われる。でも、その方は人として生まれた。人ではないですか。

    そうです。 イエスは人です。

    その方が神様の姿を示される。その方の中に神様が住んでおられるのですか。

    いえ、イエスは神様です。神様が人となって神様の思いを語っておられるのです。神様の業を行っているのです。

    イエスは何なのですか。 イエスはまことの神であり、まことの人です。

     

    まことの神、まことの人。何でも出来る神様が、何も出来ない人となられた。説明してください。

        -ここで話をする。-

     

    今日、神様の子がお生まれになりました。


  • 主の降誕(夜半のミサ) 17-12-25

      クリスマスおめでとうございます。神様の赤ちゃんが生まれました。今日はイエス様の誕生日です。イエス様が生まれました。ユダヤのベツレヘムという田舎の町です。星が満天の夜、家畜小屋で生まれたのです。父さんヨセフ、母さんマリアは飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスを見守っています。この喜び、神様がお生まれになった喜びは、今も、世界中の人がお祝いします。

     

    ある人が言います。

    「ちょっと聞きたいのですが、イエスは神様ですか。」

    「そうです。イエスは神様です。」

    「でも、イエスは人間じゃないのですか。」

    「そうです。イエスは人間です。」

    「どっちなんですか。」

    きっとイエスは笑いながら言うと思います。

    「わたしはまことの神です。そしてまことの人間です。」

     

    神様が人になる、神様っているのかな。

    ある人が言いました。赤ちゃんの瞳をじっと見つめたら、もうかなわない。神様なんかいないなんて言えない。

     

    神様がわたしたちのところへ「赤ちゃん」として来られた。何でも出来る神様が何も出来ない人間の赤ちゃんとなって生まれた。人が支えなければ赤ちゃんは生きて行けない。着るもの、寝るところ、食べ物を与えなければ生きて行けない。赤ちゃんは、昔は特に、病気で命を失うことが多かったようです。赤ちゃんを守りたい。誰が守るのですか。お母さんにマリアが選ばれました。

     

    赤ちゃんと比べたらわたしたちは今自分で生活できる。赤ちゃんー自分で生活できない人の事をを考えたいのです。誰が守るのですか。目の前にいるわたしたちではないですか。

    神様がわたしたちにやってほしい事、それは助けを求めている人を支えることではないでしょうか。

     

    神様は言われます。与える者になりなさい。生きることを一緒に喜びなさい。

     

    ある大きな教会に大きな鐘がありました。この鐘は神様が喜ぶ大きな献げものをすると大きな鐘が鳴ると言うのです。何年もなっていないのです。クリスマス、大勢の人が集まります。皆自慢の献げものをします。それぞれが奉納します。大金持ちはダイヤモンドで飾った十字架を奉納します。皆の目がその奉納物に集まります。一瞬みんな静まります。鐘はならない。クリスマスのミサが始まります。教会は献げ物でいっぱいです。神父さんはつぶやきます。献げものは物ではない。心を献げてほしい。 ミサが始まります。入祭の歌が始まります。ふと、神父さんは止めました。急に遅れた入って来た兄弟を見たのです。その兄弟は一番後ろで祈ります。「神様、ごめんなさい。教会に来る途中、貧しい人に出会ったので、お小遣いを皆やってしまいました。捧げものは出来ません。イエスのいうことは何でもしたいと思います。」その直後、教会の鐘が大きく、高らかに鳴り響きました。

     

    今日、赤ちゃんの姿で来られた神様、イエスを祝います。マリア様と共にイエス様に向かって歩いて行きたいと思います。


  • 待降節第4主日B  17-12-24

     社会にいつも心配事、争いごとがあります。恐れ、憎しみ、悪口、病気、借金、煩いが消えることがありません。世界には戦争が絶えません。ひょんな事から、ひょんなかけ違いが大きな戦争になってしまう危険があります。

    いつまでたっても薄暗いこの社会に消えることのない明かりをつけよう。神様は今まで何十人もの預言者を送られました。預言者は神様のみ心を語ります。間違っている人をたしなめます。人々はそれを受け入れませんでした。預言者たちは人に苦しめられ、ある預言者は追放され、殺されました。明かりは消えてしまいます。何千年とそんな時代が続いたのです。

    そしてついに神様はご自分の子を送ろうの決心なさったのです。

    神様の子によって、神様の姿を人は見る、聞く、触れるのです。神の子によって命の尊さ、人の大切さを知ります。神様のみ心を知る、神様の温かさ、おおらかさ、まことの愛、そして、祈りとは何かを知るのです。

     

    大天使ガブリエルが神様から遣わされました。ガリラヤのナザレに住むマリアの家を訪れました。大天使ガブリエルがマリアに言います。

    「おめでとう、恵まれた方。あなたは神様の子を身ごもり、男の子を生みます。」

    「えっ、何ですって。わたしが子を身ごもるのですか。子を生むのですか。わたしはまだ結婚していません。わたしはあなたの言っていることがよく分かりません。」

    「神様はあなたを選ばれました。あなたは聖霊によって包まれ、子を身ごもります。その子を生むのです。あなたはその子のお母さんになるのです。」

    「わたしは何も知りません。わたしは何も出来ません。」

    「神様の力があなたを包みます。あなたは今以上に神様のみ心を求めなさい。その子のために働きなさい。その子に愛を注ぎなさい。」

    「わたしは神様の道具です。神様のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」

     

    あなたの周りにいろいろな出来事が起こります。出来事は皆いろいろな力を持っています。喜ぶ出来事がある、苦しまなければならない出来事がある。自分の周りに起こる出来事をそのまま静かに受け止め、心に納めなさい。その出来事に入って行かなければ、その出来事は自分の出来事になりません。

    この時、羊飼いたちが入ってきました。羊飼いたちの話を静かに聞きます、そして心に納め、思い巡らすのです。

     

    マリアは祈ります。

    わたしは心から神様を喜び、讃えます。

    神様はわたしたち一人一人に心をかけてくださる。

    一人一人に目を留めてくださる。

    力のないわたしにも恵みを注いでくださる。

     

    神様はこの大きな新しい出発にマリア様を選び、荷を背負うようになさいました。

    わたしたちも、ますます心を開き、神様の思いの通り働く事が出来ますように。


  • 待降節第3主日B  17-12-17 

      神様、来てください。待降節、この時、特に自分の心を見つめ直します。そんな思いのうちに、神様の来られる時を待ちます。しかし、今日、第三主日は喜びの主日と言われるようです。

     

    今日の第2朗読・パウロのテサロニケへの手紙を読みました。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

    これが神様のみ心です。霊の火を消してはいけません。主が喜ぶ力を送っています。祈力を送っています。ふと静かな人を思い浮かべました。いつも静かに喜んでいる、感謝している。

    いろいろな出来事がわたしたちを包んでいます。わたしたちを包む出来事に喜びが見えたらいいと思うのです。しかし、苦しい事がある、悲しみが押し寄せてくるようなことがある。その時も、苦しみや、悲しみの出来事に出会って暗い心に陥るのではなく、静かにその苦しみを見つめ、それを飲み込む。苦しみを超える力、苦しみを喜びに変える力、そんな強さがあったらいい。

    祈りを忘れてはいけない。神様、清くしてください。節制のうちに悪を退けることが出来たらいい。

    また、毎日の生活で、もっともっと感謝が出来ればいい。 喜ぶ心がもっとあったらいい、祈る心がもっとあったらいい、神様のみ心の中に、少しずつ入って行ければいいと思うのです。

     

    人々はヨハネに出会った。ヨルダン川のほとりで神様を語っている。光について語っている。ヨルダン川に行く。ヨハネの話を聞きに、遠くても歩いて行きます。

    ファリサイ派の人たちは、律法を知っている人たちはヨハネに会おうとも思わない。

    ヨハネは食べも、飲みもしないと言うじゃないか。あんな生活は、屹度、ヨハネは悪霊にとりつかれているのだ。 人々に、お前たちも、今、荒れ野にいると言う。わたしたちは普通の生活をしているじゃないか。木の茂っている普通の大地にいる。そんなだらしのない生活はしていない。

     

    ヨハネは神様の力を語ります。ヨハネの言葉は今のわたしたちに語っていると思うのです。

    お前たちは何を求めて生活しているのですか。お前たちは生活をごまかしてはいませんか。だらしのない生活をしていない?自分の求め生活をしているのではないですか。神様を思いなさい。神様に正直に生きるのです。今の社会に心の安まる生活をしていますか。穏やかさを楽しんでいますか。ゆったりとした喜びを楽しんでいますか。もしかしたら、楽しみを見つけようと何かを捜して いませんか。それは欲求の楽しみではないですか。

     

    ヨハネは光について語ります。

    光は神様のみ心。神様の命。神様の力です。光によって生きるものとなる。光が暗闇を退ける。神様を見つめなさい。神様への道を歩きなさい。律法に忠実に生きる。厳しさを求めなさい。

     

    ヨハネのもとに祭司やレビ人が会いに来ました。

    「あなたは何ですか。」「あなたの洗礼は何ですか。」

    わたしは神様を語ります。人々を神様からの命の水によって洗い清め、新しい出発の力を与えているのです。

    わたしの後から来られる方がいます。聖霊が天から降ってその方の上にとどまるのを、わたしは見ました。わたしはその方の奴隷にすらなれません。その方は世の罪を取り除く神の子羊です。

    その方は聖霊によって洗礼を授けます。わたしはその方を迎える準備のために水で洗礼を授けているのです。

     

    ヨハネは暗闇にいるわたしたちに希望を与えてくれます。正しい道を歩みなさい。

    しかし、もっと大きな希望があります。喜びの方、祈りの方、感謝の方が来られる。聖霊によって語られる方、聖霊によって業を行われる方が来られる。  

    神様、来てください。あなたの道を歩みます。



  • 待降節第2主日B  17-12-10

      待降節は神様を待つ時です。ストラは紫です。紫は神様のいない、神様が見えない暗闇のしるしです。暗闇は嫌です。暗闇の中には光がありません。温かさがありません。ゆったりとした和やかさがどこかに行ってしまったのです。毎日の生活の中で、周りのお付き合いの中で、静かに時を過ごしながら喜びを味わう、そんな伸びやかさがなくなってきているように思います。まず、自分にその様な所がないなぁと思うのです。さっさと仕事を片付けてしまう、そんな流れの中にいるようです。 

     

    わたしたちは毎日を笑顔で過ごしたいと思います。気兼ねなく人と接したい。そんなに大きなお金はいらないけれど、毎日が楽しく過ごせるような収入があればいい。人並みに生活できればいい。たまにちょっとした贅沢をする。一つぐらい気に入ったアクセサリーがあってもいいと思う。外出するときは少しぐらいおしゃれでもいいじゃないかな。おしゃれな服を着る。日曜日には教会に行く。心の健康にも気を付けなくてはいけない。

     

    こんな幸せのうちにいる人たちを見て、ヨハネは声を高くして言います。悔い改めなさい。あなたは豊かな大地に育っています。あなたの幹はどんな実を結ぶのですか。その実を人に与えたいと思っていますか。隣人の荒れ野の生活を思いなさい。荒れ野で育った木の結んだ実を周りの人たちは食べてもらおうとしていますが、わたしたちはその木を見ようとしない、その実が無駄になってる。

     

    洗礼者ヨハネは荒れ野にいます。厳しい顔つきの預言者だと思います。その姿はエリヤを思い起こさせるのです。エリヤはバールの預言者たちと争って、まことの神様の力を示し、その預言者たちを皆殺してしまいました。バールは、バールに祈る者に恵みを与える神です。祈る者、自分の欲求を満足させるために祈ります。自分の力を求める。自分の平安を求める。自分の豊かさを求めるのです。

    人並みの幸せを求めているあなたたちは自分のうちにいるのではないですか。自分の城を造っているのではないですか。生活しているとは、自然に支えられていることです。人に支えられていることです。悔い改めなさい。あなたは神様から与えられた命のうちにいるのです。

     

    罪とは何ですか。なぜ罪があるのですか。

    皆一緒に生きる喜びを知らないこと、それが罪です。支えられていることを知ろうともしない、それが罪です。罪は仲間がいない。友がいない。仲間が見えない、友が見えない。罪は喜びを知ろうとしないことだと思います。なぜ罪があるのか。自分に安心したいからではないでしょうか。自分のうちに安心したい。

    悔い改めるとは、そんな自分に死に、新しく生きることです。ヨハネは罪を知った人たちに洗礼を授けました。わたしたちも洗礼にあずかっています。神様からの水、生きる命を与える水の中に沈み、古い自分が死にます。そして新しい自分が新しい命の生きるのです。

     

    わたしたちは神様の道具です。自然のために働く道具です。人のために働く道具です。生き生きと生きる自然を喜ぶ。生き生きと生きる人と一緒に喜んで生き生きと生きるのです。

     

    ヨハネは言います。後からわたしよりも優れた方が来られる。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

     

    その方が来られる。その方が来られる時、心の灯をともして、皆一緒に喜びの食卓に着きたいと思います。


  • 待降節第一主日B  17-12-3

      今日の第一朗読・イザヤの預言を読みました。

    神様、あなたはわたしたちの主です。いや、それ以上にわたしたちの父です。

    でも、わたしたちは我儘でした。父さんから教えられた道を歩きませんでした。自分の意地を張って、自分の思いを押し通していました。父さんの心を見ようとしませんでした。声を聞こうとしませんでした。わたしたちは父さんから離れて行きました。そして、次から次へと罪を犯し、汚れてしまいました。父さんの名を呼ぶものはいなくなりました。あなたの顔も忘れてしまいました。わたしたちは悪い者です。しかし、あなたはわたしたちの父さん。わたしたちは父さんによって生きていることを知っています。あなたに感謝する心を与えてください。わたしたちは悪いところに行ってしまいました。神様、父さん、わたしたちを贖ってください。

    このイザヤ書を読んだ時、人間はあまりにも我儘が強すぎると思いました。でもこれは本当の事だと思います。わたしたちは罪に汚れています。しかし、わたしたちは正しい道を歩みたい。祈ります。神様、わたしたちはあなたの子です。わたしたちを贖ってください。

     

    イエスは言います。気を付けて目を覚ましていなさい。


  • 王であるキリストA 17-11-26

      洗礼を受けた時、皆さんも神父さんから言われたと思います。洗礼は神様への出発の時。神様の子となる大きな恵みです。神様への道を歩みなさい。生活の中で3つの役割があります。預言職、祭司職、王職です。 今日、王であるキリストを思い巡らします。王職って何だろう。多少ともキリストの道を歩みたいと思いながら、王職を考えたいと思います。

     

    ふと、いちじくの木のたとえを思い出しました。(マタイ2118-22)イエスは空腹を覚えられました。見ると道端にいちじくの木が見えました。葉が茂っている大きな木です。近寄って実を探しました。実はなっていなかった。イエスはその木に向かって言います。「今から後いつまでも、お前には実がならないように。」「今から後いつまでも、お前から実を食べるものがないように」(マルコ1114

     

    大木が育っている。葉が豊かに茂っている。そばに寄ってみると実がない。その木には実が育つようになっている。実を結ぼうとしない。その実は取って食べる人のものです。大いに実を結んでたくさんの人を喜ばせるのです。

    イエスは信仰の実に飢えていました。大きな木が自分だけのために育っている。

     

    大きな立派な教会がありました。クリスマスには教会、聖堂がいっぱいになる。バザーがある。ほかにも行事がある。大勢の人たちが集まる。葉が大いに育っている。イエスは言います。実が育っていない。大勢に人たちの信仰はどこにあるのですか。イエスは教会の一人一人に聞きたいのです。貧しい人に心が開いていますか。老人を助けようと、皆が心を止めていますか。病気の人を見舞う、牢獄を訪問する、教会の一員として、そんな大きな役割を感じていますか。

    教会に大勢集まる。その時屹度、集められた献金が貧しい人のために寄付されます。

    それはあなたがたの教会へ行く動機ですか。

     

    王は知恵があり、力があり、動作が優れていてる、と思っていました。王は人のために世話をするのですよとイエスは言われるのです。大きないちじくの木、人を助けるなんて思ってもいない大きな木。イエスはそんな木はいらないと言います。 立派な教会があります、実は教会には神様がおられるのです。神様は貧しい人、苦しんでいる人、悲しんでいる人をいつも心にかけています。

    人々は教会に集まり、ミサに預かる。祈る。キリストを食べる。神様はその人の中に入って目を開きなさい、求めている人のために働いてほしいと言うのです。その人は見ようともしない。その人の中でイエスは閉じ込められているのです。

     

    あなたは何もしないのですか。

    いやそんなことはありません。神父さん、司教さんが病気と聞けばすぐ、お花を持って行きます。神父さんが声をかけてくれれば、すぐも飛んでゆきます。

    あなたの周りに、求める人がたくさんいる。わたしがその人たちの中にいて求めているのです。

     

    世話をしなさい。飢えたり、渇いたり、裸であったり、牢の中にいる、この最も小さい者の一人にわたしはいるのです。


  • 年間第33主日  17-11-19

      今日も天の国のたとえが語られます。この社会の様々な出来事の中に天の国への道があります。今日の神様の試練は何か考えて行きたいと思います。 

    或る日、主人が僕に自分の財産を預け旅に出かけました。僕の一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けました。このタラントンを使って、思い切り仕事をしておくれ。1タラントンというのは6000デナリオン。1デナリオンは一日分の日当。1日1万円とすると1タラントンは6000万円です。年収300万円とすると20年分の賃金です。僕たちは考えられないような、たくさんのお金を預かったのです。僕たちは働きました。主人が帰る時には、5タラントン預かった僕はほかに5タラントン、2タラントン預かった僕はほかに2タラントン儲けました。主人は喜びました。働いてくれた僕たち、ありがとう。わたしの言葉を忠実に守ってくれた。わたしの思いに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ。 しかし、1タラントン預かった僕は預かった1タラントンを持って来ました。主人は聞きます。どうしたのだ。わたしは預かった1タラントンを出て行って、土に穴を掘り、このお金を隠しておきました。主人は怒りました。お前は怠け者だ。わたしの預けたお金は何も生むことなく、ただ眠っていたのか。その僕は言います。ご主人様。あなたは蒔かない所から刈り取り、篩(ふるい)でかけもしない所からかき集める方だと聞いて、恐ろしくなり、地の中に隠しておいたのです

    お前はわたしの思いを知らない。知ろうともしない。種をこうとしない。かけようとしない。何もしていない。お前はタラントンをほっておいた。このタラントンは死んでいる。この僕を外に放り出せ。そこでお前は泣いて、歯ぎしりするだろう。

     

    主人は神様、この僕はわたしたちではないでしょうか。しかし、わたしたちはこんなに大きなお金を預かっているのですか。タラントンはお金ではありません。生きる神様の力ではないでしょうか。好奇心、熱中する力だと思います。 神様はわたしたちに強く、言われているのだと思います。

    あなたたちの体は可能性があります。お金に代えられないほどの可能性があります。

    だから、心を決めてやってみたらいい。

     この間、テレビの放送で見たのですが、全盲の辻井氏が優秀なピアニスト、天皇、皇后が辻井氏の演奏会に行かれたそうです。片足のない人が人工の足で走る。ジャンプする。体に可能性が与えられた。体が不自由でもできる。腕のない人が泳ぐ。体の不自由な人が熱心に思い求めます。走りたい、泳ぎたい。走れる、泳げる。嬉しいですね。いや、それ以上に走る選手になっている、泳ぐ選手になっている。パラリンピックが始まります。