Paris


        ステファノ・ボナベントゥラ 加藤 英雄 神父
  • 東京教区での加藤英雄師の略歴

    • 司祭叙階     1989年2月26日
    • 西千葉教会助任    1989年3月〜1992年4月
    • 関口教会助任     1992年4月〜1994年4月
    • 秋津教会主任     1994年4月〜1999年4月
    • 鴨川教会主任     1999年4月〜2005年4月
    • 高幡教会主任     2005年4月〜2011年4月
    • 本所教会主任     2011年4月〜2017年4月
    • 木更津教会主任    2017年4月〜
    •      
        

  •              
  •                
    主日の説教
 
  • キリストの聖体B  18-6-3

      キリストの聖体。神様からわたしたちへの最大の贈り物です。

    ご聖体はイエスの姿です。

    ご聖体はイエスのみ心、み言葉、み業です。

    ご聖体はいのちの贈り物、愛の贈り物です。

     

    愛する人に何かをプレゼントしたい。愛する人から何かを貰いたい。

    わたしたちの子供の頃は貧しい生活でした。周りの人たちが皆が貧しかった。貧しいからいやだとは感じなかった。いつもお腹が空いていた。小学校から帰るといつも、「ただいまー。母ちゃん、何かある?」と聞くのです。

    その頃、クリスマスに何を貰ったのか覚えていないくらいですが、小学校の4年生か5年生くらいの時、お正月のお年玉をもらって、お年玉は500円だったと思いますが、一人でバスに乗り、大森駅まで行きました。そして、ずっとほしかった児童文学全集の一つを買ったのです。290円だったと思います。そして、佐久間のドロップの缶を買いました。この二つを握りしめてバスに乗って家に帰ります。お年玉はなくなるのですが、今でもその時の事を思い出します。

    そんなことを見ていた兄さん、姉さんがわたしが中学校に入ってから誕生日に本をプレゼントしてくれました。心に残るプレゼントです。

    あっ、忘れていましたが、心に残る最初のプレゼントは小学一年生の時に担任の先生から頂いたクリスマス・プレゼントです。イエス様の誕生の固い表紙の大きな絵本です。

     

    大人になり社会に出ます。心に残る贈り物がなくなって来ました。仕事の事しか考えていないのです。一日が仕事で終わってしまう。疲れている毎日でした。

    社会の中で自分は何なのか。

    自分は自分でないのか。

    自分の冒険が始まりました。

    ついにイエスと出会いました。

     

    イエスは語ります。心をぬくもりで包んでくれる話です。例えば、悪口を言われている時、いじめに会っている時は、その時、悪口を受け入れなさい。いじめを受け入れなさい。その人をもっともっと愛しなさい。それが愛のプレゼントですよ。愛ってそんなすごい事なんだと思ったのです。本当のプレゼントは愛のプレゼント。その人の心に入って行くプレゼントです。

     

    イエスは言われます。わたしの愛にとどまりなさい。わたしの喜びがあなたの内にあり、あなたの喜びが満たされますように。そして、わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15・1〜)

     

    イエスは毎日語られました。憐れみの業を行いました。イエスの話を聞こうと、イエスの力によって病を癒してもらおうとイエスの周りの多くの人が集まります。イエスの話が心に響く。病が癒されて喜びが心に響く。皆、支えられているのですよ。今度はあなたたちが支える者になりなさい。貧しい者になりなさい。支えて行く、だから貧しい者になる。

     

    今、こんなに貧しい。もっと貧しい者になるのですか。

    隣人を思わない人になってはいけない。

    何も持っていない? それなら心をその人たちに向けなさい。

    人はイエスを理解していると思っていた。わたしたちを助けてくれる力ある方。

     

    イエスは求めているのです。わたしの中に入りなさい。

     

    わたしは何も持っていない。しかし、あなたたちに最高の贈り物を与えよう。あなたたちを愛する出来事を与えよう。あなたたちを愛しています。あなたたちをわたしの「いのち」よりも愛しています。わたしのあなたたちへの贈り物、それはわたしの体です。わたしの体を食べなさい。わたしの姿が見える。わたしの愛が見える。命が何であるかが見える。愛が何であるかが見える。

     

    イエスは苦しんで死なれました。イエスは復活されました。新しい命に生きる。新しい命の世界を信じなさい。この世の命を超える命がある。

    わたしは今、復活の命、新しい命の内に生きている。わたしの中に入りなさい。わたしはあなたの中に入る。あなたの目の前に置かれるパンになる。わたしがパン。わたしの体がパンになるのです。わたしを食べなさい。あなたの体の中に入る。イエスはわたしたちの中に入り、イエスのみ心がわたしたちの中で生きるのです。

     

    いのちとは何かを知ってもらいたい、愛とは何かを知ってもらいたい、神様とは何かを知ってもらいたい。 命をかけて「キリストの聖体」を示したのです。

     

    ご聖体を受けます。

    ご聖体はイエス様ご自身です。

    イエスを食べます。

  • 三位一体の主日B  18-5-27

      神様って何ですか。 

    入門講座の時、質問します。神様の名前は何ですか。多くの人はイエスですと言います。

    ある人は言います。名前はないと思うのですが、すべてのものを造られた方ではないですか。

    神様の名をわたしたちはイエスと呼んでいます。そして、名前は分からないけれど、すべてを造られた方、両方正しいんですけれど、満点ではないと思います。イエスは呼び名です。

    神様の本名は父と子と聖霊です。三位一体という言葉を聞いたことがあると思いますが、それが父と子と聖霊です。子がイエスです。

     すべてを造られた方:神様はおっしゃいました。わたしの名は、「わたしはある。わたしはあるというの者だ。」(出エジプト314

     

    神様はお一方です。 一つでなければいけないというのは、違いを包むものがあるということです。見えるもの、見えないもの、神様はたくさんのものを造られた。心も、生活も違うものがたくさんある。争いが生まれる。それを包む大きな心がある。大きな力があるのです。それが神様です。

    神様が3名なのですか。数える時、位格と呼びますが、この3つの位格は一つです。

    神様は働いておられます。神様が働く時、3つの姿をもって働かれるのです。父として、子として、聖霊として働かられるのです。三位であって一つです。

     

    父はご自分の子をわたしたちに送られました。わたしたちはイエスにキリストを見ました。イエスこそキリストだ。わたしたちを救う方。わたしたちは毎日、わたしたちに語りかけるイエスを見ました。

    また、病を癒すイエス、悪霊を追い出すイエス、死んだ者に命を与えられたイエスを見ました。

    イエスは殺されました。しかし、ある人たちは言います。イエスは死んでいない。生きている。わたしたちは生きているイエスに会った。イエスに神様の姿を見ました。イエスは人となられた神様です。そして、イエスが神であると宣言したのです。

    イエスは言われたのです。わたしは父の思いを語ります。父の憐れみを業で示します。父がおられなければわたしは何も出来ない。

     

    父と子の心は一体です。また、父と子は別々の存在です。別々の存在がどうして一体になれるのですか。思いを、憐みを業で示されるお方がおられるのです。聖霊という神様です。思いを実現なさる。どんな大きい思いでも、それがみ心に適うものなら、実現なさいます。

     例えば、天地創造、父はすべてのものを造ろうと思われた。子に言われます。天を造り、地を造りなさい。そして、万物をわたしの心の思いのまま造りなさい。子は造る。光よ、ありなさい。子が造ろうと思う時、聖霊が働いて現実のものとなるのです。父と子の思いのまま聖霊が造る。聖霊の中に父と子の思いがある。聖霊は道具ではありません。聖霊の中に、父と子が生きている。

    聖霊がいなければ、父と子は一体になれません。父は思うだけで、何も出来ない。子も思うだけで何も出来ない。聖霊によって父と子の思いが実現するのです。

     [聖霊の続唱という聖歌があります。その詞をゆっくり、何度も何度も読んでほしいと思います。]

     

    わたしたちは、イエスに向かって祈ります。その時、聖霊が働き、わたしたちの心を聖霊が受け取って、イエスにわたしたちの心をイエスに伝えてくれるのです。聖霊によって祈りたい。聖霊は神様の力の神様です。しかし、聖霊は父と子の思いがなければ何もしません。

     

    イエスはガリラヤの山弟子たちに出会い言われました。

    わたしのうちに一切の権能がある。わたしは父の心を、父の力を持ってもいる。聖霊が働かれている。すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。

    わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。

     

    イエスはインマヌエル。

    イスラエルを導く方はヨシュアーイエス。

    イスラエルは神様を求める人々、神様に従う人々。

    新しいイスラエルの王はイエス。

     

    インマヌエル、神はわたしたちと共にいる。

     

    わたしたちは父と子と聖霊の愛のうちに歩みます。

    神に感謝。

  • 聖霊降臨の主日B  18-5-20

      「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いているような音が天から聞こえ、彼らが座っていた、家中に響いた。」

    五旬祭の日、弟子たちが一つの家に集まり、祈っていました。天から吹き込んでくるような激しい風の音が家中響きました。炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。天からの力が、風のような、炎のような力が一人一人の中に入って行きました。 その力は聖霊です。一同が聖霊に満たされ、一人一人が語り始めました。神様を讃える、神様を喜ぶ言葉です。この物音に大勢の人たちが集まってきました。一人一人が語っている言葉は、集まった人々のそれぞれ自分たちの故郷の言葉だったので驚きました。 神様を讃える言葉が典礼の時のような、文語体でなく、普段使っている話し言葉、口語体で神様を賛美しているのだと思います。それも懐かしい故郷の言葉です。

     神様、ありがとう。お恵みありがとう。喜びの時をありがとう。今日、皆で神様に祈ることが出来ます。感謝します。家族が元気です。ありがとう。兄ちゃん、姉ちゃんが元気です。ありがとう。

    こんな祈りをそれぞれの故郷の言葉で祈っている。心が祈っている。

     

    今日、わたしたちは聖霊降臨を祝います。五旬祭の日が聖霊降臨の日です。

    聖霊降臨、聖霊がわたしたち皆に注がれました。わたしたちのうちに聖霊が住んでおられます。

    聖霊は神様の命を持っておられる。

    わたしたちは神の命に生きている。自分の命は神様の命。

    神様の命につながっている。それは、愛ではないでしょうか。

    神様はこの世で自分の命を人に、わたしたちに与えられた。神様はそれほどまでに、人を愛しておられるからではないでしょうか。

     

    神様は人への愛のために、ご自分の独り子を世に遣わされました。その独り子、イエスによって神様はわたしたちをご自分の世界に買い戻されたのです。わたしたちの代金がイエス様の命です。わたしたちは今、神様の世界にいます。

    神様がわたしたちの心と体の中に住むほどにつながっています。そのつながりが愛です。

     

    今まで、わたしたちの中に欲望、欲求の霊が住んでいました。いや、わたしたちが神様の霊を追い出し、欲求の霊を呼んだのです。人は神様のものではなくなったのでした。

    自分の世界を求めました。自分の幸せのために働く。

    人に勝つ。人を支配する。強い人が豊かな物を持つ社会を作っていったのです。

    そして、弱い人たちは苦しみを受け取りながら、死んでいったのです。

    命は神様から注がれる。命を注がれて生まれる。

    人の命はすべて神様のものではなかったのはないですか。

    神様の世界に戻りなさい。神様の命に生きなさい。

    神様は、イエスを通して、人のうちに住む欲求の霊、悪の霊を追い出し、神様の霊を人の注がれたのではないでしょうか。

    神様はご自分の子イエスによって悪い霊を追い出し、神の霊を注ぐようにされたのです。

     

    今日、聖霊降臨を祝い、聖霊が注がれている事を感謝します。

    愛を行いなさい。聖霊が助けてくださる。

    イエスの姿を思い浮かべなさい。聖霊が助けてくださる。

     

    聖霊によって神の国へ出発です。

     

     (五旬祭は「七週の祭り」刈り入れの祭り。過越祭から50日目に行われた。過越祭から始まる大きな祭りを締めくくる祭りです。)


  • 主の昇天 B  18-5-13

      その時、イエスは11人の弟子たちに現れて言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

     

     立ち上がり、出て行きなさい。

    祈りが大切です。静かに、神様を見つめ祈りたいのですが。 

    祈りについてこのように言われた事があります。薄暗い部屋の中で十字架の前で祈る。自分の罪を思い起こして、回心の思いで祈る。しかし、そのような祈りのやり方は卒業しよう。皆がそのように祈ったら、皆が修道士、シスターのように祈ったら、社会が暗くなる。 

    祈りは喜びではないですか。神様と出会う時、神様の声を聞く時ではないですか。祈りのうちに神様の中に入って行くのではないですか。神様が自分の中に入って来るのではないですか。こもってはいけない。出て行きなさい。出て行き、人と出会うのです。 ある人は言いました。修道院で、庭を歩きながらロザアリオを唱えている神父さんがいました。歩きながら祈る、落ち着いて祈っているのかなと思ったそうです。しかし、自分の中にこもる、自分に集中して祈る祈りではない、これは自分から解放される祈りだと思ったそうです。 

    出て行く、出て行き人と出会う。 思いつめたような顔で出会った人と会話をするのですか。

     

    すべてのものに福音を宣べ伝えなさい。出会う人と、今を、今までの出来事の喜びを語り合うのです。今日の注釈にすべての造られたものは人間ですと言いますが、人間だけではないと思いたいのです。すべてのものが生きている。ある物は語ることが出来ない、聞くことが出来ない、見ることが出来ない、触れて感じることが出来ない。動物、植物のような命を持っていない。人のような命を持っていない。しかし、神様がその物を造られた。その物は、その時、そこに置かれた。そのものは自分の体を持っている。自分の場所を持っている。時間のうちにいる。自分に与えられた場所にいるのではないでしょうか。 大きな木がすくっと立っている。生きている。嬉しくなる。その木に触れて、ありがとうと言ってもいいのではないでしょうか。花に話しかけてもいいのではないでしょうか。海に、川に話しかけてもいいのではないかと思うのです。(人がいる所ですると、見ている人が心配するかも知れません。) 生きている、一緒に生きている。神様の力によって、み心によって生きている。支えられて生きている。喜ぶ、声に出して喜びたいと思うのです。 自然と語り合う。

     

    イエスは話し終わると天にあげられました。わたしは天に昇り、父のもとからあなたがたに真理の霊、弁護者、聖霊を送ります。あなた方は聖霊によって、心の耳で神様のみことばを聞きます。聖霊によって、あなたがたが神様の温かさを知り、和やかさ、ほんのりとした優しさを知るようになります。生きることは愛することだと知ります。

     

    イエスの昇天は新しい命の生活の始まりではないでしょうか。聖霊がこの世を包みます。

    天の御父のみ心、御子イエスの思いが聖霊によって行われます。

    教会が造られました。聖霊が教会を造ります。教会は聖霊によって働きます。わたしたちが聖霊によって教会の煉瓦となります。

     

    天に戻られたイエスは全く自由に、場所を超えて、時間を超えてわたしたちに声をかけられます。

 
  • 復活節第6主日B  18-5-6

      イエスは言われます。

    父とわたしは命のうちに一つ。心のうちに、思いのうちに一つ。あり方のうちに一つです。

    わたしと父は全く一つにつながっています。そのつながりが愛です。

    一つに生きている、愛のうちに生きているのです。

    わたしは父のみ心を守っている。

    そのようにあなた方もわたしの心のうちにわたしと一つになりなさい。

    わたしのあなた方への愛のうちにとどまりなさい。

     

    ずっと昔の事ですが、東京大学のある学生が華厳の滝に身を投げて自殺しました。

     

    自分は何で生きているのかわからない。自分のこの命は何か。どこに希望を持つのか。

    存在とは何か。

    考えた。考えた。分からない。考えれば考えるほど分からない。

    そして、ついにその学生は華厳の滝に身を投げて死んだのです。

    その学生と同窓の神父さんが言いました。

    わたしたちは神様と出会った。神様の思いを知っている。

     

    わたしたちの命は神様のものです。

    自分の命が神様のものなのですか?

    そうです。自分の命が神様の命だと知った時に、本当に生きることが出来るのではないですか。

    自分の命が自分のものだと思って、生きている自分が分からないという。

    何のために生きているか、どこに向かって生きているのか。

    生きている自分が知らず知らずのうちに歩いているその道が分からないという。 知りたいという。

     

    神様の命に生きているわたしたちは神様のみ心を知ったらいいのではないですか。

    神様に希望を置いたらいいのではないですか。

     

    神様って何ですか。

    神様が見えるもの、見えないものをお造りになったのですか。

    見えるもの、見えないものが時間のうちに消えて行く。

    物があるとは何ですか。何の意味があるのですか。

    神様の遊びですか。

    人が造られた。時間のうちに消えてしまう命。

    人の命も神様の遊びですか。

     

    今、自分が生きている。自分の命が生きている。支えられて生きている。愛によって生きている。

    自然に支えられ、人に支えられて生きている。生きている、支えられている、愛されている。

    神様は言われます。

    わたしはあなたを愛している。あなたの必要なものはすべてあなたの前にある。全部あなたの前にある。それを取るために働きなさい。

    しかし、聞いてほしい。わたしはあなたが生きるためにあなたに命を与えたのではない。

    出会った人と一緒に生きるために、わたしはあなたに命を与えた。

    支え合って一緒に生きる、それが愛です。

    出会った人が友。

     

    出会った人が友となるのですか。

    神様は人に命を注がれ、人はこの世に生まれます。すべての人が神様から命を注がれて生きるものになっている。人と人が出会う、出会った人が友となる。いや、出会った人は皆兄弟ではないでしょうか。神様が父さん、父さんから命をもらった。

     

    そして神様は言われました。

    友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

    出会う人を友以上のもの、兄弟とする。兄弟のためなら、どんな犠牲を払ってもいいと思う。兄弟のためだったら命も捨てることが出来る。

     

    華厳の滝の大学生は人と出会おうとしなかったのではないでしょうか。

    人が自分の中にはいって来ない。自分の中に入れない。友がいない、兄弟がいない。

    誰にもつながろうとしなかったのではないでしょうか。 自分の中に命がある。それしか見ようとしない。自分しかに見ない。

    生きることは愛すること。誰も愛そうとしなければ、その人は生きていない。

    その人の命は生きる喜びをもたらす命ではない。

     

    神様は言われます。わたしはあなた方を愛しています。

    わたしの愛にとどまりなさい。

     

    神様の愛を喜ぶことが出来ますように。

     

    あなたが自分を消した時、神様のうちに入る。神様の命に入って行く。

    わたしの喜びのうちにいなさい。わたしの喜びがあなたの喜びとなる。

     

    互いに愛し合いなさい。



   
  • 復活節第5主日B  18-4-29

      サウロは純粋な青年だったと思います。曲がった事が嫌いです。妥協せず、何事にもまっすぐ進みます。ユダヤ人の家庭に生まれました。神様がすべてを造られた。イスラエルは神様から選ばれた民、神様の道を行く手本となりなさい。祝福の源となりなさい。サウロは信仰を求めた。純粋な信仰を求めました。ファリサイ派のガマリエルのもとで学びました。イスラエルの歴史を学んだ、聖書を覚えるほど読んだ、律法を学んだ。律法は神様の思い、すべてのものは律法のうちにある。律法に従いなさい。社会が律法によって動かされるのです。サウロは律法を自分の信仰の道筋としました。神様と律法のうちに向き合う。

     

    サウロはキリスト者と言いう集団が活躍していると聞きました。。彼らは神様のみ心を語る。神様のみ心を行うという。しかし彼らは律法を自由に考えている。自由に考え得るというのは律法を守らないということではないか。そして、驚いたことにはキリストという者が神だという。何を言っているのか。人が神であるはずは決してない。彼らの神はわたしたちの神ではない。イスラエルの神ではない。

     

    キリストという指導者はローマに渡され、十字架の刑に処せられ、死んだのです。キリスト集団に指導者がいなくなりました。しかし、キリスト集団はキリスト・イエスは死んでないと言っている。わたしたちは神様といであったと言っている。むしろ、今までよりも深く生活しているというのです。

     

    イスラエルは混乱しています。キリスト集団が混乱の原因を作っているのです。彼らの信仰は間違っている。彼らを許すことは出来ない。子供も大人も、女も男も、見つけ次第、捕らえて牢に入れてしまう。 サウロにとって神様を信じるとは、聖書を知り、祈りの時間を持ち、律法をより従順に守ることなのです。

     

    イエスはサウロを見ています。キリスト者の迫害に情熱を燃やしているサウロにキリストは呼びかけます。新しい命のうちにいるキリストは天からサウロに呼びかけます。「あなたはわたしを迫害している。」 サウロはこの出来事に驚きます。イエスは何者なのか。イエスはキリストか。新しい命とは何か。イスラエルとは何か。信仰とは何か。

     

    サウロは3年間アラビアに退き、自分を見つめなおしたのです。自分にとって神とは何か。イスラエルは神様から選ばれた民ではないのか。選ばれた、何のために選ばれたのか。

     

    サウロはイエスに出会った。イエスがサウロを包んだのです。

     

    イエスは言われる。わたしは葡萄の木。わたしにつながっていなさい。わたしにつながってわたしの実を結びなさい。

    サウロは神様を求めていました。聖書によって、祈りによって、律法によって、求めていました。

    イエスは言われます。わたしはあなたのどこにいますかあなたは神様を自分のものにしようとしているのではないですか。聖書をいかに知っているかを競う、どれだけ祈っているか競う、どれほど真剣に律法を守っているかを競う。 そんなのは信仰ではありません。あなたを超えて神様はおられます。神様は今も生きておられます。生きておられる神様と向かい合って話をしなさい。

     

    わたしは葡萄の木。与えなさい。与えなさい。与え尽くしなさい。その時葡萄の木の枝になります。自然と出会いなさい。人と出会いなさい。出会った時、聞く者となりなさい。出会う相手の心とつながりなさい。自然を聞く。自然に語っても自然を聞くことは出来ません。心に何もなくなった時、自分の思いがなくなった時、自然の言葉が心に入って来ます。人と出会う。聞く者となった時、語りなさい。 それが平和。神様の喜びです。生きている、それは神様の支えです。神様の支えがなければ生きることは出来ません。 もしその人の信仰がなかったとしたら、神様はその人にいつでも、どんなことをしていても、呼びかけます。わたしのもとに戻っておいで。信仰のない人を裁く、苦しめる、それは神様の出来事ではありません。その人が神様のみ心を知ったなら、その人は神様のもとに帰ります。

     

    わたしは葡萄の木。わたしにつながっていなければ、善悪の判断をすることは出来ません。わたしにつながっていなければ、実を結ぶことは出来ません。

     

    サウロは葡萄の木に神様のみ心を見たのだと思います。

     

    神様のみ心、聖霊によって働く教会は葡萄の木ではないでしょうか。
  • 復活節第4主日B 18-4-22

      この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。

    わたしたちは社会という共同体に生きています。共同体、家の中に生きているのです。家はまず始めは家庭です。町内会があって、市があります。県があり、国があります。わたしたちは家を造りながら生活しています。家はこの世の共同体なのでしょうか。いや、わたしたちが属しているこの世の共同体を超える教会という集まりがあります。

    わたしたちは2つの家に住んでいるのかなと思ってしまいます。 イエス様の時代、ペトロ、ヨハネが働いていた時、会堂共同体が町の共同体を作っていたのではないかと思います。町が神様の思いのうちにあるように。そんな家を造って行くのです。

     

    ペトロとヨハネは捕らえられました。わたしたちは病人を癒しました。そのことで捕らえられているのですか。病人を癒すことが善い事ではありませんか。神様の喜びとなることではありませんか。

    わたしたちは病人を癒す力をいただきました。それは、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスの名によるものです。

    イエス様は神様が求める家を造ろうと働いていた方ではありませんか。神様の恵あふれる、光あふれる、温かな、ゆったりとした、喜び、感謝の家、苦しんでいる人たちが支えられる、そんなつながりのある家を造ろうとしていたのです。 そのイエス様をあなた方は十字架にかけえて殺してしまったのです。

     

    イエス様は言われました。わたしは善い羊飼いです。羊は羊飼いのうちにいます。羊飼いから食べることを教えられ、飲むことを教えられます。歩く、走る、休むことを覚えます。その羊飼いによって小羊はまことの羊になるのです。善い羊飼いは羊とつながっています。羊は羊飼いの呼びかける声を聞き取ります。羊は羊飼いの声を知っています。羊飼いは羊を一人ぼっちにしない、置いてけぼりにしません。羊飼いは羊のためにそばにいる、一緒にいる、羊のために働く、それが羊飼いの生活です。羊のためにいのちも捨てると、まことの羊飼いイエス様は言われました。危険が迫った時、命をかけて危険と戦う。危険から守る。羊飼いは羊を本当に大切にしている、羊を愛しています。羊飼いと羊はつながっている。命によってつながっている。まこと羊飼いイエス様は言われます。わたしの羊を奪う者はわたしの命を奪う者だ。

     

    この囲いの中に入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。

    その羊も羊飼いの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れとなる。

     

    羊は誰ですか。羊飼いは誰ですか。

    復活節第3主日B  18-4-15

      復活、この世を超える命があります。その命を見た。復活の命を見た。死んでも生きる命があります。復活を信じます。神の恵みを深く感じることが出来ますように。

    わたしたちは復活の証人です。復活の喜びを出会う人と分かち合うことが出来ますように。

     

    日曜日、2人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって旅をしていた。2人は歩きながら議論している。 イエスは毎日、神様のみ心を語ったのではないか。イエスの言葉が、神様の喜び、温かさ、慰め、憐れみを語った。神様の思いがイエスの話となって流れ出てくる。イエスの話が人々の心に入って行くのですイエスの言葉が水のように人々の心の中に入って行く。

    神様のみ心がイエスの業となる。イエスは悪霊を追い出す。死んだ者が生き返る。

    安息日の前、イエスが十字架にかかって死なれた。苦しみのうちに、苦しみを受け取りながら、何の抵抗もせず、十字架に釘付けされ殺された。

    なぜ何も抵抗をしなかったのか。万軍の主に助けを求めなかったのか。そんなことを神様は赦されたのか。 そして墓に行った婦人たちは言った、墓の中に遺体がなかった。

    しかし、天使たちが言ったという。あの方はここにおられない。復活なさった。

    2人がイエスの出来事を論じ合っていると、道連れが話に入って来た。宿で食事をした時、その人が感謝をささげパンを裂いた、その時2人はその人がイエスだと気づいたのです

     

    2人の弟子はエマオからエルサレムに帰って皆に、告げる。わたしたちは復活したイエスに出会った。仲間たちは誰もその話を信じない。

     

    鍵のかかっている家の中、弟子たちが集まっている真ん中にイエスは立った。そして「あなたがたに平和があるように」と言われた。 目の前にイエスがいる。皆、驚く。恐れおののく。うろたえる。

    イエスは言われる。「わたしだ。まさしくわたしだ。わたしの手や足を見なさい。触ってよく見なさい。」

     

    イエスは言われる。わたしについて聖書に記されている事柄はすべて実現する。

    聖書を心の目で読みなさい。 聖書の言葉は心の言葉です。文字を理解するのではない、イエスの出来事を考えるのではない、イエスと出会う、生きているイエスと出会うのです。

    聖書を読む。その世界の中でイエスが今、あなたと語られているのです。

     

    復活は見えない出来事です。見えない恵です。大きな、本当に大きな恵み、命にかかわる、生き方にかかわることです。イエスの出来事、イエスの歩いた道です。わたしたちは十字架に向かって祈ります。十字架は愛の苦しみです。苦しみの命を超えて喜びの命が働きます。

    復活は生き生きとしたいのちの喜びです。

     

    自分の十字架を受け取ります。十字架を背負いながら、復活の道を歩きます。

      (自分の十字架って何ですか。イエスは平和があるようにと言われました。

      平和とは与えることです。人のために働くことです。特に隣人のために働

    くのです。

      あなたには隣人がいますか?)

    復活節第2主日B  18-4-8

      イエスが捕らえられた。イエスは神を冒涜している者、律法を破る者。イエスを亡き者にしたい。ユダヤ人の我々には人を死刑にすることが出来ない。イエスをローマに引き渡そう。イエスは死刑の宣告を受けた。十字架を背負って、人々の前を歩き、ゴルゴタの丘に登った。十字架に釘付けにされ、命を奪われた。

     

    イエスが残酷な姿で、死んでしまった。イエスの力に期待を持っていた人たちは希望を失った。

    弟子たちはいイエスから離れ、逃げ去ってしまった。

     

    日曜日、弟子たちは集まった。自分たちはイエスにつながるもの。弟子たちはユダヤ人たちを恐れていた。世を支配する力を恐れていた。弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、沈鬱に黙り、ある者は言葉少なに語るだけだった。

    イエスが来られた。「あなたがたに平和があるように。」 皆はイエスを見た。

    平和:心静かに聞く者になりなさい。平和とは我慢することではありません。忍耐を争うことではありません。相手のいうことを聴く。何時間でも聴くのです。言うことが亡くなるまで聞き入るのです。そして、静かに自分の思いを語るのです。このように引き籠ってはいけません。

     

    「聖霊を受けなさい。内に籠もるのではなく出て行きなさい。人と出会いなさい。生きる命の喜びを語り合いなさい。」

    あなたは神様と出会った。今、あなたがたは神様の大きな恵み、祝福のうちにいる。聖霊があなたの内に入られた。神様が今、あなたの内におられる。

     

    弟子たちはイエスを見た。イエスの声を聞いた。弟子たちは生まれ変わったようなイエスを見たのです。ますます汚れのない、清さがにじみ出ている姿を見たのです。

     

    トマスは言う。イエスを見たというが、イエスは死んだ。死んだ者が姿を現したというのか。そんなことはあり得ない。あの方に体にこの手で触れなければ、わたしは決して信じない。

     

    次の日曜日、弟子たちは鍵のかかった家に集まっている。イエスが来られた。イエスは言われる。トマス、わたしの体に触れなさい。わたしの手を見なさい。わたしの脇腹に触れなさい。わたしの苦しんだ傷跡です。

     

    信じる者になりなさい。

     

    トマスは言う。「わたしの主、わたしの神。」

    トマスの内にイエスは入って来られた。心と体がイエスでいっぱいになった。わたしは神様のものです。

     

    信じる者になる:神様のものになることです。精一杯神様を愛する。隣人を自分のように愛する。人のために苦労することではないですか。隣人を理解超えて受け入れること。問題が起こった時、無理と思っても、そのまま受け入れることではないでしょうか。我儘だと思っても、一方的だと思っても、そのまま受け取ることです。

    その姿はわたしたちに対するイエスの姿です。

     

    イエスのわたしたちへの愛を信じます。天の父のわたしたちへの愛を信じます。

     

    わたしたちは復活の命への道を歩みます。

     

    復活の主日・日中のミサ 18-4-1

      主は復活された。死んだ人が生き返る。そんなことがあるはずはない。

    イエスは死んだ。イエスの死をエルサレムの人たちは皆、見た。イエスの活動していた時は終わったのだ。皆そう思った。もう、イエスの姿を思い起こすまい。イエスを忘れよう。

    ペトロもヨハネも復活を知らなかった。神様の力。神様の神秘。神様が与えてくださるの新しい命への復活の神秘を知らなかった。

    墓の中にいない。どこに行ったのでしょうか。

    イエスは来られた。弟子たちは言う。わたしたちはこの目でイエスを見た。

    イエスの言葉を思い起こした。わたしは3日目に復活する。イエスの言葉が見えるものとなった。

    その時から弟子たちは言うのです。イエスは生きておられる。イエスは神様が聖霊と力によって油注がれた方です。イエスに新しい命が生まれた。

    死んだ人が生き返ったのではない。死んだ人が今までの命を終え、神様に呼ばれ新しい命を与えられたのです。イエスが新しい命を身をもって示された。イエスによって新しい命が与えられる。イエスがそれを示されたのです。

     

    わたしたちはイエスの復活を見た人たちの証言を信じます。神様の不思議を信じます。コロサイ書は言います。「地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのである。」(コロサイ323) 復活を信じる者は死んだのです。地上から離れるのです。

    あぁ、そうか。イエスは言われました。わたしの国はこの世に属していない。

     

    わたしたちは復活の道を歩みます。

    復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 18-3-31

      復活:喜ぶこと、ありがとうが心に溢れることです。一緒にいることが出来る。そうだ、喜んでいるときは悪い事を起こそうなんて浮かんでこない。復活は喜びの出発です。

     

    こんなことを思いました。神父、お前は命について語っている。貧しさ、苦しみ、悲しみについて語る。貧しいものは何も持っていない。悲しい者は自分に仲間がいない、人を誰も信用できないと思ってしまう。貧しさを見つめなさい。持っていることは不自由です。何も持っていない自由を見つめなさい。自分の思いを行える喜びを思いなさい。悲しい、苦しい、十分悲しんで、十分苦しんで、悲しさ、苦しさを克服しなさい。その時自由になる。

     

    神父であるお前は昨日の断食に自分の中にある誘惑の強さを知ったのではないか。お前はほんの一時、足がふらつくように思った。一日、心が落ち着かなかった。たった一日の断食にようやっと耐えることが出来た。でも、水を飲んだな。水がなければ、声が涸れてしまう。そんな理由をつけた。

     

    今日、朝早く起きました。不思議なのですが、その時、お腹が空いて仕方がないとは思わなかったのです。今日、何かごちそうを食べたいとは考えなかったのです。自分の体の自分勝手を思ったのです。 昨晩はよく眠れたので、朝からハンバーグとガーリックライスを作って食べました。レタスのサラダも食べました。

     

    命は愛。一方、人と付き合うのは煩わしいから、一人で時を過ごす。心理学の勉強をして見ようかな。歴史は面白い、神学を勉強しよう。一人で学問の世界に入って行く。勉強が面白くなってどんどん一人になって行く。出口がなければ、それは自分の世界の構築です。強い自分の世界です。

    祈る。深く祈る。祈って行くと、どんどん見えない世界が感じられる。心持ちが変わってくる。聖書を深く読む。聖書の世界に入って行く。それらも自分の世界です。強い自分の世界です。

    この人は愛は持っているけれど、自分の愛は行き場所がない。誰のために働いているのですか。

    愛は出会いです。その人のために働く事です。

     

    死ぬのは一人。死にたい人は誰にも煩わされたくないと思って人ではないですか。死は一人、今までも、今からも一人。暗闇でいくら叫んでも、何を叫んでも返答がない。死んでしまったら言葉もなくなってしまう。誰もいない、話が出来なくなる。言葉がなくなってしまう。

    喜びは誰にでも声をかけたい。一緒に喜んでもらえたらいい。

     

    復活は命への感謝です。神様の事を思うと気が引き締まる。体が引き締まる。聖書を読むと、聖書から何かを教えられる。聖書は神様のみ心を伝えたくて書かれた物。神様を囲む人たち、神様のみ心を大切にする人たちの様子だと思っていました。聖書を知識で読んでいたのです。

     

    弟子たちは3年間イエスと一緒に生活していました。朝から晩までいつもイエスと顔を合わせていました。弟子たち同士、何もかも語り合う生活が出来て行ったように思います。弟子たちは聖書を読んだことがなかった。神様のみ心は子供の時、寝る前に、父さん、母さんから話を聞かされていたのです。そして、安息日に、会堂の別の部屋で、今でいう教会学校でレビの人たちから教えられたのです。 弟子たちは、いつも一緒にいるイエスがもし、しかめっ面だったら、我慢できたろうかと思うのです。この社会に不満を持つ、血気盛んな青年たちです。毎日のように語り合う、イエスはおおらかです。ユーモアが分かる方です。顔はにこやか、時には厳しい方です。

    聖書はそんなことは書かなかった。一番真に迫まることを書いたのです。

     

    復活を喜びます。新しい命を、新しい世界を示された。言葉ではなく、この世に示された。言葉がしるしとなったのです。

    受難の主日(枝の主日B) 18-3-25

      イエスがエルサレムに上られる。大預言者、ダビデの子、あの方こそメシアではないか。温和なロバに乗り、ゆっくりとエルサレムに上られる。人々は自分たちの服を道に敷いて、木の枝を道に敷いて、喜びながらイエスと一緒に歩く。ホサナ、ホサナと叫びながら歩く。イエスがエルサレムに入るならば、万軍の主が味方してローマ軍を蹴散らし、イスラエルが独立する。人々はイエスの姿に心を躍らせるのです。

     

    一方、ユダヤの指導者たちは最高法院を開いて言います。イスラエルは不安定になって来ている。ローマ軍がエルサレムに入って来るかも知れない。大祭司カイアファが言います。

    「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたたちのために好都合だと思わないのか。」

     

    イエスがピラトの前に引いて来られました。

    「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」

    「十字架につけろ。」 

    イエスは鞭で打たれて、十字架を背負わされる。

    茨の冠をかぶせられ、唾を吐きかけられ、侮辱される。

    十字架から降りて、自分を救ってみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。

    イエスは9時から3時まで十字架の上で苦しまれました。3時にイエスはついに叫ばれました。

    「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」

    イエスは息を引き取られました。命を献げられたのです。

     

    今日は「受難の主日」と「枝の主日」を祝います。一緒に祝います。

     

    本当にこの人は神の子だった。

  • 四旬節第5主日B  18-3-18

      主はわたしたちに言われます。新しい掟を与える。今まで、わたしは言葉のうちにわたしの律法掟と法をあなたたちに与えた。すべての言葉とすべての法が文字によって人々に示された。律法に神様のみ心を見ます。力を尽くして律法に従いなさい。人々は律法を守るよう努力した。

    主は言われます。あなたたちはわたしの思いのうちに、わたしの心のうちいなかった。あなたたちはわたしの契約を破った。あなたたちはわたしの心を考えずに、律法の道を歩いた。悔い改めの心を持たないで、いけにえを捧げた。勉強を楽しく思わない者が百点をとって威張るのです。

     

    今、わたしは新しい契約を与える。わたしを知る者となりなさい。

    わたしの律法をあなた自身の中に与えるのです。あなたの胸に授け、あなたの心の中にそれを記します。新しい契約は主であるわたしとあなたとの心のつながり、命のつながりです。わたしとあなたの命がつながっている。あなたはわたしを心で知る者になる。

    その時わたしは言います。主を知った者は、主のうちにいるものは罪を犯すことは出来ない。

     

    イスラエルの祭りに、イエスはエルサレムで祭りを祝います。神様と共にいる心を新たにするのです。 イエスは言われます。人の子が栄光を現す時が来た。栄光は神様の力が光となって現れることです。神様のすべてを包む、圧倒する力を目の前に見る。まことの喜び、まことの安らぎ、温み、心地よさです。神様の新しい契約は栄光で人を包むこと、愛ではないかと思うのです。愛は言葉ではない。律法を守ることではない。心の中に入ること。その人のために働くことです。

    神様の愛が栄光となる。絶対の愛です。絶対の愛がわたしたちを包む。

     

    イエスは栄光について、愛について不思議なことを語ります。

    一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。わたしに仕えようとする者はわたしに従え。わたしのいるところにわたしに仕える者もいるからである。

     神様からいただいた命は一粒の麦ではないか。麦が生きるためには愛のために命をかけることではないか。そしてイエスは言われます。わたしはそのために来たのである。

     

    わたしは父にみ心と一つになるため、命を捨てる。このために来たからである。わたしはすべての人の罪を背負うのである。わたしの中には何もない。空っぽである。人々の罪がわたしの中に入り込む。わたしは人々の罪でいっぱいになる。そしてわたしは罪と共に命を失う。人の中に巣食っている罪は消える。

     

    人を愛する時、自分の命が生きる。自分の命を愛のために捨てる時、自分の命が生きる。

    イエスの姿を深く深く思い巡らします。イエスの十字架によってすべての人がイエスのもとに引き寄せられる。

  • 四旬節第4主日B  18-3-11

      今日の第2朗読・エフェソの教会への手紙を読みました。人間とは何ですか、神様は人間をこんなに愛しているのですよ、パウロによって、神様の人への愛を教えられているように思うのです。

    あなたがたの生活は自分の思いの生活ではないですか。自分の好き、嫌いを選び、楽しく過ごしているのではないですか。自分を楽しむ、家庭を楽しむ。小さな幸せ。神様は言われます。でも、そのような幸せ、そのような生活はわたしの求める生活ではありません。わたしの生きる命ではありません。あなたは自分しか、自分と自分の家族しか見ていないではないですか。あなたを支えている自然への感謝はどこに行ったのですか。あなたを支えている皆への感謝はどこに行ったのですか。わたしのあなたへの思いはどこに行ったのですか。

    あなたはあなたを囲むものを見ようとしない。あなたは自分の城をしっかりと造り上げ、その中に住んでいるのではないですか。

     

    エフェソの教会への手紙は語ります。憐れみ豊かな神はわたしたちをこの上なく愛してくださっている。憐れみ豊かな愛その愛によって死んでいる命を生きる命に変えてくださる。自分の命だけを楽しむのは罪ですと言われます。命は愛です。命は憐みです。愛はつながりです。憐れみは隣人を思う心。その人とつながる事。命はつながらなければ、生き生きと生きない。自分だけの命は死んだ命です。

    神様はわたしたちに恵みをふんだんに注がれています。神様からのあふれるほどの恵によって信仰を見つけられたらいい。信仰はつながりです。恵みを喜ぶ。恵によって新しい心生まれます。恵によって笑顔が生まれます。恵にあふれて話しかけたくなります。恵によって隣人が見えます。喜びの心で見渡すと助けを求めている人が見えます。信仰とは人の心の姿が見えることではないでしょうか。 

    キリストはご自分の思いのうちに人を造ります。人は神の命を注がれた神の子供です。神様に従順でありなさい。キリストに似て憐れみ深い人になりなさい。善い事を行いなさい。他人を兄弟としたらいい。兄弟のために働きなさい。手助けを求める兄弟のために働きなさい。神様に愛されている人が、神様の思いを知らずに生活している。自分が何であるか思い巡らします。

     

    福音書を読みました。 イエスはニコデモに言われました。

    モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。蛇は荒れ野で不平をつぶやく人をかみました。人は傷を負いました。命を奪われました。自分たちの命を奪った、自分たちに傷を負わせた蛇を旗竿の先に掲げて見上げなさい。見つめなさい。蛇の心が自分に入って来る。自分のわがままが見えてくる。

    人の子を旗の先に掲げて上げなさい。人の子はイエス。神様を十字架にかけた。父さんを苦しめている。全部父さんからもらったのに父さんを裏切って殺してしまった。イエスを、父さんを見上げる。自分の罪を見つめる。イエスの前に膝まづいてしまう。

     

    もっと身近に例えたらいいと思いました。蛇を、嫌な奴を、顔も見たくない奴を見つめる。自分がいじめていたものを見つめるのです。自分のうっ憤をその者にぶつけていた。そのものを使いッ走りにしていた。自分の罪をその者になすりつけていた。手下のように、奴隷のように扱っていた。その自分の手下、奴隷のような人が苦しんで死んだ。あなたが苦めて死なせた。その人を見上げなさい。その人の苦しみを思い、味わいなさい。その人はあなたの見せたくない部分、嫌な部分ではないですか。その人を見続けなさい。

     

    悪の世界。光がない世界。見たくない、もう見ない、捨てたい世界。 

    人の子が来られました。それはみんなと一緒に光の道を歩むためです。人は神様の愛によって生まれた。神様の愛によって命を注がれたのです。人は自然に支えられている、人に支えられている。光に向かって歩んでゆくのです。

    四旬節第3主日B  18-3-4

      今日の聖書を呼んでいると、出エジプトを忘れてはいけないと言われているようです。四旬節の道は出エジプトの道ではないですか、四旬節の歩んでいるあなたの心をじっと見つめなさいと言われているのです。 第一朗読、イスラエルはエジプトから脱出して、3か月後にシナイの荒れ野に着きました。モーセは神様に呼ばれ、シナイ山に登ります。シナイ山の山頂に着きます。モーセはそこで4040夜断食します。主はモーセを見つめている。そして、ついに主なる神は神様のみ心を文字にして律法を与えられました。

    その律法は言います。わたしの心のうちに歩みなさい。この律法はわたしの道からそれないようにするための道しるべです。 あなたたちはわたしのものです。どんな偉大な人と出会っても、その人の奴隷となってはいけない。あなたがどれほど大金持ちであっても、どれほど強力な力を持っていても、どんな人であってもその人を、その人たちを奴隷としてはいけない。

    十戒はそれぞれの箇条で、してはいけない、しなさいと命じられています。この根底には「あなたを奴隷の家から導き出すためである」という神様のみ心があるのです。自分が自由であるためには他人の自由も大切にするのです。

     

    過越祭が近づきました。過越祭はモーセの出エジプトを祝う、思い出す、心に留める祭りです。過越祭が近い、正しく四旬節ではないでしょうか。イエスは神殿の境内に入ります。賑わっている。神殿の境内に大勢の人たちが行き交い、神殿の境内が市場になっている。四旬節にどうしたのか。神殿に入るために、いけにえを用意する。いけにえを買う。いけにえをささげて祈る。それが神殿の境内の賑わいの流れになっている。

    神殿に行くのは祈りに行くのではないですか。神殿で神様と会う。心が清められるのではないですか。 いけにえは自分自身ではないですか。自分自身がいけにえとなるのではないですか。

     

    イエス様は言われます。この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。

     

    わたしたちは今、四旬節の道を歩いています。教会で休む。心を休ませる。静かに、深く愛の世界を思い巡らしたいと思います。

    四旬節第2主日B  18-2-25

      神様はわたしたち問われます。一番大切なことは何ですか。

    それは、弱い者である、小さい者であることを知りなさい、と言いうことですか。完全な者でありなさいということですか。神様を愛し、また、隣人を愛しなさいということですか。これらはみな大切なことばかりです。これらのもととなることを見つめなさいと言われるのです。それは命です。命を喜ぶことです。いのちとは動物、植物が生きている、働いている事、人が動いている、働いていることです。神様は言われます。わたしの喜びは人が皆生き生きと生きている、自然の命の世界の中にいて、自分が生きていることを知る。自然の命を喜ぶ。自分の命を喜ぶのです。

    完全な者になりなさいと言われました。(マタイ548

    人は弱い者である、小さい者である、それが完全な姿。だから少しでも強くなろうと道を歩む、少しでも大きくなろうと道を歩むのです。

    生きることは愛すること、愛することが生きること。神様を会いなさい、隣人を愛しなさい。愛し続ける事、いのちを感謝し続ける事、それが人の完全な姿です。

     

    わたしたちは神様の愛によって、いのちが注がれ、この世に生まれました。そして、今生きています。この命は自分の命ではない。それを忘れている。

    そして、命は動かなければ、働かなければ命ではない。それ以上に、人の命は自然に支えられている、人に支えられている。そこで、自分は小さい者、弱い者であることを知るのです。生きる、だから愛することを知って行くのです。

     

    アブラハム、あなたは自分の独り子である息子さえ、わたしに献げる事を惜しまなかった。あなたはまことに神を畏れる者だという事が分かった。あなたの信仰の如何に深いかを知った。あなたを豊かに祝福しよう。

     

    アブラハム、あなたの愛してやまない一人息子イサクを、焼き尽くす生贄としてささげなさいと神様は言われた。アブラハムは苦しむ、悩む。しかし、どんなに苦しくても神様に従う。その出来事が全く理解できなくても神様に従う。これが信仰ではないか。神様はその姿を喜んだ。

    そして言われる。わたしの喜びは人の命を喜ぶことです。だから、わたしは人の命を生贄とすることは望んでいない。あなたたちは自分たちの利益のため、赤ちゃんをささげ物として来た、おとめをささげ物として来た。わたしは言う。どんな状況であっても、決して人をささげものとしてはいけない。アブラハム、あなたの信仰の深さを見た。信仰の心をもって、なんでも分からないことを問いなさい。

     

    高い山の上で、弟子たちはイエスの姿が変わるのを見た。イエスの衣は雪のように白く輝いている。イエスはモーセ、エリヤと語り合っている。雲が現れて、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 山を降りる時、イエスは弟子たちに命じます。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」 弟子たちはイエスのこの言葉の意味は全く分からなかった。

     

    その世界は、イエスがおられる神の世界を見たのではないでしょうか。モーセの歩いた道、エリヤの歩いた道がイエスを目指し、イエスにつながっていたのではないでしょうか。

    神様の世界に復活の命がある。

     

    いのちの喜び、一番の喜びは復活の喜びではないでしょうか。イエスの生きたそのいのちに学びなさい。そのいのちの道を歩みなさい。

     

    人と出会う、自然と出会う。人のために働く、自然のために働く。出会って祈りたいと思います

 
  • 四旬節第1主日B 18-2-18

     わたしたちの社会はノアの時代と同じではないですかと主は問われているように思います。

    第一朗読でノアの箱舟が語られま。神様は水によって地上を洗い清められたのです。悪いものは滅びよ。水で、洪水によって地上のすべてのものは滅びました。人が滅ぼされた。神様は人の生活を見ました。人は神様の命を捨ててしまった、生き生きと生きるいのちの喜びを失ってしまった。殺伐とした欲望の世界になっていたのです。自分の思いしか見ない。自分の欲求しか考えない。 山の上で「どでかい舟」を造っている。えっ、何をしているのか。人のために働く場を作るという。一緒に働いて、一緒に喜ぶという。何て馬鹿なことをしているのか。笑いながら、酒を飲もう。

    箱舟は教会ではないですか。隣人のために働く教会です、そんなことを考えたいのです。

     

    神様は水で地上に生きるものをすべて滅ぼされた。水は人命を滅ぼすためのものではない天からの水、地から湧き出る水は人の命、植物、動物の命を支えるものではないですか。

     

    箱舟の人たちに主は言われます。あなたたち、あなたたちの子孫に契約を与えよう。契約は神様とわたしたちとの約束です。神様とわたしたちの特別なつながりです。

    その契約は生きなさいということではないでしょうか。わたしはあなたがた一人一人を見つめています。一人一人、心に留めています。わたしはいのち命を注ぎ生まれるのです。これが愛です。あなたたちはわたしの愛のうちに、自然の力によって生きます。人の支えによって生きます。

    主は言われる。この契約のしるしは虹、雲の中に虹を置きます。虹を英語でrainbowです。rainは雨。bowは弓です。弓は矢で生きる物を刺し貫きます。神様は矢で地上に命の雨を降らせます。雨は命の水。生きる者となりなさい。一緒に生きる。愛のうちに生きる。

     

    神様の契約は生きなさいということです。あなたたち一人一人に命の力を注ぎます。愛のうちに生きなさい。 水によって生きる者となる。あぁ、これこそ洗礼ではないかと思います。

     

    神様はこの世にイエスを送られました。霊はイエスを荒れ野に送り出したと書かれています。社会は荒れ野です。荒れ野、生きる物のない世界。水もない、食べるものもない。イエスは神の力を内に秘めています。本当の人となりなさい。人であるイエスは人の弱さを知らない、人の小ささを知らない。苦しみ、悲しみを体験していない。空腹である、渇くことを体で知る。祈らざるを得ないことを、逃げられない苦しみ、避けられない悲しみを知るのです。心で思うことを体が表現する、社会で体が相手と交わる。人の心と体が一つであることをもう一度考えなさい。

     

    荒れ野の世界、サタンがイエスを誘惑します。誘惑:待つことはない、出来るんだからさっさとやればいいじゃないか。忍耐することはない。欲しい物はすぐに手に入れる。それだけ力があるのだから。悲しい事を聞いたのか。それは他人の事じゃないか。あなたの問題じゃない。離れればいいさ。迷うことはない。自分の思う通りにすればいい。他人の事など構っていたら何も出来ないよ。

     

    40日間荒れ野にいました。

    ノアの時代、4040夜、雨が天から降り続けました。地上は海になりました。40年モーセは荒れ野の道を歩きました。4040夜、モーゼは断食しました。そして神様から十戒を授かりました。40は苦しみの期間です。 イエスは苦しみ、悲しみを受け取りました。人の弱さを体で感じました。天使たちが仕えていた、イエスは神の国は荒れ野から始まる、苦しみ悲しみを超えたところから始まると思ったのです。

     

    イエスは社会を歩き始めました。預言者ヨハネが捕らえられたと聞きました。

    ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。



  • 灰の水曜日 18-2-14

      キリストの出来事を思って、思って、思い巡らす。この出来事こそ神様からわたしたちに与えられたまことの恵ではないでしょうか。「いのち」をかけた「いのち」の恵です。恵を受け取ります。

    神様の恵を受け取ったわたしたちが恵みのうちに生きる。キリストが示された道を歩みます。歩み始めます。その日が救いの日の始まりです。

     

    今日は灰の水曜日です。回心のしるしとして灰を受けます。

    回心:心を改める。自分の犯した悪い事を心から悔い改める。自分を本当に小さなものと知る。弱い者と知る。神様の求める正義を求めていなかった。正義のために働かなかった。

    灰の水曜日の回心は心を改める以上にあなたの心を引き裂きなさい、自分の心を明確にしなさいと求められているように思います。明確にはっきりすると角が立つ。優しい決断をしたい。優しいとは曖昧だということではないですか。自分独断の意見を持つことが難しいと考えてしまうのではないですか。回心にいつも曖昧さを残しているのではないですか。

     

    「あなたは塵であり、塵に戻って行く。」「悔い改めて福音を信じなさい。」灰を頭にかぶります。

    信じるとは、信仰とは決断です。神様のうちに戻る、その心のうちに歩くのです。自然と出会う、人と出会うのです。

    今日は回心の日。心を引き裂きます。

     

    年間第6主日B  18-2-11

      重い皮膚病を患っている人がいました その人と一緒にいたくありません。その人の顔も見られません。重い皮膚病、あまりにもひどい病気ではないですか。皆はその病気を嫌いました。神様なぜこんな苦しい病気を人に与えるのですか。 出会った人たちは言いました。あの人の心はその体の醜さほど汚れている。あれは神様から嫌われているしるしではないか。

    重い皮膚病について、律法に記されています。汚れているから、離れて住まわなければならない。家族から取り上げられているのです。父さん、母さんと一緒に住むことが出来ない。兄さん、姉さん、弟、妹と一緒に生活できないのです。律法、レビ記(1345〜)にこのように書かれています。重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を引き裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。」と呼ばわらなければならない。町に出る時は、汚れを表現する服装、姿で大声で呼ばわりながら歩くのです。町の皆はその声を聞いたら、重い皮膚病の人と出会わない様に、さっと道を開けます。

     

    イエスがその町に来られました。それを聞いた重い皮膚病の人は叫びながら、町に入り、イエスの前にたどり着きます。イエスの前に来ました。イエスの前にひざまづいて願います。「わたしを憐れんでください。あなたのみ心によって、わたしを清くしてくださいますか。」イエスはその人の前に立っています。その人を見ます。イエスは憐みに満たされます。憐れみが深くイエスをとらえました。心と体が、はらわたが動きました。イエスは手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」と言われると、たちまち皮膚病は去り、その人は清くなりました。 イエスは言われます。「これは神様のみ心です。神様はあなたにみ心を注がれました。神様があなたを包まれたのです。神様はあなたを見つめています。それを忘れてはいけない。神様のうちに生きなさい。誰にも話さないで司祭に体を見せ、清めの儀式を献げ、人々に証明しなさい。」

     

    人々はこの出来事を見ていました。この出来事が言い広められました。語られた噂は、イエスは病を癒される。悪霊を追い出される。重い皮膚病を癒された。そんなすごい力を持っておられる。

    信仰は神様とのつながりです。噂は神様と出会う苦しみ、喜びをもたらさない。

     

    苦しみについて考えます。神様、なぜこんな苦しみを与えられるのですか。オリンピックのうちに、パラリンピックがあります。体の不自由な人たちが競技を行います。足が動かない。手が動かない。走れない、泳げない。しかし、足を動かす道具を作りました。手を動かす道具を作りました。足を動いた。手がうごいた。走れる、泳げる。体の不自由な人が集まり、競技が出来るのです。世界にそれを示すのです。苦しみが多かった。それだけ喜びが膨らむのではないでしょうか。体の不自由な人は率先してパラリンピックを見ると思います。自分も立てる。自分も走れる。泳げるのです。

     

    ハンセン氏病の人たちについて、ある思い出があります。

    ある教会に赴任していた時、近くにハンセン氏病の施設がありました。国の施設です。その中にお聖堂があります。そこで月に一度、ミサをささげます。その施設でハンセン氏病にかかっている人たちと身近に接することが出来たのですが、ある時、その施設から電話がありました。そこに住むご夫婦の息子さんが亡くなったという知らせです。その息子の家には両親がそこにいるとは言っていない。孫たちはおじいちゃん、おばあちゃんがハンセン氏病だとは知らない。息子さんは会社で仕事の出来る人だったようです。事故で亡くなった。 葬儀を教会でしました。お父さん、お母さんは息子の顔を見ることもできない。式にも出席できない。別れも言えない。 葬儀の時間に祈ります。夫婦で一緒に祈ります。葬儀が終わったら、その様子を知らせてください。涙ながらに、話されました。苦しい。苦しみの中で神様を一心に思う。 

    苦しみの中で生み出す。得たい事のために苦しみを超えて力を尽くしたいと思います。

    重い皮膚病の人は神様の恵を、心に深く刻みました。日常、わたしたちも不満、不平がある時はそれを見つめて苦しむ。それを越える力を得たらいいと思います。

  
  • 年間第5主日B  18-2-4

      第一朗読ヨブ記を読みました。ヨブと言う名は、憎まれた者、敵を持つ者、また、悔い改めた者、愛された者という意味があるそうです。はっきりとした意味は判然としないと書かれていました。

    しかし、この名前の意味全部がヨブを現しているように思います。 

    ヨブに苦難が来ました。持っているもの全部が奪われた。体全部に腫物、できものが出来た。お前は神様から「憎まれた者」ではないか。神様の「敵となった者」ではないか。 

    ヨブは友人に答える。わたしは正しい生活を送っているのに、この苦しみは何だ。なぜ、こんなに苦しまなければならないのか。生きることは不当な試練だ。生活は兵役にあるようなもの。雇人、奴隷のようなものだ。報酬を貰いながら、日の暮れるのを待ち焦がれながら過ごす。わたしの人生は望みのないまま過ぎ去る。苦労ばかりしかない。わたしの命は風に過ぎない。さあーっと起こり、さあーっと過ぎて行く。過ぎ去って行くものに幸いはない。わたしには幸いはない。 しかし、ヨブは苦しみに疲れ果て、議論に疲れ果てているとき神様の声を聞いたのです。

    お前がどんなに苦しんでいても、わたしはお前と共にいる。

     

    生きるという事は神様と一緒にいることではないですか。生きるということは、欲求によって、欲望によって命が喜ぶことではない。神様からの命を喜ぶことではないですか。どんな状態であっても、苦しい、悲しい時でも、生きていることを喜ぶのです。生きているということは愛されている事なのです。

     

    安息日、イエスは会堂を出てシモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめ熱を出して寝ていたのです。イエスはそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、起き上がった。 シモンのしゅうとめはその時、イエスに出会ったのです。イエスは手を取る。イエスは言う。「起き上がりなさい。」イエスのみことばがしゅうとめを包み、しゅうとめの心に突き刺さった。 熱が去った。体に緩やかさが戻った。力が湧いてきた。しゅうとめは喜んで、嬉しくて言う。食事を用意しましょう。会食が始まった。しゅうとめは喜んだ。皆も喜んだ。 

     

    夕方になって、安息日が終わると、人々は病人や悪霊に取りつかれている者を皆、イエスのもとに連れて来た。戸口がいっぱいになった。イエスは大勢の人を癒された。

     

    人々はイエスに救いを感じた。イエスが病を癒される。見える喜びが与えられる。体が不自由な人は社会で皆と一緒に働くことが出来なかった。のけ者にされていた。今、皆と一緒にいることが出来る、一緒に語ることが出来る、一緒に喜びを味わうことが出来る。そればかりか、イエスは悪霊を追い出される。体が麻痺している人、また、癲癇の人が癒される。

    イエスは驚きの力を持った方。イエスがここにずっといてほしい。

     

    翌朝、まだ暗いうちに、イエスは人里離れたところで祈っておられた。シモンと仲間たちがイエスを捜し当て、言う。「皆が捜しています。」イエスは言う。「わたしはほかの町や村に行こう。わたしは宣教するために来たのである。」

     


  • 年間第4主日B  18-1-28

      安息日、人々は会堂に集まります。会堂教会で神様のみことばを聞きます。今の自分を見ます。静かに自分の心を見つめます。この世に生きていて、この世を超える神様のみ心に心を向けるのです。この世の力に流されていないか。今、いろいろはやりの流行を静かに見たらいいと思います。静かな時を味わう。ちょっと違う世界を持ったら面白いと思います。自分の時間に童話を読んだら面白い、童謡・唱歌を聞いたり、心を解放したらいいと思います。

     

    イエスは集まった人たちに話されます。神様を聖書の中に、律法の中に見つけるのですか、祈りの中に見つけるのですか。生きておられる神様に出会いなさい。神様は今も生きて、働いておられます。人は神様の愛によって生まれます。愛によって育って行きます。愛はつながりです。つながりは頭の中にあるのではありません。

    例えば、神様はわたしたちに呼びかけて言われます。お前の顔は汚れている。石鹸を使ってでも洗いなさい。顔は心の顔かも知れません。そんな身近な出来事に声をかけられるのです。

     

    熱心に会堂に通う人々は神様の心は律法に書かれていると思っていました。人々の思う律法は

    祭司たちの話す教えです、律法学者の話す教えです。ファリサイ派の人たちの律法を厳しく守って行こうという姿です。祭司は聖書を引用して教えるように話します。そして言います。律法の道をまっすぐ歩きなさい。人々の心には律法の教えが厳しく入っている。そして思うのです、律法を外す者は神から離れている。

     

    安息日、人々は会堂でイエスの話を聞いた。イエスの語る言葉に驚いた。聖書の解釈ではない、律法の解釈ではないのです。イエスは神様の心を語るのです。神様の喜び、神様の悲しみ、苦しみを語ります。貧しい人々への、苦しんでいる人々への励ましを語ります。愛を語ります。

    愛するという事はその人のために働くことではないか。その人のために一生懸命祈る、心を込めて祈る。隣人であるその人に同情するのではない。不自由で苦しいでしょうね、なんてことではない。心を込めて同情するのです。でも足りない。それはその人のために働こうとしていないのです。

    憐れに思うことをヘブライ語ではらわた(内臓)が引き裂かれると言うそうです。

    憐れに思う=スプランクニゾーマイ。スプランクノンがはらわた。ゾーマイが動く、という意味です。その人の姿を見て体が動いてくる。はらわたが裂かれる程、体がその人に向かって動くのです。

    愛は体が動くのです。

     

    人は神様の愛につながっているから生きている。神様は今生きておられるから、イエスは難しい話はなさらないのです。

     

    会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいた。汚れた霊が男の口を通して叫ぶ。「ナザレのイエスかまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」 かまわないでくれ=俺とかかわりを持たないでくれ。俺に話しかけないでくれ。わたしの顔を見ないでくれ。あなたは聖なる者。あなたは聖なる権威によってわたしたちを滅ぼされる。

    権威とは清い言葉が行いによって結ばれることです。清さが行いになる。憐れみ、慈しみの心が相手に行いをもたらす。その姿が権威です。(ローマ131〜)

     

    イエスは悪霊に言われる。「黙れ。この人から出て行け。」 悪霊はその人から出て行った。

     

    イエスの愛が律法を超え、律法を全うするのです。

    イエスのみ心がわたしたちの前に見えるものとなった。神の国の始まりではないでしょうか。

  • 年間第3主日B  18-1-21

      千葉に来て、木更津に住み、自然がきれいだと、ますます、思っています。しかし、移動する時は車です。車に乗っていると、車を運転していると、目はナビゲーターと道路をじっと見つめています。周りは見ません。周りは見えません。歩いたらいいですね。(便利を求めているのですね。)

    館山の海岸沿いの道を走ると、それはそれはきれいな海岸景色です。車を止めて海を見ます。車を停めて空を見ます。海と空を見ます。遠くに山々が見えます。富士山が見えます。

     

    わたしは東京育ちです。東京は住宅の町です。町を歩く、窮屈に立っている建物ばかりです。東京は人の考えの詰まった町だと思います。

     

    イエスは言われます。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。わたしについてきなさい。

     

    わたしは33歳で洗礼を受けました。人は考え、働いて生活する。それしか思いはなかった。お金があれば何でもできる、本当にそう思っていました。楽が出来る、楽しみを買える。時間を楽しむ。ゆっくり出来る。人を使える。人も買える。それまでの生活はお金で物が動いていると思っていたのです。設計事務所にいたのですが、所長さんは土下座してお金が入るならいくらでも土下座するよと言います。

     

    若い頃、ある出来事が起こりました。貧乏旅行の外国で持ち物をすべて取られてしまったのです。生きるか死ぬか分からない、誰も知り合いがいない、人に助けてくれと言えない時、祈りました。神様、助けてください。あなたを信じます。

    そんなことを思いながら、「時は満ちた」、その言葉を聞きました。それを「時は今」ですよと読んだのです。  悔い改めて福音を信じなさい。 あなたは歩いている。あなたは前しか見ていない。まわりを見ないのですかと問われていると思ったのです。歩いているその前にはあなたの自我しかありません。あなたの欲求しかありません。 悔い改める。自分の思いを捨てなさい。福音を信じる。福音とは、神様があなたを包んでいますと読んだのです。自分の命は、自分が造ったものではない、神様からのもの。それを素直に信じなさい。

     

    「わたしについて来なさい。」嬉しい言葉でした。教会に行きました。神父さんに言います。お金のない世界に行きたい。トラピストの修道士になりたい。神父さんは言います。今必要なのは教区の神父さんだ。神様の言葉を聞いて、人と一緒に歩く神父さんだ。お金が作る幸せ、以上に仲間と一緒に喜ぶ大きな喜びがある。 洗礼を受けました。

    幸せって何かを考えました。幸せは喜びです。心から沸き上がる喜びです。その喜びを見てほかの人たちも喜んでくれる喜びではないかと思うのです。その喜びに入って行きたいなと思う喜びです。静かに長く続く喜びです。

     

    イエス様、その魚をどのように取るのですか。わたしと一緒に歩きましょう。その魚が見える。

    神の国は近づいています。神の国が見えますか。悔い改めた時、自分を捨てた時、隣人が見えた時、神の国が見えます。

     

    イエスがわたしたちを呼んでおられます。わたしについてきなさい。一緒に歩きましょう。

    
  • 年間第2主日B  18-1-14

     昔、一人で外国に旅をしていた時、インドだと思いますが、養護施設を訪問したことがあります。たくさんの子供たちがいました。わたしを見ると、皆が一斉に駆け足で寄ってくるのです。声を出す。手を伸ばしてくる。足にしがみついて来る者もいました。その子を抱き上げました。離したくない思いでしがみついて来る。安心がほしい。抱いてくれる人がほしい。体に温みを与えてくれる人がほしい。インドの幼い子供が遠慮しないで心を現しているのだと思いました。しかし、後で言われました。その子に、何か長期にわたって援助する気がないのなら、抱き上げるようなことはしてはいけない。優しさは消してはいけない。  求めて来る力を静かに受けとめる。教会も長く静かにその人と、その施設、その団体と付き合って行くのだと思いました。

     

    ある教会で神父さんは考えました。教会学校で皆が外に出て何かしたい。その地域にお年寄りの施設があると聞きました。神父さんは思いました。クリスマスにその施設に行って子供たちが歌を披露できればいい。歌って、おじちゃん、おばあちゃんにお菓子を配ったらいい。おじいちゃん、おばあちゃんと少しでも話が出来ればいい。神父さんは考えているうちに面白くなって来ました。早速、施設に電話しました。ある施設は、養護の人たちが少なくて準備が出来ない。その様な応対もありました。ある施設の先生は言いました。今年その様な嬉しい集まりを行ってくれると言うのはとても楽しみです。でも来年来てくれると言う約束をしてくれないのなら、毎年、来てくれないなら、今年はない方がいい。おじいちゃんたちおばあちゃんたちは本当に楽しみに待っているのです。実は以前、そのようなことがあったのです。おじいちゃんおばあちゃんたちは本当に悲しがっていました。残念ながら、その計画はだめになってしまいました。出会いは心のつながりになる大切な出来事だと思うのです。

     

    わたしたちはイエスに従って歩きます。イエスは一緒に歩いているわたしたちに聞きます。「何を求めているのですか。」わたしたちは洗礼を受けて教会につながっています。イエスと一緒に歩いていると思っています。」イエスはもう一度自分を見つめなさいと言われるのです。

    イエスを受け止めたい。わたしたちは、イエスのみ心、み言葉、イエスの愛、いのち、それらをすべて包むイエスの体を頂いています。イエスを食べているのです。

    イエスは、今、ここでわたしたちに聞いているのです。

    あなたはわたしの道を歩いていますか。真剣にわたしを求めていますか。

     

    わたしたちはイエスに従って歩きます。イエス様、あなたの姿に十分入ることが出来ません。心でイエスを思い浮かべます。祈っています。清い心、善い事を行おうと思っています。しかし、自分を捨てる事が出来ません。本当に貧しいものになれないのです。  

     

    イエスは言います。「来なさい。そうすれば分かる。」

     

    人里離れたところでイエスと共に過ごす。社会を離れて自分を見る。常識から離れる。人間関係から離れる。飽きるほど祈る。疲れるほど聖書を読む、心で聖書を読むのです。

     

    わたしはイエスと出会った。イエスに触れた。イエスがわたしの中に入って来た。

    岩の上に生きる者となった。教会は岩の上に立っている。ペトロが岩。ペトロ、あなたは自分の力で教会を指導しようと思ってはならない。教会は天の父の思い、聖霊が働く、キリストの体です。(マタイ1613〜)

     

    今日わたしたちは教会について考えなさいと勧められているように思います。わたしたちが教会の煉瓦である。キリストの体を造って行く部分です。教会の力、神様の力をわたしたちが隣人に現してゆくのだと思います。


    
  • 主の公現 18-1-7

      今日わたしたちは主の公現を祝います。 

    「主の公現」はわたしたち皆の前に、神様が現れましたということを語ります。

    @東方からの博士たちに自己の姿を現された事。

    Aイエスが、キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を授けられた事。

    Bカナで最初の奇跡を行い、ご自身を現された事。

     

    わたしたちは信仰のうちに神様と出会っていると思っています。あなたの信仰のうちにいる神様は今どこにいますかとちょっと考えたいのです。

    祈りのうちに神様と出会っています。霊的な本を読み、神学書を読んでいます。日曜日にはミサに出ています。黙想会に行きます。毎日、喜びを感じています。平安を感じています。

    この信仰はご公現の神様と出会っていないのです。ご公現の示す信仰に届いていないのです。

    @の東方からの博士にご自身を現された神様を求めることはイスラエルにとどまってはいけない宗教の枠にとどまってはいけない、生きる事の原点に返りなさい、そんなことを言っているように思うのです。

    AB、神様はわたしたちを導く方です。そして、わたしたちは支え合って一緒に生きます。一緒に歩きます。わたしは個人です、と同時に社会を作っています。人々の中にいます。わたしは個人であって、人々の中にいます。個人であって、社会を作りなさいと言っていると思うのです。神様は神様です、しかし、人の思いのうちにいます。人と一緒に歩きます。人の苦しみを背負います。人の悲しみを味わいます。

     

    出エジプト記のこんな記事をを読みました。神様はモーセに言われます。

    「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

    「わたしを遣わす神様の名は一体何かと問われます。何と答えるべきでしょうか。」

    「〈わたしはある〉という者だ。」そんな難しいな名前は困ります。神様は続けて言われます。

    「わたしはあなた方の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

    わたしは存在は何かとか、愛とは何かを問う神ではない。よい生活を送るよう導く神である。祈って祈って、祈って外に出なさい。外に出なければ、公現の神様と出会えない。勉強しても、深く黙想しても公現の神様と出会えない。勉強しなさい、黙想しなさい、そして外に出なさい。自然を出会う、人と出会いなさい。

     

    神様はモーセを通してわたしたちに十戒を与えられました。その始めに言われます。

    「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

    歩きなさい。祈りなさい、行いなさい。自然の中で、人々の中で生きるのです。神様からの命を自由に生きなさい。人は人の奴隷となってはいけない、人を奴隷としてはいけないのです。

     

    主の公現は、主が今、あなたに声をかけておられますと言うことではないでしょうか。

    神様が見えますか、。神様の声が聞こえますか、と聞かれたら、見えます、聞こえますと答えたいと思います。 心の目で見えます。心の耳で聞こえます。

    神様はわたしたちを見ておられる。すべての人とつながっておられる。まことの神様は想像しながら、いる神様ではありません。あなたの前におられる。あなたの横におられる。あなたと一緒におられる。あなたと一緒にいると同時に、貧しくて、苦しんでいる者の中にわたしはいます。助けを求めている者の中にわたしはいます。

     


  • 神の母聖マリア 2018-1-1

      明けましておめでとうございます。嬉しい、喜びの挨拶は嬉しいですね。

    新しい年の初めはわたしたちは神の母マリアを思い巡らし、マリア様の姿を感謝します。

    そして、今日は世界平和の日、マリア様を思いながら、平和について考えたいと思います。

     

    神様はイエスをわたしたちのこの世に送ろうとお考えになりました。神のみ心を語る。預言者が語るのではない。神の命に生きる、聖霊のうちに生きる子によって人々に語るのです。心の思いのうちに語る。生きるとは何ですか。命とは何ですか。平安とは何ですか。まず神とは何かを、言葉以上に、光をその人に注ぐのです。

    神様は父にヨセフ、母にマリアを選ばれました。天使ガブリエルはヨセフ、マリアに言います。人々はイエスによってまことの平和を知ることになる。イエスのうちに平和がある。

     

    マリアは神様のみ心をそのまま受け取りました。マリアは今、生活しているこの世のすべてを捨てて、神様の道を歩むのです。気軽に神様の道を歩むなどと思ってはいけません。神様の道は細い、厳しい、重荷を背負って歩む道なのです。マリア様は今までの楽しかった生活を捨てたのです。

    そして、イエスを得た。イエスは何か。平和だと言われる。

    暗闇が続いている人の世界に光が与えられる。イエスは光。すべてのものに命を与える光です。人はみな生きる光を持っています。喜びの光を持っている。それが消えそうになっている。消えかかっている。イエスは人々の中にある喜びを喜ぶ光をもう一度つけるのです。

     

    イエスは暗闇を照らす命の光です。そしてイエスに出会う人、その人の心に光をつけるのです。

    イエスは言われます。これが平和です。

     

    マリアに光が注がれた。マリア、誰でも出会う人を受け入れなさい。出会う人とつながりなさい。マリアは自分は何も出来ないと思っている。マリア、何も語ることはありません。

    マリアは出会ったその人の話を聞きました。不平、不満、愚痴を聞きます。つまらないことでも聞きます。嫌なことも聞きます。悪口聞きます。その人の目を見つめながら聞いていたのだと思います。もちろん嬉しい出来事の話を、喜んで聞きます。(つまらないこと、嫌なこと、悪口をきれいな目で見つめられ、熱心聞かれると話したくなくなってしまうのだと思います。)

     

    たくさんの話を聞きます。聞き過ぎたと思う時、祈ります。祈って静かな心になります。出会った人を思い浮かべます。その人の出来事を聞いた。その出来事が見えてくる。祈りのうちに見えてくるのです。静かに、歩いている道を思い浮かべるのです。

     

    出会う人とつながる。それが平和の一歩ではないですか。

    自分が神様の道具と知る。自分が神様の手助けとなる。神様のために働く。自分の力は神様のもの。自分の存在は神様のもの。自分の存在は自然の物。自分の存在は人々の物。

     

    平和とは人とつながることではないでしょうか。人のために働くことではないでしょうか。

    人のために与える者になるのではないでしょうか。

     

    マリア様は自分の生活を通して、自分の命を通して神様のために働いたのではないでしょうか。

    マリア様に連れられて、イエス様のもとに行きたいと思います。


  • 聖家族 B  17-12-31

      父さんヨセフ、母さんマリアそして御子イエス、この家族を聖家族と言います。御子イエスは父ヨセフと母マリアのもとに生まれました。神様がイエスの父にヨセフ、母にマリアを選ばれたのですふと、わたしたちの事を考えて見ました。実に、子は皆お父さん、お母さんを選べないのです。子である息子、娘は神様の命が授けられこの世に生まれてきます。子は神様から愛されてこの世に生まれる。両親は子のお母さんお父さんに選ばれるのです。子が与えられる。子は神様からの預かりものです。お父さん、お母さんは小さいヨセフ、小さいマリアではないでしょうか。

     

    マリア、この子イエスを神様のみ心を思い育てなさい。

    わたしには経験がありません。わたしは何も出来ません。

    神様があなたを愛しているように、イエスを愛しなさい。

    あなたが神様を愛しているようにこの子イエスを愛しなさい。

     

    ヨセフ、マリアは正しい人でした。神様を大切にします。よく働きます。よく祈ります。仲間を大切にします。笑顔が絶えない人でした。律法を大切にし、律法を守る人でした。

    わたしに子が生まれる。まだ結婚もしていない。これは律法に反します。

    天使ガブリエルは言います。律法とは、神様のみ心が律法なのですよ。神様がマリア、あなたを見つめています。神様の愛のうちに生きなさい。愛のうちにイエスを育てなさい。

    ヨセフは正しい人、律法をよく守る人でした。ヨセフは言います。許嫁のマリアは結婚もしていないのに子を身ごもったと聞いた。神様のみ言葉のうちに身ごもったという。マリアはマリアの信仰のうちに生きればいい。わたしは律法の道を歩む。

    天使ガブリエルはヨセフに言います。おとめマリアを妻として迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである。神様のみ心、本当の律法のうちに生きなさい。

     

    ヨセフ、マリアは文字による律法を超えて生きる道を歩んだのです。

    小さいお父さん、お母さんが社会の常識を超えて、神様のみ心を示して行けたらいいのです。

    社会は法律によってなっているのですか。法律によって規制されています。しかし、神様のみ心によって生きる、命の喜びのうちに生きるのではないでしょうか。

     

    家庭を訪問する機会があります。家族みんな揃っていると和やかさが生まれる。家族の中では不自然な遠慮をしなくていい。一番気楽にいられる。裸の心でいられる。それが和やかさではないでしょうか。家族が一緒にいられないようになっている。一緒に食事をする。一緒に喜ぶ。

     

    ヨセフは本当のお父さんではない、イエスと血のつながりがないと言う。法的につながっていないと言う。肉のつながり、血のつながりがなければ本当に愛することが出来ないのかと問うのです。お父さん、お母さん、二人に血のつながりはありません。夫婦に本当の愛があってほしい。本当の愛でつながっていてほしい。ヨセフは本当の父親です。イエスを温かく包んだ。生きる人の姿を示した。働く姿を示した。一緒に祈った。

     

    イエスが言われます。わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。誰でもわたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である。信仰は心のつながりではないでしょうか。いや、それ以上に命のつながりです。(マタイ1246-

     

    聖家族、わたしたちも倣(なら)うことがあるのではないかと思います。


  • 主の降誕(日中のミサ) 17-12-25

      ヨハネの福音書を読みました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」 

    この文章は何か、ここを読んだ時、訳が分からなかった。ずっと経ってから、ある講座を聞いた時、その先生はこう話されたのです。声の言葉、文字の言葉は道具である。その言葉は脳の大本から来るのではないのか。脳が考えて言葉を話す。あぁ、そうかと思ったのです。

    そんな思いで考えてみました。だから、「言」は耳で聞いたり、文字で表されたりする言葉ではありません。わたしたちの知っている言葉、声は話している人の表現です。文字は書いている人の心の思いです。 万物は言によって成った。「言」が見えるもの、見えないものすべてを造った。宇宙が言葉によって造られたのです。見えるものー動物も、植物も、ついには人も言葉によって造られたのです。ちょっと待ってほしい。では、聞こえる言葉、文字による言葉の大本は何ですか。言は神と共にあった。いや、ちょっと違う。神と共にあったのです。言は神様の手の中にあるのではないでしょうか。すべてが神様のみ心の中にある。神様が言を持っておられる。

     

    神様が最後に人を造られました。人に命を与えられました。言を持っておられる神様がご自分に似せて人を造られたのです。

     

    神様は暗闇にある人の世にご自分の子を送られました。子に言を与えられました。子のうちに言があります。暗闇に光を与えられたのです。人となった言は光ー命、愛です。

    その方は神様の姿です。その方が神様を示しているのです。

    その方の名は何ですか。イエスです。イエス:「主は救い」。その方に救いがある。その方の中に入れば救いが見える。救いが自分の心と体に入って来る。消えない安心、平安が心と体に入るのです。

     

    その方は神様の姿と言われる。でも、その方は人として生まれた。人ではないですか。

    そうです。 イエスは人です。

    その方が神様の姿を示される。その方の中に神様が住んでおられるのですか。

    いえ、イエスは神様です。神様が人となって神様の思いを語っておられるのです。神様の業を行っているのです。

    イエスは何なのですか。 イエスはまことの神であり、まことの人です。

     

    まことの神、まことの人。何でも出来る神様が、何も出来ない人となられた。説明してください。

        −ここで話をする。−

     

    今日、神様の子がお生まれになりました。


  • 主の降誕(夜半のミサ) 17-12-25

      クリスマスおめでとうございます。神様の赤ちゃんが生まれました。今日はイエス様の誕生日です。イエス様が生まれました。ユダヤのベツレヘムという田舎の町です。星が満天の夜、家畜小屋で生まれたのです。父さんヨセフ、母さんマリアは飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスを見守っています。この喜び、神様がお生まれになった喜びは、今も、世界中の人がお祝いします。

     

    ある人が言います。

    「ちょっと聞きたいのですが、イエスは神様ですか。」

    「そうです。イエスは神様です。」

    「でも、イエスは人間じゃないのですか。」

    「そうです。イエスは人間です。」

    「どっちなんですか。」

    きっとイエスは笑いながら言うと思います。

    「わたしはまことの神です。そしてまことの人間です。」

     

    神様が人になる、神様っているのかな。

    ある人が言いました。赤ちゃんの瞳をじっと見つめたら、もうかなわない。神様なんかいないなんて言えない。

     

    神様がわたしたちのところへ「赤ちゃん」として来られた。何でも出来る神様が何も出来ない人間の赤ちゃんとなって生まれた。人が支えなければ赤ちゃんは生きて行けない。着るもの、寝るところ、食べ物を与えなければ生きて行けない。赤ちゃんは、昔は特に、病気で命を失うことが多かったようです。赤ちゃんを守りたい。誰が守るのですか。お母さんにマリアが選ばれました。

     

    赤ちゃんと比べたらわたしたちは今自分で生活できる。赤ちゃんー自分で生活できない人の事をを考えたいのです。誰が守るのですか。目の前にいるわたしたちではないですか。

    神様がわたしたちにやってほしい事、それは助けを求めている人を支えることではないでしょうか。

     

    神様は言われます。与える者になりなさい。生きることを一緒に喜びなさい。

     

    ある大きな教会に大きな鐘がありました。この鐘は神様が喜ぶ大きな献げものをすると大きな鐘が鳴ると言うのです。何年もなっていないのです。クリスマス、大勢の人が集まります。皆自慢の献げものをします。それぞれが奉納します。大金持ちはダイヤモンドで飾った十字架を奉納します。皆の目がその奉納物に集まります。一瞬みんな静まります。鐘はならない。クリスマスのミサが始まります。教会は献げ物でいっぱいです。神父さんはつぶやきます。献げものは物ではない。心を献げてほしい。 ミサが始まります。入祭の歌が始まります。ふと、神父さんは止めました。急に遅れた入って来た兄弟を見たのです。その兄弟は一番後ろで祈ります。「神様、ごめんなさい。教会に来る途中、貧しい人に出会ったので、お小遣いを皆やってしまいました。捧げものは出来ません。イエスのいうことは何でもしたいと思います。」その直後、教会の鐘が大きく、高らかに鳴り響きました。

     

    今日、赤ちゃんの姿で来られた神様、イエスを祝います。マリア様と共にイエス様に向かって歩いて行きたいと思います。


  • 待降節第4主日B  17-12-24

     社会にいつも心配事、争いごとがあります。恐れ、憎しみ、悪口、病気、借金、煩いが消えることがありません。世界には戦争が絶えません。ひょんな事から、ひょんなかけ違いが大きな戦争になってしまう危険があります。

    いつまでたっても薄暗いこの社会に消えることのない明かりをつけよう。神様は今まで何十人もの預言者を送られました。預言者は神様のみ心を語ります。間違っている人をたしなめます。人々はそれを受け入れませんでした。預言者たちは人に苦しめられ、ある預言者は追放され、殺されました。明かりは消えてしまいます。何千年とそんな時代が続いたのです。

    そしてついに神様はご自分の子を送ろうの決心なさったのです。

    神様の子によって、神様の姿を人は見る、聞く、触れるのです。神の子によって命の尊さ、人の大切さを知ります。神様のみ心を知る、神様の温かさ、おおらかさ、まことの愛、そして、祈りとは何かを知るのです。

     

    大天使ガブリエルが神様から遣わされました。ガリラヤのナザレに住むマリアの家を訪れました。大天使ガブリエルがマリアに言います。

    「おめでとう、恵まれた方。あなたは神様の子を身ごもり、男の子を生みます。」

    「えっ、何ですって。わたしが子を身ごもるのですか。子を生むのですか。わたしはまだ結婚していません。わたしはあなたの言っていることがよく分かりません。」

    「神様はあなたを選ばれました。あなたは聖霊によって包まれ、子を身ごもります。その子を生むのです。あなたはその子のお母さんになるのです。」

    「わたしは何も知りません。わたしは何も出来ません。」

    「神様の力があなたを包みます。あなたは今以上に神様のみ心を求めなさい。その子のために働きなさい。その子に愛を注ぎなさい。」

    「わたしは神様の道具です。神様のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」

     

    あなたの周りにいろいろな出来事が起こります。出来事は皆いろいろな力を持っています。喜ぶ出来事がある、苦しまなければならない出来事がある。自分の周りに起こる出来事をそのまま静かに受け止め、心に納めなさい。その出来事に入って行かなければ、その出来事は自分の出来事になりません。

    この時、羊飼いたちが入ってきました。羊飼いたちの話を静かに聞きます、そして心に納め、思い巡らすのです。

     

    マリアは祈ります。

    わたしは心から神様を喜び、讃えます。

    神様はわたしたち一人一人に心をかけてくださる。

    一人一人に目を留めてくださる。

    力のないわたしにも恵みを注いでくださる。

     

    神様はこの大きな新しい出発にマリア様を選び、荷を背負うようになさいました。

    わたしたちも、ますます心を開き、神様の思いの通り働く事が出来ますように。


  • 待降節第3主日B  17-12-17 

      神様、来てください。待降節、この時、特に自分の心を見つめ直します。そんな思いのうちに、神様の来られる時を待ちます。しかし、今日、第三主日は喜びの主日と言われるようです。

     

    今日の第2朗読・パウロのテサロニケへの手紙を読みました。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

    これが神様のみ心です。霊の火を消してはいけません。主が喜ぶ力を送っています。祈力を送っています。ふと静かな人を思い浮かべました。いつも静かに喜んでいる、感謝している。

    いろいろな出来事がわたしたちを包んでいます。わたしたちを包む出来事に喜びが見えたらいいと思うのです。しかし、苦しい事がある、悲しみが押し寄せてくるようなことがある。その時も、苦しみや、悲しみの出来事に出会って暗い心に陥るのではなく、静かにその苦しみを見つめ、それを飲み込む。苦しみを超える力、苦しみを喜びに変える力、そんな強さがあったらいい。

    祈りを忘れてはいけない。神様、清くしてください。節制のうちに悪を退けることが出来たらいい。

    また、毎日の生活で、もっともっと感謝が出来ればいい。 喜ぶ心がもっとあったらいい、祈る心がもっとあったらいい、神様のみ心の中に、少しずつ入って行ければいいと思うのです。

     

    人々はヨハネに出会った。ヨルダン川のほとりで神様を語っている。光について語っている。ヨルダン川に行く。ヨハネの話を聞きに、遠くても歩いて行きます。

    ファリサイ派の人たちは、律法を知っている人たちはヨハネに会おうとも思わない。

    ヨハネは食べも、飲みもしないと言うじゃないか。あんな生活は、屹度、ヨハネは悪霊にとりつかれているのだ。 人々に、お前たちも、今、荒れ野にいると言う。わたしたちは普通の生活をしているじゃないか。木の茂っている普通の大地にいる。そんなだらしのない生活はしていない。

     

    ヨハネは神様の力を語ります。ヨハネの言葉は今のわたしたちに語っていると思うのです。

    お前たちは何を求めて生活しているのですか。お前たちは生活をごまかしてはいませんか。だらしのない生活をしていない?自分の求め生活をしているのではないですか。神様を思いなさい。神様に正直に生きるのです。今の社会に心の安まる生活をしていますか。穏やかさを楽しんでいますか。ゆったりとした喜びを楽しんでいますか。もしかしたら、楽しみを見つけようと何かを捜して いませんか。それは欲求の楽しみではないですか。

     

    ヨハネは光について語ります。

    光は神様のみ心。神様の命。神様の力です。光によって生きるものとなる。光が暗闇を退ける。神様を見つめなさい。神様への道を歩きなさい。律法に忠実に生きる。厳しさを求めなさい。

     

    ヨハネのもとに祭司やレビ人が会いに来ました。

    「あなたは何ですか。」「あなたの洗礼は何ですか。」

    わたしは神様を語ります。人々を神様からの命の水によって洗い清め、新しい出発の力を与えているのです。

    わたしの後から来られる方がいます。聖霊が天から降ってその方の上にとどまるのを、わたしは見ました。わたしはその方の奴隷にすらなれません。その方は世の罪を取り除く神の子羊です。

    その方は聖霊によって洗礼を授けます。わたしはその方を迎える準備のために水で洗礼を授けているのです。

     

    ヨハネは暗闇にいるわたしたちに希望を与えてくれます。正しい道を歩みなさい。

    しかし、もっと大きな希望があります。喜びの方、祈りの方、感謝の方が来られる。聖霊によって語られる方、聖霊によって業を行われる方が来られる。  

    神様、来てください。あなたの道を歩みます。



  • 待降節第2主日B  17-12-10

      待降節は神様を待つ時です。ストラは紫です。紫は神様のいない、神様が見えない暗闇のしるしです。暗闇は嫌です。暗闇の中には光がありません。温かさがありません。ゆったりとした和やかさがどこかに行ってしまったのです。毎日の生活の中で、周りのお付き合いの中で、静かに時を過ごしながら喜びを味わう、そんな伸びやかさがなくなってきているように思います。まず、自分にその様な所がないなぁと思うのです。さっさと仕事を片付けてしまう、そんな流れの中にいるようです。 

     

    わたしたちは毎日を笑顔で過ごしたいと思います。気兼ねなく人と接したい。そんなに大きなお金はいらないけれど、毎日が楽しく過ごせるような収入があればいい。人並みに生活できればいい。たまにちょっとした贅沢をする。一つぐらい気に入ったアクセサリーがあってもいいと思う。外出するときは少しぐらいおしゃれでもいいじゃないかな。おしゃれな服を着る。日曜日には教会に行く。心の健康にも気を付けなくてはいけない。

     

    こんな幸せのうちにいる人たちを見て、ヨハネは声を高くして言います。悔い改めなさい。あなたは豊かな大地に育っています。あなたの幹はどんな実を結ぶのですか。その実を人に与えたいと思っていますか。隣人の荒れ野の生活を思いなさい。荒れ野で育った木の結んだ実を周りの人たちは食べてもらおうとしていますが、わたしたちはその木を見ようとしない、その実が無駄になってる。

     

    洗礼者ヨハネは荒れ野にいます。厳しい顔つきの預言者だと思います。その姿はエリヤを思い起こさせるのです。エリヤはバールの預言者たちと争って、まことの神様の力を示し、その預言者たちを皆殺してしまいました。バールは、バールに祈る者に恵みを与える神です。祈る者、自分の欲求を満足させるために祈ります。自分の力を求める。自分の平安を求める。自分の豊かさを求めるのです。

    人並みの幸せを求めているあなたたちは自分のうちにいるのではないですか。自分の城を造っているのではないですか。生活しているとは、自然に支えられていることです。人に支えられていることです。悔い改めなさい。あなたは神様から与えられた命のうちにいるのです。

     

    罪とは何ですか。なぜ罪があるのですか。

    皆一緒に生きる喜びを知らないこと、それが罪です。支えられていることを知ろうともしない、それが罪です。罪は仲間がいない。友がいない。仲間が見えない、友が見えない。罪は喜びを知ろうとしないことだと思います。なぜ罪があるのか。自分に安心したいからではないでしょうか。自分のうちに安心したい。

    悔い改めるとは、そんな自分に死に、新しく生きることです。ヨハネは罪を知った人たちに洗礼を授けました。わたしたちも洗礼にあずかっています。神様からの水、生きる命を与える水の中に沈み、古い自分が死にます。そして新しい自分が新しい命の生きるのです。

     

    わたしたちは神様の道具です。自然のために働く道具です。人のために働く道具です。生き生きと生きる自然を喜ぶ。生き生きと生きる人と一緒に喜んで生き生きと生きるのです。

     

    ヨハネは言います。後からわたしよりも優れた方が来られる。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

     

    その方が来られる。その方が来られる時、心の灯をともして、皆一緒に喜びの食卓に着きたいと思います。


  • 待降節第一主日B  17-12-3

      今日の第一朗読・イザヤの預言を読みました。

    神様、あなたはわたしたちの主です。いや、それ以上にわたしたちの父です。

    でも、わたしたちは我儘でした。父さんから教えられた道を歩きませんでした。自分の意地を張って、自分の思いを押し通していました。父さんの心を見ようとしませんでした。声を聞こうとしませんでした。わたしたちは父さんから離れて行きました。そして、次から次へと罪を犯し、汚れてしまいました。父さんの名を呼ぶものはいなくなりました。あなたの顔も忘れてしまいました。わたしたちは悪い者です。しかし、あなたはわたしたちの父さん。わたしたちは父さんによって生きていることを知っています。あなたに感謝する心を与えてください。わたしたちは悪いところに行ってしまいました。神様、父さん、わたしたちを贖ってください。

    このイザヤ書を読んだ時、人間はあまりにも我儘が強すぎると思いました。でもこれは本当の事だと思います。わたしたちは罪に汚れています。しかし、わたしたちは正しい道を歩みたい。祈ります。神様、わたしたちはあなたの子です。わたしたちを贖ってください。

     

    イエスは言います。気を付けて目を覚ましていなさい。


  • 王であるキリストA 17-11-26

      洗礼を受けた時、皆さんも神父さんから言われたと思います。洗礼は神様への出発の時。神様の子となる大きな恵みです。神様への道を歩みなさい。生活の中で3つの役割があります。預言職、祭司職、王職です。 今日、王であるキリストを思い巡らします。王職って何だろう。多少ともキリストの道を歩みたいと思いながら、王職を考えたいと思います。

     

    ふと、いちじくの木のたとえを思い出しました。(マタイ2118-22)イエスは空腹を覚えられました。見ると道端にいちじくの木が見えました。葉が茂っている大きな木です。近寄って実を探しました。実はなっていなかった。イエスはその木に向かって言います。「今から後いつまでも、お前には実がならないように。」「今から後いつまでも、お前から実を食べるものがないように」(マルコ1114

     

    大木が育っている。葉が豊かに茂っている。そばに寄ってみると実がない。その木には実が育つようになっている。実を結ぼうとしない。その実は取って食べる人のものです。大いに実を結んでたくさんの人を喜ばせるのです。

    イエスは信仰の実に飢えていました。大きな木が自分だけのために育っている。

     

    大きな立派な教会がありました。クリスマスには教会、聖堂がいっぱいになる。バザーがある。ほかにも行事がある。大勢の人たちが集まる。葉が大いに育っている。イエスは言います。実が育っていない。大勢に人たちの信仰はどこにあるのですか。イエスは教会の一人一人に聞きたいのです。貧しい人に心が開いていますか。老人を助けようと、皆が心を止めていますか。病気の人を見舞う、牢獄を訪問する、教会の一員として、そんな大きな役割を感じていますか。

    教会に大勢集まる。その時屹度、集められた献金が貧しい人のために寄付されます。

    それはあなたがたの教会へ行く動機ですか。

     

    王は知恵があり、力があり、動作が優れていてる、と思っていました。王は人のために世話をするのですよとイエスは言われるのです。大きないちじくの木、人を助けるなんて思ってもいない大きな木。イエスはそんな木はいらないと言います。 立派な教会があります、実は教会には神様がおられるのです。神様は貧しい人、苦しんでいる人、悲しんでいる人をいつも心にかけています。

    人々は教会に集まり、ミサに預かる。祈る。キリストを食べる。神様はその人の中に入って目を開きなさい、求めている人のために働いてほしいと言うのです。その人は見ようともしない。その人の中でイエスは閉じ込められているのです。

     

    あなたは何もしないのですか。

    いやそんなことはありません。神父さん、司教さんが病気と聞けばすぐ、お花を持って行きます。神父さんが声をかけてくれれば、すぐも飛んでゆきます。

    あなたの周りに、求める人がたくさんいる。わたしがその人たちの中にいて求めているのです。

     

    世話をしなさい。飢えたり、渇いたり、裸であったり、牢の中にいる、この最も小さい者の一人にわたしはいるのです。


  • 年間第33主日  17-11-19

      今日も天の国のたとえが語られます。この社会の様々な出来事の中に天の国への道があります。今日の神様の試練は何か考えて行きたいと思います。 

    或る日、主人が僕に自分の財産を預け旅に出かけました。僕の一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けました。このタラントンを使って、思い切り仕事をしておくれ。1タラントンというのは6000デナリオン。1デナリオンは一日分の日当。1日1万円とすると1タラントンは6000万円です。年収300万円とすると20年分の賃金です。僕たちは考えられないような、たくさんのお金を預かったのです。僕たちは働きました。主人が帰る時には、5タラントン預かった僕はほかに5タラントン、2タラントン預かった僕はほかに2タラントン儲けました。主人は喜びました。働いてくれた僕たち、ありがとう。わたしの言葉を忠実に守ってくれた。わたしの思いに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ。 しかし、1タラントン預かった僕は預かった1タラントンを持って来ました。主人は聞きます。どうしたのだ。わたしは預かった1タラントンを出て行って、土に穴を掘り、このお金を隠しておきました。主人は怒りました。お前は怠け者だ。わたしの預けたお金は何も生むことなく、ただ眠っていたのか。その僕は言います。ご主人様。あなたは蒔かない所から刈り取り、篩(ふるい)でかけもしない所からかき集める方だと聞いて、恐ろしくなり、地の中に隠しておいたのです

    お前はわたしの思いを知らない。知ろうともしない。種をこうとしない。かけようとしない。何もしていない。お前はタラントンをほっておいた。このタラントンは死んでいる。この僕を外に放り出せ。そこでお前は泣いて、歯ぎしりするだろう。

     

    主人は神様、この僕はわたしたちではないでしょうか。しかし、わたしたちはこんなに大きなお金を預かっているのですか。タラントンはお金ではありません。生きる神様の力ではないでしょうか。好奇心、熱中する力だと思います。 神様はわたしたちに強く、言われているのだと思います。

    あなたたちの体は可能性があります。お金に代えられないほどの可能性があります。

    だから、心を決めてやってみたらいい。

     この間、テレビの放送で見たのですが、全盲の辻井氏が優秀なピアニスト、天皇、皇后が辻井氏の演奏会に行かれたそうです。片足のない人が人工の足で走る。ジャンプする。体に可能性が与えられた。体が不自由でもできる。腕のない人が泳ぐ。体の不自由な人が熱心に思い求めます。走りたい、泳ぎたい。走れる、泳げる。嬉しいですね。いや、それ以上に走る選手になっている、泳ぐ選手になっている。パラリンピックが始まります。

     

    何気なく付き合いのある人が、ピアノを弾いた。上手だった。あの人は音楽大学を出ていたのよと聞く。そうか、それなら驚くことはないなと思ってしまう。そんな人がいるんだなと思います。教会に油絵を描く人がいると聞きました。日本画を描く人がいるかもしれない。わたしたちはたくさんの力をいただいている。怠けていませんか。ある司教さんは俳句をなさっていると聞きました。

     

    あるお百姓が言いました。豊作だ。穀物を保管する倉庫が足りない。倉庫を建てよう。2つ、3っつ建てよう。神様は言います。その穀物は長い間、倉庫の中で眠ることになる。収穫した穀物は、何のための穀物ですか。あなただけの穀物ですか。神様は言われます。収穫は、豊作は生きるための恵みです。皆に豊かに与えなさい。豊作は皆が豊かに食べる恵みです。 お百姓さん、自分のためでなく隣人のために働いたらいい。力を発揮できている人、隣人を忘れてはいけない。

     

    怠けてはいけない。持っていない人ではなく、試してみようとしないのではないですか。

    心と体を動かしてみる。

    わたしたちに力が与えられています。主人がまだ帰って来ないと思っていませんか。主人はわたしたちに絶えず、呼びかけています。天の国の喜びを見つめなさい。

    もう一度、自分の心と体を見たいと思います。



  • 年間第32主日A         17-11-12

      今日も天の国のたとえが語られます。マタイ福音書で天の国のたとえがたくさん語られますが、いつも、困難な出来事が語られているのです。例えば、毒麦のたとえがあります。畑に毒麦が生えていた。あた、からし種のたとえ、パン種のたとえ、善い真珠のたとえ、網が魚でいっぱいになって引き上げるたとえなどがあります。(マタイ13章) わたしたちは天の国には本当の平安がある。この世を離れ天の国に入ったら本当の平安を味わうことが出来る、そんな様に思っていました。

    しかし、天の国で困難な出来事が話される。天の国にはこの世の苦しさがまだ残っているのですか。そんなことを考えて、どうも納得が行かなかったのです。

    天の国、「国」をギリシャ語で「バシレイア」言うそうです。王の支配する所です。天の国は神様のみ心支配する所なのです困難な出来事に出会い、受けとめて、神様のみ心に導かれ、神様のみ心の場に入ることが出来る、天の国のたとえは天の国への出発が語られているのではないかと思ったのです。

     

    十人のおとめがそれぞれともし火をもって、花婿を迎えに出て行きます。夜です。どのくらい待つか分からない。油の用意が必要です。花婿がずいぶん遅れました。あまりに遅いのでおとめたちは皆、寝ていました。さあ、迎えに行きなさい。しかし、油の用意していなかったおとめたちはともし火に火がつきません。花婿と一緒に婚宴の席につけません。ともし火の消えてしまった者に主人は言われます。  「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」 扉を開けてもらえなかったのです。

     

    天の国、悪い事が全くないところ。だから、神様の厳しい規律を、掟を守ることが出来ない者が入れない所だと思ってしまいます。

    天の国は神様の恵みのあふれるところです。神様に心の扉を開いている人には神様の恵みがどんどん入って来ます。どんどん入って来る恵みで、悪い思いが生まれない。静かな喜びに満たされる。柔らかな温かさが生まれてくる、人とのつながりにすんなりと入って行ける。

     

    十人のおとめたちのうち五人は自分の油を持っていませんでした。この油はもらうことの出来ない油です。この油は自分の力となる、自分を育てる、自分を導く霊の力です。自分を包んでいる力によって歩くのです。自分の中に力がなかった。神様に出会う。喜んで出会う。そこまで行く力がなかったのです。寝て、信仰生活の緊張感がなくなってしまったのでしょうか。

     

    扉をたたく。洗礼を受けたんだぞー!扉を開けてくれー。

    あなたは洗礼から始まる道を歩んできましたか。自分のためではなく、助けたい人のために神様に祈りましたか。自分の喜びの道ではなく、隣人が生きる喜びの道を歩きましたか。

     

    信仰のうちに生きる。歩けば歩くほどイエスの心のうちに入って行きます。貧しさが分かる、隣人が見える。愛の重さが分かるように思います。

     

    その日、皆が神様に呼ばれます。神様の宴に呼ばれるのです。皆、一緒に入ることが出来ますように。宴を大いに楽しむことが出来ますように


  • 年間第31主日A 17-11-5

      祭司たちよ、あなた方はわたしとどのようにつながっているのか。あなた方はわたしと離れてしまっている。あなたはわたしの名のもとにいない。あなたは道を踏み外している。わたしの言葉を語っていない。わたしのもとに戻りなさい。

    わたしはこのマラキの預言を、神様はわたしたち教会にはっきりと言われている、と読んだのです。神様を忘れている、このままの生活を変えずに歩けば、神様は呪いを送ると言われます。呪いとは壊す力です。平安、安心を壊す。友情を壊す。静けさを壊す。他人の幸福を壊す。人を大切にする愛を壊す。造って行く喜びから、壊してゆく喜びに変えて行く

    キリストを知る喜びから、祭司である栄光から呪いの道へと変わって行く。

    わたしたちは神様から造られたものです。神様が父さん母さん。人は神の子。わたしたちすべてが兄弟姉妹ではないですか。なぜ兄弟姉妹が争い合うのですか。

     

    しっかりと、心を込めて神様を見つめなさい。神様の示された道を歩みなさいと、今日、神様からお叱りを受けたのです。

     

    律法学者、ファリサイ派の人たちは力強く神様の律法を語ります。尊い世界を、聖なる世界を語ります。律法学者、ファリサイ派の人たちは、綺麗な、上等な衣服を着て装っています。その言葉は上等な洋服です。天の国が輝きで光っています。その服では、上等すぎるその服では荷物を背負うことは出来ません。草取りは出来ません。言葉は服でなく、体です。体が動いて、初めて言葉になるのです。言葉が生きるのです。言葉があなたの体の中に入り、働くのです。

    会堂で上席に座ろうとしてはいけません。先生と呼ばれてはいけません。知識があるから人の上に立てるのですか。知識によって人を導くのですか。

    父、教師と呼ばれてはいけません。自分のところに来る者と手を取り合いながら、一緒に歩きなさい。神様のみ心が言葉となって耳に入る。その言葉を心で聞くのです。言葉のうちに体が動く。その言葉を行うのです

     

    荷物を背負いなさい。隣人の手助けをしなさい。仕えられる者ではなく、仕える者となりなさい。

    高ぶるのではなく、へりくだる者になりなさい。

     

    聖書を読みます。深く、深く読みます。心の目で読みます。聖書が理屈になってはいけません。

    言葉が心に入って来る。言葉が心に刻まれる。心が体を動かす。あぁ、そうか。この時、イエス様と心がつながっているのではないでしょうか。イエス様の心に入っている。イエス様の心を行います。



  • 年間第30主日A  17-10-29

      わたしたちはよく思います。自分の弱さを克服したい。静かな、重さを持った自分になりたい。強くなりたい。自信を持って歩みたい。今、弱い自分がいる。他人との付き合いで、自然とその相手に気を使ってしまっているのです。強いとは、まず、それなりの生活をしている。物をよく知っている、知識をよく持っている、頭の回転が速い、判断力がある。 強いとは、そういう良い所を持っていて、人の前で堂々と自分を主張できる、そんな重さを持っている。今まで、そのように思っていました。そんな人間になりたいと思っていました。

     

    神様に出会った時、自分を見つめました。そして、神様の思いを知り始め、その時、「強いとは自分の本当は弱い」と知ることだと思ったのです。強い者は、強いと思っているから弱い者の弱い苦しみを見ようとしません。

     

    今日の第一朗読出エジプト記を読みました。

    寄留者、寡婦、孤児はすべて苦しめてはならない。寄留者:よそ者です。その土地に慣れていない。その土地に入り込めないでいる。土地の人とつながっていない。大勢ではないから、寄留者の意見を聞かないことになってしまう。寡婦、孤児もよそ者です。

     

    イスラエル、あなたたちはエジプトの国で寄留者であったことを忘れてはならない。不自由な生活であったことを忘れてはならない。 寡婦、孤児が苦しんでわたしに叫ぶならわたしの怒りは燃え上がりあなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。 

    自分がその当事者とならなければ、その人たちを知ろうとしないのですか。あなたが出会うすべての出来事は神様からのものです。すべての出来事を受け取りなさい。

     

    ファリサイ派の人々がイエスを試すとして問います。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

     

    律法とは法律ではありません。法律はやってはいけないことの規則です。その法律を破れば罰則があります。法律は人の作ったもの、人の住む社会を規則によって安定させ、土台を固めるものです。一方、律法とは神様の思い、神様が人を善いものへと導く憐れみです。ちなみに、律法の書とはモーセ5書と言われる文書です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。法律のように規則がかかれているのではありません。人が生きる姿です。人が生きる、一緒に生きる。人が働く、必要なものを得る。生活に平安を求める。喜びを求める。律法の書は人が神様の恵みのうちに生きている姿が書かれているのです。神様のうちに生きる、それが律法です。

     

    わたしたちは律法とは神様から与えられた法律だと思ってきました。律法を守らなかったらやっぱり、罰が与えられるのでしょうか。 いや、罰は与えられません。

    律法を守らなかったら、その人の悪い行いが相手の人に及ぶ、苦しみとなって及ぶのです。律法を守らない人が多くなれば、社会に大きな悪い出来事がたくさん起こるのです。社会全体が悪い方に向かって行きます。

     

    イエスはファリサイ派の人たちに、律法は神様からの法律ではない、人を縛る法律ではないとはっきり言われたのです。 律法は愛です。神様を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。そのように言われました。 すべてのものは愛によって動くのです。愛はいのちです。すべてのものは愛によって生き生きと生きるのです。 愛によって見る、聞く、愛によって喜ぶのです。

     

    わたしたちは愛を受け取っています。神様からの愛を受け取っています、人の愛を受け取っています。喜びのうちに生きる。愛は人のために働くこと、人のために持っているものを与える続けることです。人を愛する、自然を愛する。人のために損をする、そんなことは出来ません。

    もし、わたしは人を愛することは出来ませんとわたしたちが要ったら、神様は悲しむと思います。

     

    あなたは体が不自由な人を見ていないのではないですか。父さん、母さんと緒に生活できない子供たちを見ていないのではないですか。父さんが亡くなって母さんだけが働いている。学校をやめなければならない、そんな子供たちを見ていないのではないですか。社会を法律で見るのではなく、その人たちの心とつながって行きたいのです。その人たちが喜ぶのが見たい。そんな応援が出来ればいい。

     

    ちょっと聞いてみたいと思います。ファリサイ派の人たち、毎日、生活を楽しく送っていますか。

    律法の前にしかめ面でなく、微笑みを浮かべて生きていますか。

     

    律法は愛の掟です。律法は今生きておられる神様とつながっている神様からの憐れみです。

    神様に感謝する。自然に感謝する。人に感謝する。自然のために働く、人のために働く。

    それが神様のみ心、律法の道です。生きる道、愛の道です。



  • 年間第29主日A  17-10-22

      正しい事を行う。今、神戸製鋼の不正が大きな問題になっています。また、日産自動車が大量リコールを出しました。日本を背負っている大企業が社会に問題を起こしています。 

    ずいぶん前、今から50年ぐらい前ですが、日通事件というのがありました。日通の金庫に金の延べ棒が保管されていたのです。秘密の金庫です。会社の役員が特別報酬としてその金の延べ棒を貰っていたと言う事件です。秘密の収入です。その頃、夜学の勉強会に出ていたのですが、5人ぐらいの同じグループに、その会社に勤めていた青年がいたのです。

    その青年は悩み、悩んでその会社を辞めました。恥ずかしくてその会社にいられない思いだったようです。 後年、いつだったか忘れましたが、急成長を遂げたリクルートという会社に不正が分かり、リクルート事件として大きく新聞に報道されました。その会社にいることが恥ずかしくて、多くの社員がやめて行きました。

     

    悪い事をする会社にはいたくない。正しい事を、正しいと特に言わなくても、わたしたちは普通に生活したいのです。会社が大きな不正をしたら、その会社を辞めなければならないのでしょうか。

    今日の福音、イエスの言葉を聞いてそんなことを思い出したのです。

     

    自分に正直に生きなさい。不正な会社にいる。わたしは不正なことをしていない。今働いている会社が不正をしない、良い会社になればいい。このまま、自分の仕事を大切にしてゆくのです。

     

    わたしたちは信仰生活を送っています。どんな出来事が起こっても、正直に生きることが信仰ですと言われているようです。 まず、自分に正直に生きていますか。例えば、毎日、いろいろな人と出会います。人と出会っても分け隔てをしない心を持ちなさい、その心で人と接すればその人とつながることが出来ます。 上品な人と見すぼらしい人がいる。お金持ちと貧しい人がいる。ついそれなりに対応をしてしまいます。 *自分の心を正直に見るのです。・毎日祈る時間を取っていますか。 ・自分を静かに見つめる時間を持っていますか。 ・助けている施設、人がいますか。 

    キリストを信じている。 ・キリストの何を受け取っているのですか。 ・あなたはキリストの前で生活を送っていますか。 ・キリストのために何が出来ますか。

    少し出来ている。これは出来ない。まだ出来ない。本当の自分を静かに見るのです。それが正直です。

     

    信仰とは・神様につながっていることです。 ・自然とつながっていること。 ・人とつながっていることです。神様につながっている。わたしたちは神様から命を注がれて生きているのです。 

    自然に支えられて生きている。自然のたまものによって生きているのです。

    人に支えられて生きている。人の中にいて人を知る、人と一緒に生きるのです。

     

    イエスは言われます。あなたは律法に自分の命を委ねて生活しているのですか。

    それとも今も生きておられる神様に命を委ねているのですか。

     

    「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

    あなたは皇帝のものですか。皇帝とはこの社会の事だと思います。

    神様のものですか。

     

    わたしたちは皇帝の世界から出発して神様のもとへ向かって歩いて行くのではないでしょうか。



  • 年間第28主日A  17-10-15

      イエスは今日も、天の国のたとえが語られます。天の国で示される喜びをわたしたちがまことの喜びとして受け取ることが出来ればよいと思うのです。この世のいろいろな出来事から解放された時、思うように仕事が出来ない、人との付き合いがうまくゆかない欲求にすぐに乗ってしまうなど、この世の煩いから解放された時、天の国が見えるように思います。この世の力から解放される。

    天の国の有様は、隣人のために損をしていますか。隣人のために働いていますか。

     

    イエスは言われます。天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。自分の息子が結婚する。父さんである王にとっても大きな喜びです。盛大に祝いたい。王にかかわりのある人、皆を招きました。人々は来ない。どうしたのだろうと思いながら、王はまた使いを出した。牛肉を用意しています、肥えた家畜を用意しています。さあ、おいで下さい。しかし、人々はそれを無視し、ある人は畑に出ている、ある人は商売に出ていると言う。ほかの人々は王の使いを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

    民衆はわたしの呼びかけを聞こうとしていない。自分の事しか考えていない。

    王はこれを知り、怒った。軍隊を送って、人殺しを滅ぼし、その町を焼き払った。

    そして、王は言われます。町の大通りに出て、出会う人は誰でも、善人も、悪人も招きなさい。

    婚宴はいっぱいになった。

     

    イエスはこのたとえをイスラエルの祭司長、民の長老に語られたのです。

    イエスは言います。イスラエルは王の言葉を聞こうとしていない。祭司長、長老、あなたたちは神様のみ心のうちにいない。

    祭司長、長老は言います。わたしたちは律法のうちに神様と出会っているのです。

    律法を選ぶ自由が神様を捨ててしまったのではないですか。

     

    自由とは神様を知る権利です。生きる権利です。隣人を愛する権利です。自然を、人を愛して一緒の生きる権利です。自由は神様から与えられた恵みです。もしこれが守らなければ人の力によって神様を知ることが出来なくなります。生きられなくなります。隣人を愛することが出来なくなります。一緒に生きることが出来なくなるのです。

     

    王は、家来に町の大通りに出て、出会う人、善い人も悪い人も誰でも婚宴に連れて来なさいと言われました。王子の婚宴を祝うのは善い人だけではないのですか。イスラエルの人だけではないのですか。王は力によってそんなことをしたのでしょうか。 

    でもそうではない。あぁ、そうかと思いだしたのです。イエスが会食の時、いつも、徴税人、罪人が集まり一緒に食事をしました。

    イエスの食事が罪人の集まりになっている、イエスは罪人の仲間になったのですかとファリサイ派の人が聞きます。イエスは言います。罪人が神様の整えた食事にあずかっているのです。神様と一緒にいる喜びを知るのです。

     

    王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。この者は黙っていた。

    礼服をつけないと考える悪人であるなら、自分の意見をはっきり言いなさい。あなたの心は何もないのですか。 善くもない、悪くもない、あなたは何なのですか。

     

    神の恵みといつくしみに、

    生涯伴われ、

    わたしはとこしえに、

    神の家に生きる。(詩編236


  • 年間第27主日A  17-10-8

      イスラエルはぶどうの国です。太陽の陽射し、水が注がれぶどうが良く育ちます。

    肥沃な土地にぶどう園がありました。よく耕され、設備も十分整っています。農夫たちは働いています。農夫たちは一生懸命働いて自分たちの神殿を建てようと思っているのです。

     

    収穫の時が来ました。主人は収穫の時を待っていました。収穫を皆で喜び祝う。主人はぶどう園に、収穫を受け取るために僕を送りました。農夫たちは言います。この収穫はわたしたちの神殿のためのものです。わたしたちの先達は神様のために神殿を建てました。わたしたち、人は自分の家を持ち、そこに住んでいます。それぞれ満足のゆく家に住んでいます。神様は今まで幕屋に置かれていました。神様のために神殿が造られました。見事な石で、また奉献物で飾られた、壮大な神殿が出来上がりました。わたしたちは神殿を良くするため、維持するために働いています。

    ぶどう園の収穫はイスラエルの信仰のためのものではないですか。この収穫を渡すわけにはいきません。収穫を受け取るために行った主人の僕たちは、ある者は袋叩きにされ、殺され、ある者は石で打ち殺されました。主人は僕たちに加えられた迫害を悲しみました。

    そして、農夫たちにやるせない思いを持ちました。主人は収穫を受け取るためにまた僕を送りました。イスラエルのぶどう園の収穫はまさしく信仰の喜び。まことの信仰のために使う。

    しかし、僕たちは以前と同じように袋叩きにされ、殺され、石で打ち殺されました。

     

    主人は、わたしの思いを知ってほしいと息子を送りました。息子は農夫たちに問います。この神殿は何のためのものですか。この見事な石、奉納物は何のためのものですか。神殿を見事にするため、力を尽くしているのですか。神殿で神様と出会う、神様の言葉を聞くのではないですか。この神殿はあなたたちのためにある。この神殿は眠っている。死んでいるのではないですか。

     

    神様の心が神殿を造るのではないですか。

     

    イスラエル、あなたたちはわたしを離れた。主は言われます。わたしはわが子の罪のために孤独になりました。(バルク412)あなたたちはまことの神の定めを知らない、神の愛の道を歩んでいない。

     

    息子は言います。この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる。(ヨハネ219

     

    農夫たちは思いました。息子の相続財産を奪おう。息子の相続財産を奪う。

    「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」

    息子イエスの神様のうちにある姿、清さ、おおらかさ、深い憐れみ、慈しみを奪うのですか。 

    イエスは奪われました。

    イエスはぶどう園の外で、イスラエルの城外で、十字架の上で、苦しみながら命を奪われたのです。

     

    主は言われました。新しく出発する。ふさわしい実を結ぶ農夫をわたしのぶどう園で働いてもらおう。

     

    ぶどう園を大切にします。ぶどう園で働きます。ぶどうの実を結びます。ぶどうの実を食べます

     
  • 年間第26主日A  17-10-1

      父さん、母さんを大切にしなさい。父さん、母さんの教えを守りなさい。わたしたちは両親の生き方を、両親の振る舞いを心の目で見て育って来たように思います。青年になると両親の生き方を自分の目で見たいと思うのです。両親から離れるのです。

    こんな自分に生まれて来た。苦しい事がある。それを全部背負っている。何か自分に自慢できるような力があったらいい。そんなものは何もない。わたしは目立ちもせず、これからも、静かに普通に生活を送るのか。それは寂しい生活ではありませんか。

     

    もし、体が不自由に生まれたら、途中で事故で体が不自由になったら、こんな苦しい事はもう嫌だと思ってしまいます。自分の苦しみが多すぎる。そんな時、ふと思ってしまいます。主はわたしたちを本当に憐れみの心で包んでおられるのか。主よ、安らぎをお与えください。もしかすると、主は、わたしを見ておられないのではないか。 

     

    主は言われます。あなたは主であるわたしを不十分だと思って見ているのではないか。主は完全ではないと思っているのではないか。わたしはあなたに言う。他人と比べて自分を見るのではない。静かに、ゆっくりと自分を見つめなさい。自分の奥の奥を見なさい。自分の能力のなさを思っていないか。あなたの奥には許せない、許したくない隣人がいないか。他人の豊かな生活を、ゆったりとした生活をうらやんでいないか。他人の能力に自分を比べているのではないか。自分の周りの出来事を無意識に、物欲しげに見ているのではないか。

    今、あなたの向かってくる出来事をすべて受け入れなさい。そのままのあなた、本当のあなたになりなさい。あなたが自分を生きるために。あなたが自分を超えるために。自分を捨てなければ正しさが見えない。自分が見えない。隣人が見えない。神様が見えない。いや、父さん、母さんが見えていなかったのです。

     

    父さんに二人の息子がいます。息子たちにぶどう園に行って働いてもらいたいと思っています。お金のために働くのではない。人のためにぶどう園で働く。ぶどうを取って集め、足で踏みながら、ぶどうの液を造る。この液がぶどう酒になる。ぶどう園では、わたしたち、イスラエルの人々になくてはならないぶどう酒を作るのです。今、ぶどう園で働いている人と仲間になって、一緒に働くことを学んでほしい。父さんは言います。「子よ、ぶどう園へ行って働きなさい。」

    兄さんは言います。「嫌です。」 父さんは兄さんに言うのです。今日、今からぶどう園に行って働きなさい。自分の手の空いた時、いつか働くのではない。今、ぶどう園に行きなさい。子よ、何にも増して働いてほしい。 今からですか。 わたしたちは腹が空いた時、食事をするように、仕事が今、わたしたちを求めている。仕事はお前の中にある必要な出来事なのだよ。時間があるから仕事をするのではない。時間を作って仕事をするのだよ。皆が善いぶどう酒を求めている。

     

    兄さんは父さんの言うことをじっくり考えました。そして、後で考え直して働きに出かけました。

    仕事は、人のために働くことは何に増して大切なこと。生活の一部であることを知ったのです。

     

    父さんは弟のところへ行きました。「子よ、今日、今からぶどう園に働きに出かけなさい。」

    弟は気持ちよく返事をする。「はい、お父さん。承知しました。」 弟は今やりかけていることが終わっていない。終わらせなかった。ついにはぶどう園に行かなかった。

     

    父さんの子に対する思いは何ですか。父さんの言いつけは一方的に見えてしまう。子供たちは自分たちの思いでいっぱいだったのではないですか。父さんの言いつけは間違っていると思っていませんか。 父さんは子を包んでいる。天の父もわたしたちを包んでいる。自分の思いから抜け出なさい。自分の思いのうちにいたならば、父の心が見えない。自分の必要だと思うことをしていては隣人の必要が見えない。

     

    何のために祈っているのですか。何のために聖書を読んでいるのですか。自分のためですか。


    
  • 年間第25主日A  17-9-24

      聖書の言葉は動いている。それを大切にしながら、み言葉を聞いて行きたいと思います。

    今日、イエスは天の国をたとえで語られます。天の国はどんなところかなと思ってみると、柔らかな光に包まれた、微笑みが浮かんでくるのびやかな、ゆったりと出来るところ、天の国は静かなところです、そんなように思っていました。イエスはたとえで、そんなところではありません、天の国は動いていますと語っていると思うのです。天の国は働くうちにある。心で天の国を見なさい。

    そしてまた、天の国は神様によってますます喜びが教えられるところだと話されているのです。

     

    極楽と言いう言葉があります。これは屹度、働いて、働いて、寝る時間も惜しまず働き続けた人たちの褒美の楽園だと思います。もう働かなくてもいいよ。ここでゆっくり、のんびり楽しみなさい。おいしい食べ物が有り余るほどあるよ。いくらでも飲める極上の飲み物もそろっているよ。食べながら、飲みながら仲良しと一緒に語り合うことが出来る場だよ。温泉もあります、マッサージも丁寧にしてもらえます。極楽は優しさが恵みとなって注がれる世界です。極楽は食べるものも食べられず、苦しい仕事に追われている人たちの希望のように思います。一方でこんな言葉があります。「極楽願うより地獄作るな。」 極楽に行きたい、行きたいと思うより、この世が地獄となるようなことをするな。

     

    しかし、こんな好い事ばかりの国、感謝の恵みで与えられる褒美は、いつの日にか、もういらない、となってしまいます。

    本当の極楽は働くことだと思うのです。心を尽くして働いて、働くことが心の喜びとなったらいい。自分が支える者になっている。皆の心が豊かになる、そのために働くのです。

     

    働く者の希望、天の国は極楽と違います。天の国のたとえはぶどう園です。ある人は天の国に行っても働くのかよと、もう十分働いたよと言いました。

    仕事は、人が必要なものを、皆それぞれ作り合うのではないでしょうか。皆が皆のために作って行く。食べ物、着るもの、家、機械、遊ぶもの、皆がよく生きるように工夫して、いろいろな物を作り上げる、それが仕事です。理想は、精一杯仕事をしてみんなが幸せになったらいいのです。

     

    ぶどう園があります。主人は労働者を雇うために出かけます。このぶどう園の主人は一日に5回も出かけます。夜明けに出かける。労働者を集める。9時頃、行ってみると何もしないで立っている。わたしのぶどう園に行きなさい。12時頃、3時頃、5時頃に出かけてみると何もしないで立っている人がいる。なぜ、何もしないで立っているのか。誰も雇ってくれないのです。わたしのぶどう園に行きなさい。6時が仕事の終わりです。主人は皆に賃金を支払う。5時ごろ来た人に1デナリオン、次から次へと1デナリオンずつ支払う。夜明けから働いていた人にも1デナリオン支払います。夜明けから働いていた人は主人に不平を言いました。5時に来た人は1時間しか働いていません。わたしたちはこの暑い中、汗水流して11時間以上、一生懸命働きました。1時間しか働かなかった人と同じ賃金では不公平です。こんなに暑い中、一生懸命働いてくれてありがとう。もっと欲しいのですか。でも、一日1デナリオンの約束、十分ではないですか。わたしの気前の良さをねたむのですか。このぶどう園のよいぶどう酒を多くの人に飲んでもらう。こんな嬉しい事はないではないか。

     

    天の国のぶどう園の出来事です。夜明けから来た人に主人は感謝を伝えた。暑い中精一杯働いてくれてありがとう。夜明けから働いた人は喜んだ。よいぶどう酒を多くの人に飲んでもらうために精一杯働くことが出来た。感謝。神に感謝。 5時頃来た人に主人は思いを伝えた。少しの時間であったけれど、手伝うことが出来てよかったね。迎えに来た息子は言う。お父ちゃん、よかったね。今日、皆で一緒に晩ごはんが食べられる。

     

    体の不自由な人の働く場所があります。賃金のためではなく、人のために働く。その人たちの使う機械が工夫されている。働くのが楽しい。その心があったらいいと思います。

     

    パラリンピックが皆に知られるようになりました。体が不自由な人が競技をする。体の不自由な人たちがオリンピックをする、そんなことは、今まで埒外にされてきていた。金メダル、銀メダル、銅メダルを取るために励む、それ以上に、会衆の前で全力で勝負する、その緊張感、その充実感を味わうのです。

     

    天の国は喜びが教えられるところ。天の国は動いている。新しい心をもって天の国を見つめて行きたいと思います。


         
  • 年間第24主日A  17-9-17

      生きる、一緒に生きる。一緒ということをもう一度考えたらいいと思います。一緒に生活しているから憤る事が生まれる。一緒に生活しているから怒る。

    しかし、人は簡単に憤ったらいけない、怒ったらいけない、と言われる。

    そんなことはないのです。素直に思いっきり悪い事に憤ったらいい、怒ったらいのです。

    大切なのは、何に憤っているのか、何を怒っているのかを考えるのです。出来事が不自然だから、理に適っていない、自分勝手であるから。

    ちょっと冷静に考えると、そんな出来事に憤っている、怒っているあなたは何ですか。あなたは一緒に生きている喜びを表現していますか。相手にそれ相応の事をして来ていますか。

    何もしないで憤っていたら、怒っていたら子供と同じではないですか。

     

    わたしたちは一緒ということを得に大切にしています。一緒に過ごす、幼稚園から始まっています。小学校、中学校、高校いつも周りは仲間であることを考えながら生きていると思います。一緒にいるのだから憤って当たり前、怒って当たりまえだと思います。でも、子供のように憤ってはいけない、怒ってはいけない。相手に対しておおらかになったらいい。自分に対しておおらかになったらいい。

     

    大いに憤り、大いに怒る。そんなに深い憤り、怒りがあるのですか。それは悲しい事です。憤っている出来事、怒っている出来事に悲しいと思うと同じに、その出来事に何もしていなかった自分に憤って欲しいのです。他人の落ち度に寛容でありたい。おおらかでありたい。平安に出来事を見たいのです。

     

    わたしたちのこの命は自分のために生きる命ではありません。自分のために死ぬ命ではありません。人と一緒に生きる命です。夫婦一緒に生きる、家族一緒に生きる、教会、社会が一緒に生きる命です。そうです、この命は神様からもらった命。神様のうちに生きる命です。そして、人の中で生きる、人のために働く命です。

     

    一緒に生きる、兄弟がわたしに罪を犯しました。何回赦すべきでしょうか。7回でしょうか。先生はすべての人と兄弟になりなさいとおっしゃいました。人と出会う。人と語り合う。その人に語る以上にその人の心を聞く者となる。つながる。仲間となる。友となる。それ以上に兄弟になる。兄弟だったら、その兄弟のために働くのは当たり前です。その人と兄弟の思いでいました。犠牲を払って兄弟になったのに、その兄弟がわたしに罪を犯したのです。

    罪は生きる命を殺してしまいます。命を削ってしまいます。

     

    イエスは言われます。770倍までも赦しなさい。どこまでも赦しなさい。

    その時に、罪について考えなさい。罪とは何ですか。

    神様から命を注がれていることを忘れていることではないですか。

    神様のみ心を考えないことではないですか。

    一緒に生きていることを喜ばない、一緒であるつながりがない。

    隣人がいない、人のために働こうとしていない。ありがとうの心を消えかかっている。

    わたしたちの周りに罪がたくさんあると思います。人は借金を背負って生きていると言われます。。

     

    神様は、父はわたしたちを愛してくださっている。借金のあるわたしたちを赦してくださっている。

    そんな言い方は相応しくないと思います。父さんの前で子供が悪さばかりしている。子供がかわいくて仕方がない。悪い事をしたらちゃんとごめんなさいと謝るんだよ。父さんは子供の悪さを赦し続けている。わたしたちはそれを知った。赦し続けてくださる父さんの温かさがますますわたしたちの心の中に入ってくる。

     

    こんなに赦してもらっているんだよ。なぜあなたは人を赦せないのか。

    おおらかになれないのか。

    わたしたちも相手をどこまでも赦すことが出来るような大きな器になれたらいいと思います。

     


    
  • 年間第23主日A  17-9-10

     神様はわたしたちに聞かれます。毎日祈っていますか。食前、食後祈っていますか。聖書を読んでいますか。ありがとうの生活を送っていますか。神様はもっと言われます。祈る、聖書を読む、それは信心です。もちろん、信心を深めることは大切です。深い信心があってほしい。深く祈ってほしい、深く聖書を読んでほしい。しかし、信心は信仰の出発点です。信心は信仰ではありません。

     

    信仰はつながりです。神様とのつながり。自然とのつながり。そして人とのつながりです。

    神様とのつながりは、自然とつながっていること、人とつながっていることです。自然のために働くこと人のために働くことです。

     

    信心から、信仰へ出発する。外に出て行きなさい。自然と出会いなさい。人と出会いなさい。自然の生き生きとした力を味わいなさい。人と出会って、その人と語り合いなさい。その人の心を聞きなさい。その人とつながり合えればいい。その人と仲間になる、その人と友になる、その人と兄弟姉妹になる。

     

    兄弟姉妹となる。教会の仲間が皆兄弟姉妹となったらいい。近所の人たちと兄弟姉妹となったらいい。もっと大切なのは隣人と兄弟姉妹となったらいいのです。隣人とは助けがなければ生きて行けない人たちです。

     

    何かをしようとして、グループに入って仲間が作られる時、その中にどうも気に障る人がいます、気軽に話せない人がいますまた、反対に自分は話すのが苦手だという人もいます。そんなことが起こります。出会う人と友となる、兄弟姉妹になるのは難しいと思ってしまいます。

     

    こんな意見もあります。犠牲を払って仲間になるようにしか見えない。誰とでも仲間になるなんて気後れしてしまう。兄弟になるのなんか無理だよ、そんなことを言う人もいる。

     

    人は命を貰って生きている。一緒に生きる、人は一人では生きて行けないのです。孤独のうちに生きる命はないのです。神様はいのちを注いで人を造ります。一人一人に命を注ぎます。一緒に生きるように造られるからです。神様は人が生きるように、自然を造られました。

    自然に支えられている。食べ物、飲み物、着るもの、建物、家、自動車、油、鉄で造られたもの、木で造られたもの、考えてみればすべてものが、自然からとられるもので造られているのです。

    人は孤独ではいけない。人は人の中で生きています。自然の中にある物を人がとって工夫して、加工して食べる飲む物、住む家を造っているのです。周りにある物すべてが人の造った物です。人にはもっと大切なもの心があります。心は人として生きるから感じるものです。見えるもの見えないものを感じます。言葉を感じます、音楽を感じます人は心を持っています。感じている自分自身の心を思うのです。一人でいたい、何にも感じたくない、と思っていても、今、感じているとは、心が今まで自然の中にいて感じていた、人の中にいて感じていたのです。

     

    兄弟として生きているのに、兄弟があなたに罪を犯した。そんなことがあるかと怒ってはいけない。怒ったら、兄弟のつながりが消えてしまいます。兄弟は何があっても、兄弟ではないですか。

    その兄弟の罪を見つめなさい。そして怒りそうだった自分の心を思いなさい。兄弟の心を聞きなさい。聞いて聞いて、その人が語り飽きるまで聞きなさい。罪を犯した兄弟が語り終えた時、すべてを語り終えた時、兄弟の心は空っぽになります。その兄弟はあなたが見えます。神様が見えます。その時、あなたは兄弟を得ました。

     

    兄弟に怒りそうだった自分の心は、罪の入口にいるように思います。犠牲を払って兄弟になっていると思っていませんか。一緒にいるのだから損をするのは当たり前ではありませんか。ましてや兄弟のために助けるのは当たり前のことではありませんか。罪を犯す、罪を犯してしまう、苦しい事です。その人に罪から解放される喜びを与えることの出来る人、その人におおらかさを与えることの出来る人はあなただけです。

     

    神様の喜びは造られたものが皆、生き生きと生きる喜びです。

    一緒に生きる喜びが愛です。

    神様を心と体で精一杯愛しなさい。

    隣人を自分のように愛しなさい。

    これが神様から与えられた新しい掟です。

    
  • 年間第22主日A  17-9-3

      今日、神様はわたしたちに、苦しみは何ですかと問われているように思います。苦しみを放り出してはいけない。悲しみを放り出してはいけない。受け止めなさい。苦しみ、悲しみを喜びで包んでいると神様は言っているように思います。

     

    第一朗読エレミヤ書を読みます。 若い預言者エレミヤは嘆きます。わたしは神様から声をかけられた。わたしたちは神様から注がれた命によって生きている。神様は正しく裁かれる方。

    本当の喜び、生きる命の喜びを教えてくださる方です。わたしはあなたの僕です。あなたのみ言葉のうちに歩きます。神様はわたしに神の心、神の言葉を語れと命じます。わたしはあなたの言葉を語りました。 わたしが語ると、人々はわたしを笑い者にしました。わたしを嘲りました。わたしは苦しい、わたしは悲しい。 もう主の言葉を語るまいと思っても、主の言葉はわたしの心の中、骨の中で燃え上がります。人々がどんなに嫌っても、わたしは主の言葉を語らずを得ないのです。

    わたしは主のために苦しい。いや、そうではないと知ったのです。

    わたしは人々のために苦しみを背負っているのだと知ったのです。

     

    パウロの手紙、ロマ書を読みます。 神様は人を神の息吹を注いで、神のいのちに生きるものとしてお造りになりました。エデンの園に住む。エデンは神様の世界。人は自然の世界を楽しみました。しかし、人は自分の自由を求めました。強い人は自然を支配したい。弱い人を自分の奴隷としたい。神様から離れました。神様はわたしたちにいつも呼びかけておられます。わたしのところに戻っておいで。人は罪を知った。わたしたちは神様に願う時、罪を犯し回心の時、供えものを捧げます。自分に一番大切なものを捧げます。わたしたちの願いを叶えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを受け入れてください。神様は言われます。あなた自身が生贄となりなさい。あなたの一番大切なもの、それはあなた自身ではないですか。今のあなたがなくなった時が本当のあなたです。あなたが欲求のうちに求める自分がなくなって、神様の思いのうちに生きる、それが本当のあなたです。 神様、神様の求めるものは何ですか? わたしの求める世界はすべてのものがいのちの喜びに生きている姿です。皆が、喜んで働く、食卓を囲む、祈る、歌う姿です。

     

    人は皆、喜びを求めている。自分の喜びを求めている。神様は言われるのです。あなたは人の喜びの助けとなるのです。喜びを妨げているものを取り除く、それがあなたの仕事です。

     

    人は物を知っている、知識を持っている。様々な経験の知恵を持っている。あなたがたは物を知っている知識によって、様々な経験の知恵によって自分を守っている。自分たちを守っている。

    それを全部捨てなさい。知識を捨てなさい。経験の知恵を捨てなさい。

     

    アブラハムは神様と出会った。アブラハムは信仰の父と呼ばれています。神様の言葉のうちに生きる。神様の思いのうちに歩く。 アブラハムが100歳の時、待ちに待った男の子イサクが生まれました。子供が出来なかったサラに神様の大きな恵みが注がれたのです。アブラハムの家に後を継ぐ者が出来ました。 イサクが物心つく時、主なる神はアブラハムに言われました。あなたの大切な独り子イサクを焼き尽くす生贄としてささげなさい。アブラハムは従った。イサクを連れてモリヤの地にある高い山に登りました。イサクがアブラハムの刀によって殺されようとした時、神様は言われました。イサクのいのちを取ってはならない。アブラハムはイサクを得た。アブラハムはこのような儀式に何度も出席していた。しかし、このような苦しみ、悲しみを知らなかった、考えなかった。

    アブラハム、今、命の大切さを知りなさい。

     

    モーセ、イスラエルはエジプトから約束の地に入るまで40年荒れ野を歩きました。今までの知識、経験、信仰をすべて捨てるためです。今までの生活を支えていたものをすべて捨てるのです。今まで持っていた力を捨てる。神様の約束の地、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、他の部族も住んでいる土地で彼らと一緒に住むのです。(出エジプト38

     

    イエスは弟子たち打ち明け始められました。エルサレムで神様の栄光が現される。わたしが長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される。そして、三日目に復活する。

     

    神様の栄光は、すばらしい喜び、苦しみ、悲しみである筈はない。神様の力は絶対です。何ものも神様の力を妨害することは出来ないのではないですか。神様の力のうちに平安がある、平和が保たれる、わたしたちはそう思っている。

     

    ペトロがイエスの言葉を聞いて、イエスをいさめます。イエスを怒るのです。先生何を言うのですか。そんなことがあるはずはない。あってはいけないことです。 イエスは言います。サタン引き下がれ。

    あなた方はこの神様からの栄光を見なければいけない。この出来事が神様の栄光である。この出来事を見なければ、この出来事に入らなければ、神様の栄光が分からない。神様の愛が分からない。あなたの知識を捨てなさい。あなたの神様への思いを捨てなさい。すっかり空っぽになってこの出来事を見つめなさい。そして、わたしに従いなさい。

    自分が生きたいと思う者は人を苦しめているのではないか。イエスのためにいのちを捨てる者はまことのいのちを得る。 あなたの十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。

  • 年間第21主日A  17-8-27
  • イエスはガリラヤ湖に近い町カファルナウムに住まわれました。そのときから、イエスは宣教を始められました。イエスは毎日、町に行き、通りに出て人々に語りかけます。また、腰を下ろし話をします。人々に語りかけるように、神様の恵み、慈しみを語り、今、生きておられる神様を語るのです。罪を犯している人に特に声をかけます。どうしたのですか。横道にそれたのかな。回心して、もう一度神様のもとに戻りましょう。神様への道を一緒に歩きましょう。神様は必ず、笑顔で迎えてくださる。イエスは病人を癒します。悪霊を追い出します。エルサレムに行くと、特に、神殿の境内で話をされました。 イエスは毎日人と出会うのです。今、生きておられる神様を語らずにはおられないのです。

     

    イエスは弟子たちに聞きます。人々は、人の子のことは何者だと言っているか。人々の心はわたしをどのように受け取っているか尋ねたのです。イエスと出会った人々の思いを弟子たちと一緒に考えたかったのです。 その頃、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。イスラエルの人々の間に終末思想が語られていました。世の終わりが来る。この世に希望がない、光がない。神様がこの世が裁かれる、その道に向かっている。力のある人たちが思う存分欲求を満たす生活を送っている。一方、多くの人々は神様を求めて苦しんでいる。

    終末の思いが人々に影響しているのでしょうか、弟子たちは言います。イエスの姿を見て人々は皆、大預言者が現れたと言っています。ある人は、イエスに神の掟、律法を厳しく守るよう語る洗礼者ヨハネの姿を見ています。ほかに、終末の時に、神様の言葉を語る預言者エリヤ、エレミヤだと言う人もいます。

    人々は、イエスの言葉に心を打たれている。励まされている。目の前で、悪霊を追い出される、イエスは神様の力を持った預言者だと思っています。

     

    イエスが言われる。「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。」

    あなたにとってわたしは何者ですか。わたしはあなた方と一緒の生活している。一緒に食べる、一緒に働く、一緒に寝る。わたしの姿があなたの生活の中にある。 

    ペトロが言う。「あなたはメシア、生ける神の子です。」

    イエスはペトロに言う。「ペトロ、あなたは幸いだ。あなたのその言葉は天の父のみ心だ。あなたの唇が天の父のみ心をしゃべった。あなたはペトロ。ペトロ、この岩上にわたしの教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授ける。人の罪を赦す力、赦しの秘跡の力を与える。あなたが教会の指導者となりなさい。

    天の父のみ心、イエスのみ心のままに、教会が働きますように。

    教会はペトロのものですか。

    いや、神様のみ心の場です。

     

    イエスはわたしたちに言われます。

    自分を虚しくする。自分は本当に小さいもの、本当に弱い者。

    あなたは自分では何も出来ないと本当に思っていますか。

    あなたは本当に自分を空っぽにする、自分を捨てる心持を持っていますか。

     

    本当にイエスの言葉を受け入れようとしていますか。

    どこかで、自分の損得に悩んでいるのではないですか。

    この世の人間関係の中にいる。お付き合いの中にいる。自分の立場の中にいる。

    愛されている自分を知り、人を愛しなさい。愛するその人のために働く、どんなことがあっても、その人とつながっていなければいけないのです。

    神様は今、生きておられます。わたしたちに向かって、わたしに向かって声をかけておられます。

    神様に向かって歩きます。イエスと一緒に歩きます。


  • 年間第20主日A  17-8-20

      第一朗読・イザヤ書を読みました。

    主は言われます。わたしの思いの内に歩みなさい。わたしの救いが実現する。

    主よ、あなたの救は何ですか。 救いは、あなたを縛っているあなたの心を自由にすることです。

    あなたは神様と出会っていると思っている。神様を知っていると思っている。

    そうでしょうか。

    あなたは神様を自分の心で受け止めたと思っているのではないですか。神様を知ったとは、あなたの心と体が神様の憐れみを理解したと思っているのではないですか。

     

    自分をやめて神様の前に座ります。何もないあなたに神様の力が押し寄せて来ます。

    神様の霊があなたを覆っていることに気づきます。

    自分をやめたら神様が見えた。神様と出会った。それがわたしの救いです。 

     

    神様に祈る。聖なる神様の山に登る。あなたを捨てる。あなたをやめる。そのまま目を閉じた。心を神様に向けた。そして、その向ける力をやめた。神様と一緒にいる。その世界を味わった。その世界などと言うのは言い過ぎです。座った時、自分がいなくなって包まれている感じを味わうのです。それも神様の救い。恵みの業を行いなさい。自分を捨てて歩きます。この手が行うことが人のためになったらいい。

    神様の思い、契約が自然と心と体に入って来る。神様の道を歩いている。それが救い。

     

    第二朗読を読みました。人は皆、神様から命を注がれて生きています。どんな悪い者でも神様の子です。神様に不従順、罪人。神様、罪人を懲らしめないのですか。

    神様は言われます。不従順、その罪が大きければ大きいほど神様はその者に心を止めています。わたしのもとに戻っておいで、わたしのもとに戻っておいでと呼びかけて言われています。

    わたしたちみんな、神様のもとに帰り、神様の温かさ、柔らかい光に触れたいと思います。

    そして、罪人に出会った時、語り合うことが出来ますように。罪、不従順に閉じ込められている人とつながれればいいと思います。

     

    そんな思いで、今日の福音を読みました。

    イエスがどこに行かれようと、人々はイエスの周りに集まります。神様の事を話してください。この子に手をおいて、病を癒してください。 

    イエスがフェニキア地方に行かれると、一人の女がイエスに向かって叫びました。「主よ、ダビデの子よ。わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」

    しかし、イエスは何もお答えにならなかった。なぜですか。聞こえなかったのですか。いや、女は叫んでいたのです。 弟子たちが近寄って言います。この女を追い払ってください。

     

    イエスの心は何だったのでしょうか。イエスには女の叫ぶ声が聞こえなかったのです。心に響かなかったのです。女は願いがあった時、あのように言えば、あのように叫べば、聞き入れてもらえると思ったのです。 律法のことをちょっと言いたいのですが、律法の通りすれば、聞き入れられる。律法によって悪は生じない。その様に思っています。しかし、イエスは言います。口から出るものが人を汚す。(マタイ1510〜) 女の人は望みの大きさよりも、律法的に望みを叫んだのです。

    その声はイエスの心に届かなかった。何も答えなかった。あなたの声は虚しい。

     

    イエスは弟子たちにも言います。わたしはイスラエルの家のために働く者。イスラエルの失われた羊に神様のみことばを語る者である。

    女の人はイエスの言葉を聞いた。イエスの言葉が心に響いた。

    女の人はイエスの前にひれ伏した。「主よ、どうかお助け下さい。」

    「わたしの子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない。あなたはわたしの力だけを求めた。あなたの願いは口先だけのものではないか。」

    女はひれ伏して願ったのです。

    「主よ、あなたの心をください。どんな小さい心でもわたしにください。」

    イエスは夫人を見つめた。そして言われる。

    「婦人よ、あなたに信仰を見つけた。あなたの願い通りになるように。」


  • 聖母の被昇天 17-8-15

     <黙示録121

    「偉大なしるしが天に現れた。一人の女性が太陽の衣を着、月の上に立ち、頭には、12の星をちりばめた冠をかぶっていた。」

    天に不思議なしるしが現れた。あっ、見よ。皆に言う。叫んで言う。神様のしるしではないか。清らかな婦人がおられる。太陽の衣を着ておられる。白い、真っ白に輝いた衣。そして、月の上に立ち、頭には12の星をちりばめた冠をかぶっておられる。あの方は、そうだ。マリア様ではないか。わたしたちの主イエスのあ母さんマリア様だ。マリア様を見つめます。神に感謝。

     

    [黙示録119a、121-610ab

      天にある神殿が開かれた。神殿の中に契約の箱があった。契約は約束です。双方に、その約束を大切にしますと言うお互いの信頼のうちにある堅い約束です。神様がわたしたちに与えられた約束は、わたしはあなたたちを愛していますと言うみ言葉です。あなたたちはわたしの愛の内にいる。どのような出来事があったも心を閉じてはならない。あなたはわたしの愛の内にいる。困難を乗り越えなさい。わたしに向かって歩き続けなさい。わたしはあなたと共にいる。

      また、天に大きなしるしが現れた。入祭の祈りを読んでください。女は身ごもっている。子を生む苦しみの内にいる。もう一つのしるしが現れた。火のように赤い大きな竜である。子が生まれたら食べようとしている。女は子を生んだ。子は神のもとに引き上げられた。女は荒れ野に逃げ込んだ。主は言われる。「今や、我々の神の救いの力と支配が現わされた。神のメシアの権威が現れた。」

     

    Tコリント1520-27a

      キリストが来られる時に、世の終わりが来ます。

    わたしたちはキリストと出会った。キリストに神様のみ心を見た。キリストの内に入ろうと思った。キリストと共に歩くのです。今までの自分を捨てて、新しく生きる。キリストと出会って、新しくなる。今までを終わらせる。新しい世界を造って行くのです。

     

    [ルカ139-56

      マリアはエリザベトのもとに出かけました。座化リアの家に入り、エリザベトに挨拶をします。

    挨拶:会えた喜びです。一緒に歩いている喜びです。つながりを喜ぶ。

    それにもまして、マリアの喜びは、不妊の女と呼ば荒れていたエリザベトが子を身ごもっていると知って、エリザベトを喜び、神様の恵みを喜んだのです。

    マリアの挨拶を聞いてエリザベトは聖霊に満たされて言います。あなたの挨拶の声がわたしの心に入りました。わたしのお腹の子も喜んで踊りました。あなたは神様のみ心の内にいます。

    マリアは言います。わたしは心も体も主をあがめます。神様を知ったわたしは幸いな者です。

    わたしは神様からの偉大な恵みを受けました。主のみ心を思います。主の道を歩みます。

    あなたの愛のうちに歩みます。

                     *    *    *

    今日わたしたちはマリアの被昇天を祝います。マリア様はわたしたちのお母さんです。母さんはわたしたちを大切にしてくださいます。母は子を何にも増して大切にします。子は母さんの愛の内にいます。母さんは言います。わたしは父さん、家族に愛されています。もっと大きく、神様に愛されています。隣人と出会いなさい。隣人と一緒に生きなさい。愛は家族の愛から隣人への愛になるのです。それが神様が与えてくださった愛です。マリア母さんは愛の大きさを話されます。

    そして、マリア母さんはエリザベトがヨハネを身ごもってことを話されます。

     

    教会は宣言しました。母マリアは天に迎えられた。


  • 年間第19主日A  17-8-13

      今日の第一朗読、第二朗読、そして福音書は語ります。あなたの命は神様からのもの、神様はあなたを見つめています、信仰のうちに歩みなさい。どのようなことが起こっても、それを受け入れなさい。苦しみの内に、悲しみのうちに神様のみ心を見出しなさいと言われるのです。

    第一朗読・列王記を読みました。エリヤは命を狙われ、われています。ホレブ山に着き、身を隠しています。洞窟の中で夜をすごしました。主がエリヤに声をかけます。そこを出て、主の前に立ちなさい。その時、主が通り過ぎて行かれました。「通り過ぎる」とは主がご自分を示されると言う意味です。 エリヤが立った主の前に、激しい風が起こり山が裂かれ、岩が砕かれました。しかし、れは神様と出会うまことの「しるし」ではありませんでした。その中に神はおられませんでした。地震が起こりました。その「しるし」の中にも神はおられませんでした。火が起こりました。それも神様のおられる「しるし」ではありませんでした。

    神様には自然を動かす力があります。自然の激しい動きの中に神様を見ないのですか 見ません。力に動かされてはいけない。自然を自由に動かす力を持つ神様のみ心と出会うのです。心を神様のみ心に向けるのです。心を開いて、神様の静かな、ささやくような声を聞き取りなさい。 

    神様は、神様の道を歩くわたしたち一人一人を見ておられます。わたしたちに心を留めておられます。 この間、テレビを見ていたのですが、ある人が言いました。人生は傷を負うことです。前へ進もうとしたら、善い事をしようとしたら、傷を負わせる出来事が起こります。不愉快なことが次々と起こります。その嫌な出来事を、自分の心持を変えて、来たなと思って受けるのです。自分は小さい、弱いから傷つきたくないそう思っていました。自分の傷つきたくない心、自分の弱さをじっと見なさいと神様が勧めておられるのです。どんどん傷を受けて、それを越え、どんどん強くなるのです。傷はよいものです。そして、疲れたら休みます。 

    イエスは祈るために山に登ります。弟子たちは舟に乗って先に出発しました。舟は逆風にさいなまされ、揺れ動いています。山の上でイエスは深く祈っていたのでしょうか。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行きます。

    水の上を歩いてイエスが来られた。それを見て皆、驚きました。ペトロがイエスに言います。水の上を歩いてそちらに行かせてください。イエスは言われます。来なさい。ペトロは水の上を歩きました。しかし、強い風に気が付いて、怖くなり、沈みかけまし。ペトロは叫びます。「主よ、助けてください。」   イエスはペトロに言います。「信仰の薄い者よ。何故、疑ったのか。

    ペトロはイエスのみことばによって、舟から湖におりました。水の上を歩く、あっ、強い風が吹いてきた。ふと、自分が何をやっているかを考えました。水の上を歩いている怖くなった。その時沈みかけました。ペトロ、自分の行いを今までのように社会の人々の目で見てはいけない。社会の人々の考えに捉えられてはいけない。 ペトロ、あなたに、今、神様の力が働いたのです。

    逆風に舟が揺れ動いていた。弟子たちは舟を守りたい、命を失いたくない、その思いでいっぱいだった様に思います。イエスはその弟子たちにも言われるのです。信仰の薄い者よ、なぜ心配するのか。

    どのようなことが起ころうとも、主はわたしたちを見ておられる。わたしたちと共におられます。

    信仰の内に歩みたいと思います。


  • 主の変容A  17-8-8

      先週、一週間、那須の修道院で黙想をしました。車を運転しながら、道路の上にある温度の標識を見ると21度、23度です。那須は半袖でいると寒いくらいです。蝉が盛んに鳴いています。鳥のさえずりが心地よいのです。野菜サラダがたくさん出ます。サラダがおいしい。修道院は山の中にあるのです。自然の中で生活しています。そんな中で、神様の出来事を思い巡らしました。

    イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子は、高い山で神様の出来事と出会ったのだと思います。

    イエスの姿が変わりました。イエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。

    そして、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合います。目を見張ります。心がついて行けない。これはこの世の出来事ではない。イエスのこの世を超える姿を見た。モーセを見た、エリヤを見た。神様の世界の出来事、イエス、モーセ、エリヤの姿を見たのです

    この出来事がわたしたち皆のためであってほしい。ペトロが口をはさみます。仮小屋を三つ建てます。わたしたちのために一緒に住んでください。

    神様の力が彼らを襲いました。

    そして、声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」

    弟子たちは夢の中にいる思いでした。山を下りる時、イエスは命じられました。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはいけない。」

    イエスは、以前、弟子たちに問われました。「あなた方はわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えます。「あなたはメシア、キリスト、生ける神の子です。」(マタイ1613〜)

    イエスは預言者以上のものですと宣言したのです。預言者は神様のみ心の内に入り、神様の思いのうちに言葉を語ります。わたしたちは神様の思いからこんなに離れている、と知り、神様の思いを語るのです。また、神様から、人々の眠っている心を起き上がらせなさい、目覚めさせなさいと、厳しい言葉を語ります。イエスは預言者以上のもの。イエスの中に神様の姿がある。神様のみ心のまま語る。神様のみ心のまま業を行う。神様のみ心のままに生きている。

    あなたは神の子。ペトロはイエスの心の姿、命の姿を見たのです。

    今、イエスのご変容の姿を見ました。人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはいけない。人の子は死ぬ。あなた方は人の子の死を見ます。わたしの死を見ます。

    その時、わたしは捕らえられ、鞭打うたれ、十字架を背負って、あなた方の前を歩きます。

    ついに十字架で命を奪われます。わたしは死にます。そして、わたしは復活します。わたしは天の国に昇ります。復活の命、新しい命であなた方とまた会います。

    その出来事は言葉で理解するものではない。起こったその一つ一つが心に入って来て、出来事を知るのです。その出来事があなたを包みます。しかし、その出来事の中にあなたが入って行かなければ、その出来事を知ることは出来ません。 わたしの死を受け入れ、復活を受け入れなさい。あなた方は、今、わたしの復活の姿を見たのです。

    ペロはイエスを裏切りました。お前はイエスの仲間ではないか。そう問われて言いました。あんな奴は知らない。呪われて死ねばいい。

    イエスの十字架を背負って、歩く姿を見ました。そして逃げてしまった。

    イエスの死を知り、復活したイエスに出会った。

    ペトロは手紙で証言します。

    わたしたちは聖なる山にいた時、神様の世界を見ました。復活されるイエスの姿を見ました。

    暗い所に、光のない夜に、明けの明星が昇りました。

    力に満ちたイエスが、今、生きておられます。

  • 年間第17主日A  17-7-30

      天の国は次のように例えられる。イエスは人々に天の国をたとえで語られます。

    天の国は畑に隠された宝に似ている。それを見つけた人は、喜びのあまり、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

    天の国について、一言、言いたいと思います。

    イエスの語られた天の国は、わたしたちの思っている天の国ではないように思います。わたしたちの思う天の国は、わたしたちの求めている天の国は何ものにも表現しがたい恵みの場ではないかと思うのです。天の国に入ると柔らかい光に包まれる。光が心の中に入って来る。天の国に入ると、すーっと憐みの心が入って来て、心にしみわたる。心が温かくなる。

    天の国、ここにいるだけで嬉しい。

    イエスの語られる天の国は、この世から始まっていると教えられているように思うのです。

    今、あなたの生活に、あなたの周りに天の国の入口がありますと言われているのです。

    畑がある。畑の中に宝を見つけた。今自分の持っているもの、今まで貯めておいたものをすっかり売り払ってその畑を買います。宝を得るために畑を買う、宝に行き着くまで畑の道を通る。畑は自分のものになったと思いました。天の国はわたしの目の前にある。

    いや、そうではないと思います。自分が畑の方に行く。畑の世界に入って行くのだと思います。天の国に向かって歩くのだと思います。

    ある人が言いました。畑は自分自身の心、自分自身の生活だと思いました。自分の中に宝がある。その宝を発見した。その宝が輝くためにその道を歩く。自分のすべてをつぎ込んで宝を輝くものとしたい。ある青年は、もう青年と呼ばれる歳ではないのですが、世界を歩きたいと思った。自分はこの社会に閉じ込められているのではないかと思いました。この自分を囲む世界に閉じ込められている。自分を発見したい。世界の人とで出会いたい。一人で、貧乏の旅に出かけたのです。

     

    ある青年は修道生活をしたいと願っていました。サラリーマンから独立して、今まで、フリーの生活をしてきた。金銭に苦労する生活、人との煩わしさから解放されたい。

    彼は教会の神父さんに相談に行きます。 修道士になりたいのですが今の生活をやめたい、今の生活をやめたい。  

    神父さんは言います。修道士になる心持があるのなら、神父になったらどうか。神様に会う、そして、命を生きるのだ。生活を変えるのだ。

    その道を歩きたい。その生活をしたい。神様と会いたい。自分の中にそんな宝があったのだ。

    自分のすべてをつぎ込んで、その宝を輝くものとしたい。

    また、畑を自分の目の前に見ます。自然のために働く、人のために働く、その場、手伝う場がある。その場が畑ではないでしょうか。働くことの大きさを知る。働くことの苦しさ、自分のために働くのではない、隣人のために働く。働いて神の恵みに出会う。

    自然の偉大さを知る、自然の雄大さ、自然の不思議を知る。それが宝。神様の不思議が宝となって動いている。宝の中に入って行きたい。

    その道がこの世から始まる天の国の出発点です。

    商人が良い真珠を捜している。高価な真珠を見つける。持ち物をすべて売り払い、それを買う。真珠を探し求めている商人は、今まで、いくつもの真珠を見て来ている。見て来た真珠、手に取った真珠は十分な輝きがなかった。そして、見つけた。 あった! 真珠の輝きを見つめる。じっと見つめる。真珠の輝きに魅せられました。その真珠にはわたし全部を引き付ける持っている。

    その商人は真珠の不思議な力を見たのです。




  • 年間第16主日A  17-7-23

      神様、あなたは見えるもの、見えないもの、すべてのものをお造りになりました。み言葉によって、み心をもって造られました。わたしたちを包むこの自然、大地、大空、海は神様のみ心によって造られたのです。すべてのものはあなたにつながっています。すべてのものをあなたは見ておられます。そして、また、この世界を包む天の国があります。

     

    神様は言われます。あなたたちは肉によって生きるのではなく、霊によって生きる者となりなさい。

    霊は神様の息吹、神様の命の力ではないでしょうか。

    霊によって生きる。わたしたちは、今、生きて、働いておられる神様の息吹を受けて生きるのです。神様の恵みを受けて、神様の力を受けて生きるのです。

    霊の力によって神様の姿が現わされるのではないかと思います。知識によって神様を知るのではなく、霊によって神様を心に受けとめるのです。神様は霊によってわたしたちを包み、心に入り、導いてくださる。

     

    イエスは天の国のたとえを話されます。イエスの話される天の国は、何か、煉獄のように思ってしまいます。天の国は神様のみ心にかなった人が行くところではないですか。柔らかい光のうちにある、温かさ、おおらかさ、静かな、生き生きと命の喜びのあるところではないですか。

    天の国に入ると安心が心を満たすのはないかと思います。

    イエスは言われます。

    神様は生きて働いておられます。天の国も生きています。喜びは、楽しみは動いていなければ喜びとならない、楽しみとならない。生きているから喜ぶのです、楽しむのです。

     

    天の国に麦畑があります。天の国の麦畑は皆のために麦を育て、収穫するのです。

    天の国の麦畑に毒麦が見つかりました。毒麦をどうしましょうか。抜いて、集めましょうか。

    いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れの時、まず、毒麦を集めなさい。束にして焼いてしまおう。

     

    イエスの周りには徴税人、罪人が集まってくる。罪人は、律法を守れない生活をしている。安息日に会堂に行けない。仕事がないから、ローマ人が募集している働き口に行き、賃金を得る。ある人は徴税人になる。

    天の国に行くために善い生活を送りなさい。毎日祈れたらいい。毎日隣人の事を考え、少しでもその人のために手助け出来たらいい。時を作って神殿に行き、神様の前に立てたらいい。

    毒麦が見つかった。

    刈り入れの時まで、そのままにしておきなさい。

    何故、毒麦を見つけた時、抜き取ってしまわないのですか。

    刈り入れ時までには、まだ時間がある。毒麦が悔い改めるために、あなた方が働きかけたらいい。

     徴税人、罪人、あなたたちにも悔い改めの時が与えられてる。

     

    天の国はからし種に似ている。本当にちっぽけなからし種であっても、そのからし種が育って大きな木となる。その木には空の鳥が来て、巣を作る。

    悪い人と言われている人の心の中にもからし種ぐらいの善い心がある。からし種ぐらいであっても善き心を捨てないで、育てなさい。

     




  • 年間第15主日A  17-7-16

      イエスは湖のほとりに座っておられた。大勢の群衆がそばに集まって来た。

    イエスは舟に乗られた。群衆を見ながら、たとえを用いて語られた。

     

    ある人が種蒔きに出て行った。種は心を打つ、厳しい神様のみことばでしょうか、心温まる、励まされる言葉でしょうか。目の前にたくさんの畑がある。畑にく。畑といってもよく耕された畑もあ、ほっとかれた、野原のような畑もあります。種が蒔かれる。種がよく根付く畑もあれば、少しも根付かない畑もあります。その種蒔きのもとには、種はいくらでもあります。種蒔きが力尽きるまであります。種蒔きは種を蒔き始めました。手に種をつかんで蒔き始めました。道端にも種は蒔かれる。石だらけで土の少ない所にも種は蒔かれる。

     

    そんな石だらけところに種が蒔かれても鳥が来て食べてしまったり、浅い土地に落ちた種は土に根を張っていないから途中で枯れてしまうのではないですか。

     

    イエスは言います。 

    わたしは皆の心に種をまく。毎日、人の畑、人の心に精一杯種をまく。求めている者の心に種は根付く。 医者を必要としているのは丈夫な人でなく病人である。(マタイ99〜)

    わたしは罪人のための種を蒔くのである。わたしの言葉がその人の心に入った時、種が温かさをもってその人の心に入った時、種は実を結ぶ。百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。

     

    弟子たちがイエスに聞きます。わしたちは病人なのですか。

     

    イエスは答える。もっともっと人を愛せればいい。もっと励まされる優しさがあったらいい。人に安心を与えるおおらかさがあったらいい。一緒に歩きたいと思ってもらえる大きさがあったらいい。

    人は不十分。人は小さい者、人は弱い者だ。

     

    何故、種を蒔くたとえ話をするのですか。

     

    種を蒔く人の事を考えてほしい。種を受け取る人たちの事を考えてほしい。そして種が何かを考えてほしい。いろいろな畑があると言ったけれど、畑のことも考えてほしい。

    自分を見つめる。あなたの畑はどんな畑ですか。

     

    種を蒔く人はイエスだけではない。わたしたちはイエスと出会った。種を知った。種を蒔きたい。喜んで蒔きたい。神様の喜びを語れたらいい。命の喜びを語れたらいい。出会う人皆が喜びの心を持ったらいい。苦しんでいる人が慰められたらいい。悲しんでいる人が微笑みを取り戻したらいい。苦しみ、悲しみを乗り越えられたらいい。種は神様のみ心。聖霊の働き。命の水。

     

    わたしたちはイエスを見ている。イエスを聞いている。イエスに心を向けている。イエスは聞かれます。あなたの畑は耕されていますか。

     

    自分の畑を思いました。土地が種を求めている畑か。石だらけの畑ではないか。

    小生、司祭に叙階されて289年たちました。木更津教会、館山教会に赴任されました。4ヶ月になります。 引っ越しの荷物の整理が大変でした。木更津、館山教会は忙しい。要領が分からない。自分でやらなくてはいけない。追いかけられるのです。

    ふと思いました。イエスはヨルダン川で洗礼を受けた。洗礼を受けて出発とした。

    お前は始めから出発しろ。なんだか新人の神父のような気がしているのです。今ようやく落ち着きましたが、長く司祭生活を送っていて、今までそんなに心が騒いでいたのです。

    まだまだ、自分の畑をよく耕していない。まわりの出来事が気になっていた。種が蒔かれている。種が根付くように、種が成長するように、イエスを心に素直に受け取るのです。

     

    あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

    見るには見るが、決して認めない。

    心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。

     

    心の耳で聞きます。

    心の目で見ます。

    み言葉を心に刻みます。




  • 年間第14主日A  17-7-9
      見よ、あなたの王が来る。  王様が来られる。わたしたちの王様は力ある方。わたしたちに勝利を与えられる方。こんな嬉しい事はない。しかし、王様は言います。武器を捨てなさい。あなたの持っている武器をすべて捨てなさい。心の中にある見えない武器も捨てなさい。武器のない所に平和がある。最高の勝利、愛がある。
    出会う人とつながり合う。その人を受け入れる。一緒に歩く者となる。善い悪いを判断するその言葉の武器を捨てる。聞く者になりなさい。物を、優しさを、時間を与える者になりなさい。
     武器を持たなければ、相手から苦しめられる、傷つけられるものになります。悲しい事ばかり起こります。そんな惨めな姿になってしまいます。それでいいのですか。それが勝利ですか。
    受け入れる、すべての出来事を受け入れることが出来る。その大きさを持つ。
    それが神様がわたしたちに示された最高の勝利、愛です。

    人は体と心です。人は体で心を表現します。体で愛を表現します。人は一人では生きられない。一緒に生きる。共同体を作ります。人は共同体の一人です。支え合います。心の思いを体で表現します。愛する、その人のために働きます。でも、わたしたちは自分の体を大切にしてしまいます。自分の体が自分の欲求を求め、その体の安心を求めます。体の欲求を心に告げます。体が欲求の内に動いたら、共同体を作って行こうという思いがなくなってしまいます。自分のうちに働く善い事をしてゆく霊が痩せて行きます。霊がなくなってしまいます。体は心を表現したい。心の内に神様の霊が住んでいる。霊によって体が神様のものとなるのです。

    これらは神様の教えです。また神様は言います。生活は損をすることです。自分の周りには苦しんでいる人がたくさんいます。
    与える者になりなさい。与える者になったら、損をすることではないでしょういか。
    でも、生活するのは自分が生きるためではないですか。 
    いや、違います。神様は人を造られた。人は隣人のために働きなさいと言われているのです。
    そんなことをしたら、自分の生活は出来なくなってしまうのではないでしょうか。

    イエスはきっとニコッとしてこう言います。隣人を自分のように愛しなさい。
    自分が食べなくて、隣人にあげるのではありません。一緒に食べるのです。

    イエスは言われます。
    疲れたらわたしのもとに来なさい。重荷を負っている者もわたしのもとに来なさい。一緒に休みましょう。  疲れたあなたの姿を見てイエスはぶどう酒を勧めるかもしれません。丘の上に座って、一緒に周りの景色を見るのかも知れません。静かに、ゆったりと時を過ごす。一緒にいる安心がある。一緒にいると、静けさの中にいると自分の心の煩わしさがなくなって行くのだと思います。

    イエスは言われます。
    わたしの軛を負いなさい。軛というのは二頭の牛を一緒にする道具です。二頭の首のところを一つにつなぐものだと思います。

    わたしの軛を負いなさいとは、イエスの思いのうちに、隣人と軛でしばられ、離れずに一緒に歩くことだと思っていました。隣人と絆を解いてはいけない。その人のためにすべてを与えるものとなりなさい。その人が生きる、そのために働く、それが愛ではないですか。それがイエスの教えだと思ったのです。
    愛する、それは自分の心からあふれ出る思いではないですか。一緒に生きる喜びではないですか。軛がしばられる。何か違う。
    わたしの軛、その軛はイエスがわたしと一緒に歩いてくださるのではないかと思ったのです。わたしの愛はあなたから離れない。喜んで、わたしはあなたと一緒の軛に結ばれます。

    友のため自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない。嬉しいですね。

    イエスは言われます。無理しないで、ゆっくり歩きましょう。わたしはあなたと共にいる。
    一緒に荷を負ってわたしと共に歩きましょう。わたしの荷は軽い。




  • 年間第13主日A  17-7-2
      わたしたちは洗礼を受けました。今の自分が水の中に沈められ死にます。水に清められ、新しい命が注がれ、新しく生きるのです。今までを捨て、新しく生きる。洗礼によってキリストに結ばれるのです。キリストの中に入る。自分の中にキリストが働いて、キリストの道を歩きます。
    洗礼はキリストと共に生き、キリストの中に入り、キリストと共に死んでゆくのです。

    イエスはわたしたちに言われます。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
    わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

    わたしたちは父さん、母さんを大切にします。父と子、母と子、これは神様からのつながりではないですか。子が生まれる。これはあなたの子。幼な子は父さん、母さんの全部を受け入れます。父と子の愛、母と子の愛が生まれます。父さん、母さんを特別に大切にする。息子、娘を特別に大切にする。それは当たり前のことではないですか。父さん、母さんを心から愛してはいけないのですか。息子、娘を心から愛してはいけないのですか。

    シラ書を読みますと、このように書いてあります。概略を読みます。
    子供たちよ、父の戒めに耳を傾け、それを守れ。
    主は、子に対する権威を父に授け、
    子が母の判断に従う義務を定めておられる。
    父を尊べ、
    父を敬え、
    言葉と行いをもって、父を尊敬せよ。
    父親を敬うこと、これこそ人間の栄誉なのだ。
    母親を侮ること、それは子供にとって恥である。(シラ3・1-16)

    しかし、神様は警告されます。わたしよりも父、母を愛する者は、息子、娘を愛する者はわたしにふさわしくない。ずーっとこの神様の思いが分からなかった。でも、ある時、あー、そうかと思ったのです。愛する時、その人に何かを求めているのではないかと思うのです。その人を愛する。その人と深くつながる。その人深くつながっている安心がある。自分が何か失敗した時、悲しい事があった時、苦しい事があった時、何のとがめだてせずにわたしの姿を受け止めてくれる。
    父さん、母さんを愛する。父さん、母さんに何か寄りかかっているのだと思います。物質的に、また、心のうちに寄りかかっている。息子、娘を、当たり前なんですが、他人の子とは違う目で見てしまう。愛の内につい余計なことまで口に出してしまう。

    捨てなさい。その染みついた心を捨てるのです。子供の時、父さん、母さんの愛は大切です。その愛の心が子供を包んでいます。幼い子供は知ります。父さん、母さんの愛の心が神様の愛の心だ。子供から大人になる。大人の愛は、父さん、母さんを捨てるのですか、息子、娘を捨てるのですか。いや、父さん、母さんの中にいるから見えなくなっているところがあるのです。その安心の世界にいる自分を捨てなさいと言われているのではないですか。
    出会った人と深くつながる。出会った人を友人とする。友人を兄弟、母とする。自分の息子、娘とするのです。その時には、得をしようというそんな気はまったく生じません。父が生きるため、母が生きるため何か手伝いが出来ればいいと思い巡らすのです。 

    誰でも、わたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(マタイ12・50)

    十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

    愛することは十字架です。愛することは自分を捨てることです。隣人を自分の兄弟、母とする。隣人を愛する。隣人のために働く。隣人とのつながりが深くなって行く。自分の父さん、母さん、兄弟、姉妹になったらいい。

    キリストに従います。キリストの姿を心に刻み、キリストの道を歩むことが出来ますように。





  • 年間第12主日A  17-6-25
      わたしたちの毎日の生活が神様の道の生活になっていますか。静かに、自分を見る、自分の家族を見る、自分を囲んでいる仲間たちを見たいと思います。  

    わたしたちはつながりの中で生きていると思います。
    特に、わたしたちの信仰生活は大きなつながりの中にいる、3つのつながりを考えたいと思います。
    一番大きなつながり、神様と人です。そして、自然と人、人と人のつながりがあるのです。

    つながりとは支えられていることです。だから支えられていることを感謝しながら、支える者になるのです。神様からたくさんのものが与えられています。わたしたちに必要なものは全部与えられています。神に感謝。生きなさい、生き生きと生きなさい。それが神様がわたしたちに与えられる、愛のつながりです。
    神様の大きな恵みを、神様にどのように感謝したらいいのでしょうか。神様のために働く―神様のための働く者になる。神様は言われます。あなたたちを今も支えている自然のために働きなさい。そして、人のために働きなさい。自然を汚さないように、自然を壊さないようにするのです。自然をもっと研究する、自然をもっと知るのです。
    そして、人のために働く者になる。人は人の中で人となって行くのです。人にこんなに支えられている。人のために支え、助け合うのです。

    わたしたちは社会で、皆が一緒に、仲良く暮らしています。仲良く暮らす、その時に暗黙の教えがあると思います。 それは、人は人に借りを作ってはいけない。自分と自分の家族だけを守ってから、人を助けたらいい。人を支えたらいい。そんなことを知らず知らずのうちに教えられている。
    善い事をするにも、人に知られず、そっと献金する、静かに黙々と奉仕する。人の事は人の事とし、他人の事には口を出さない。皆がそうしたら、何も話題にならない。争いも起きない。

    今日、イエスはその社会の人間関係は正直に生きる姿から、かけ離れているのではないか、と言っているようです。その穏やかな社会を作って行くために、人は無意識に言動に気を使い、他人の反応を気にしながら話をしている。自由に話す正直さがなくなっているのではないかと思うのです。自分のいる立場を気にしながら話をするのです。自分を囲む仲間の心を気にしながら話をするのです。
    君の言いたいことは十分にわかるよ。でも、今この会議で、そう言ったことを、そういった思いを許していたら、示しが付かなくなってしまう。まとまらなくなってしまう。その思いを心にしまっておいてくれ。今度、機会を作って、飲みながらでも、ゆっくり聞こう。

    人々を恐れてはならない。

    それが善い事なら、明るみで言いなさい。正義に向かって歩みなさい。堂々とおおらかに、静かに働きかけなさい。体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。

    今、国会で取りざたされている、問題になっている文書が、文書としてあるのか、ないのかが議論されている。調査すると言っている。調査して、なかったと言った後に、あったと言う。
    正直でありなさい、正直であったらいい。

    どのようなことが起こっても恐れることはない。神様があなたの思い、行いを見ている。

    わたしたち一人一人が神様の前で正直でありたいと思います。
    支えられている、支える者になる。神様にこのように支えられている。人にこのように支えられている。人を支える者の一員となる。仲間への優しさで社会を守るのではなく、自分たちの社会がほかの社会の助けとなったらいい。

    正しい道を歩く。
    神様のみ心のうちに、静かに、おおらかに、堂々と善い事を行って行きたいと思います。



  • キリストの聖体A  17-6-18
      その時、イエスは言われました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

    目の前で語っているイエスがわたしを食べなさいと言っている。イエスの周りに集まって、話を聞いているユダヤ人たちは驚きます。「えっ、何を言っているんだ。イエスは訳の分からないことを言っている。」
    イエスは続けて言います。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

    もし、わたしが、あなたがそこにいたならば、その言葉をどのように受けとめますか。イエスの弟子たちはどのように受けとめたでしょうか。 イエスの語っている言葉は分からない、しかし、イエスと一緒に歩きたい、そう思っています。わたしたちはイエスとつながっている。だからイエスと一緒に歩くことが出来る。つながっている、理解してつながっているのではない。

    イエスの語った言葉を思い起こしたらいいと思います。イエスは会堂で話をします。イエスは神様の心を語ります。神様の喜び、悲しみを語ります。イエスの言葉は聞く人の心に入って行く。その言葉は重さをもって聞く人の心に入って行きます。生きている神様が、今、イエスを通して語っている、会堂にいる人たちは、神様の安心に包まれます。イエスの語った世界の中にいる、イエスとつながっていると思うのです。祈りは大切です。聖書を読むことは大切です。しかし、イエスの道を歩かなければイエスと出会うことは出来ない。動かなければつながらない。 
    イエスに出会った人はイエスと一緒に歩きたい、イエスの語られる神様に会いたいのです。

    イエス様は何かと思う時、ヨハネの福音書の初めを思い出しました。 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1・1) 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1・14)
    言葉が肉となった。そして今、イエスはご自身を語ったのです。わたしは言葉、この言葉は出来事を説明する言葉ではない。言葉が物事を起こすのです。() 言葉がパンになる。わたしがパンになる。わたしを食べなさい。

    イエスのあなたに向けられた言葉をあなたの耳で、あなたの心の耳で聞かなければ、あなたの内に入って来ません。イエスを知りたい。もっともっと知りたい。イエスは言います。わたしの体を食べなさい。わたしの血を飲みなさい。わたしの心があなたの内に入ります。わたしの隣人を愛する心があなたの内に入ります。わたしが喜ぶその喜びをわたしと一緒に喜ぶ、わたしが悲しむ、その悲しみを一緒に悲しみます。

    イエスを食べる。イエスがわたしの中に入って来る。毎週、イエスを食べる。毎日、イエスを食べる。わたしの中に、毎日、毎週イエスが入って来る。イエスを食べて、イエスが分かるのですか。イエスを食べる、いや、そうではない。イエスを食べる時、イエスの中に入って行くのです。
    ご聖体であるパンは心の栄養です。心の栄養というか、命の力です。自分のあり方の力です。命の力が、愛の力がわたしの内に入って来ると、この力がわたしの心を食べるのです。

    ご聖体についてもう一つ言いたいのですが、ご聖体であるパンはイエスの生涯です。イエスの姿がパンになったのです。「このパンを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・57)
    イエスの語られた言葉が肉を持った力となってわたしたちの心に響いてくる。パンを食べてイエスの言葉が分かる。心と体でイエスが分かる。イエスの姿が見えるのだと思います。
     
    あなた自身も自分を捨て、隣人のために働くことが出来ますように。



  • 三位一体の主日A  17-6-11
      神様はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
    ベツレヘムという田舎の村に、イエスという男の子が生まれました。イエスが育ち、神様を語ります。会堂でイエスは人々に語りました。人々はイエスの話に驚きます。神様のみ心を語っている。その言葉が聞く人の心に響いて来るのです。そして、町の中で出会う人に語りかけます。その人の苦しみ、悲しみを受け取るのです。
    人々はイエスの姿を目の前に見ます。彼の言葉を聞きます。イエスと出会い、彼を知ることが出来ます。イエスの心の中に入ることが出来るのです。また、イエスは病気を癒します。悪霊を追い出します。 天の父の思いは、この世に生きる人々がイエスの話を聞いて、まことの神様を知るようになったらいい。自分たちに与えられた命の尊さを知ったらいい。

    イエスの働きは何ですか。人が神様を知って、永遠の命を得るためです。
    イエスは十字架にかけられ、命を失いました。弟子たちはイエスを見失った。しかし、イエスは新しい命の内に弟子たちに出会ったのです。その時、イエスに人の力を超える姿を見ました。
    イエスの生涯を思い浮かべました。イエスの出来事の一つ一つに神様の姿を見たのです。イエスの生涯は人への愛だと知ったのです。
    天の父がイエスをわたしたちに送られた。イエスの言葉は神様の言葉、イエスの業は神様の業。

    わたしから離れて行った人たちが、わたしの独り子イエスによって神様を知り、世が、また、ご自身のものになる。

    今日、わたしたちは三位一体を祝います。
    聖書勉強会で聞きます。神様の名は何ですか。
    イエス・キリストです。多くの人がそう答えます。
    そうです。でもそれは神様の本名ではないです。
    神様の名は、正式な名は父と子と聖霊です。
    三位一体の神様、この名が神様の名前です。

     神様の名前を神様に聞いた人がいます。モーセです。あなたの名は何ですか。
     神様はモーセに言います。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」 (出エジプト3・14)

    神様は三位一体。どういう意味ですか。三つの位格が一つ。位格というのは劇場の俳優が付けるマスクだそうです。全く別の三人が現れる。それぞれが自分の姿で、それぞれの事を行う。見える姿は全く別の姿です。しかし、行うことの底にあるものは愛することです。その一人一人の奥にある実体、というのでしょうか、は全く一つです。愛を行っている。一緒にいる。

    わたしたちには三人の神様が見えます。しかし、本当は一つです。神様は一人です。
    イエスと一緒に生活した弟子たちはイエスに神様の姿を見たのです。新しいいのちに生きるイエスと出会ったのです。弟子たちは宣言します。イエスは神様です。わたしたちも宣言します。信仰告白します。わたしたちもイエスの出来事の証人です。

    父はイエスに言われます。イエス、人を愛しなさい。命をかけて愛しなさい。イエスは語りました。わたしは父からの言葉を語ったのです。わたしの言葉は父の言葉です。わたしは人を愛するために命をかけました。わたしのすべての業は父からの思いです。父の人を愛する心が、わたしの人を愛する心です。父の憐れみの心がわたしの憐れみです。わたしは、わたしであるわたしの仕事をします。しかし、わたしと父は一体です。

    天の父は神様。天の父だけを神様だと思っていました。神様はお一人。父の子がおられた。父の子イエスも神様ですと証言します。そして、聖霊も神様ですと知らされました。

    聖霊は神様です。聖霊というと、神様のみ心を実現する力だと思っていました。
    聖霊は心の光、優しさ、さわやかさ、安らぎ、おおらかさ、励まし、温かさ、そして体を、心を清くする力ではないですか。聖霊は神様の力を現す道具ではないのですか。

    いや、違います。聖霊は神様です。今、生きて働いておられる神様です。
    父は神様。父は聖霊によって思いを果たします。聖霊が働くところに父もおられるのです。父と子は一体です。父の思いが聖霊によって子に入って来るのです。聖霊がおられなかったら、父は何も出来ません。子も何も出来ません。子は聖霊によって、父のみ心を知り、父のみ心を実現するのです。父と子は聖霊によって一つです。思いも一つ。み旨も一つです。

    父のみ心が子によって、見えるものとされ、聖霊によって実現しているのです。

    三位一体の神様が今働かれている。父に感謝、子イエスに感謝。そして聖霊に感謝します。



  • 聖霊降臨の主日A  17-6-4
     今日聖霊降臨をお祝いします。聖霊は神様です。わたしたちの神様の名前は父と子と聖霊です。

    父は子をわたしたちのもとに送られました。神様である子を人の姿に閉じ込め、子は人としてわたしたちと一緒に生きたのです。わたしたちは子の生きた姿を見ました。わたしたちに対する愛を見ました。命の尊さを見ました。目の前で起こったイエスの出来事を頭で理解しよう、心で受け止めようとしています。あなたをなくしてその出来事を受け止めなさい。

    ついに、父と子は聖霊である神様をわたしたちのもとに送られたのです。聖霊を送ります。聖霊を精一杯受け止めなさい。自分を捨て、聖霊のうちに歩きなさい。聖霊によってイエスが分かります。父が分かります。愛が分かります。命が分かります。

    聖霊によって神様を見る。神様を知る。愛を知る。命とは何か。生きるとは何かを知る。そんな大きな恵みが与えられているのです。

    イエスは言われました。「わたしが父のうちにおり、あなた方がわたしのうちにおり、わたしもあなた方のうちにいることが、あなた方に分かる。」(ヨハネ14・20)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(ヨハネ17・21)
    聖霊によって、神様のみ心の内に入りなさいと言われているのではないでしょうか。

    使徒言行録に聖霊降臨が語られます。
    五旬祭の日、この祭りはイスラエルの人は皆、神殿に行く義務がありました。エルサレムに巡礼の人が大勢集まっている。エルサレムが賑わっています。キリストのうちに一同が一つになって集まっていました。120人くらいの信徒の人たちが一つの家に集まっています。木更津教会ぐらいの大きさの建物ではないかと思います。家の中が一杯になっている。一同が一つになって祈っています。突然激しい風が吹いているような音が聞こえました。風は息です。神様の息吹、命の風です。

    激しい神様の息吹が、神様の命が音となって響いてきた。命が炎になって一人一人の上にとどまりました。神様の息吹、聖霊が一同、一人一人の中に入り、一人一人は聖霊に満たされました。
    一人一人の口から言葉が流れ出ました。その人に聖霊に働きます。聖霊がその人の口を使って語っているのです。大勢の人たちがこの出来事に集まって来ました。 
    一同が語っている言葉が聞く人の心に入ってきます。言葉がずしんと自分の中に入って来るのです。神様を讃える言葉が心の奥に入って来る。その言葉は懐かしい言葉。言葉が心の中の懐かしい思いを呼び起こします。この言葉が自分に呼びかけてきます。
    弟子たちの流れるような言葉が、神様の憐れみの炎が人々の心の響いたのです。

    聖霊は神様です。この日、この時、聖霊降臨は聖霊がご自分の力をわたしたちに見える形で示されたのだと思います。神様は父と子と聖霊だと言いました。父と子はなんとなく分かるような気がします。しかし、聖霊はどうも心の中に入って来ません。きっとそれは、聖霊は形を持っていないからではないかと思います。 

    もう一度、聖霊を思い巡らします。天地創造の初め、「神様は光あれ」と言われました。光は造られたすべてのものを包みます。空間は光に満ちます。光は神様のみ心ではないでしょうか。すべのものは神様のみ心のうちにある。その神様のみ心の働きが聖霊ではないでしょうか。聖霊は神様の光、神様の力です。

    今日、聖霊の続唱を歌いました。この詩(歌詞)を心に留めてください。

    わたしたちは毎日祈ります。深く祈ります。平安の内に神様と出会います。力を貰います。聖書を読みます。聖書を黙想します。イエスの姿を思い巡らします。
    しかし、如何に祈っても、いかに聖書を読んでも、それが自分のうちにあるならば、それは信心です。信心は信仰のために準備です。準備は大切です。深く祈りたい、深く聖書を読みたい。
    信仰は聖霊の働きです。自然と出会います。人と出会います。自然とつながります。人とつながります。特に隣人とつながります。つながりの内に命が働きます。命の働き、聖霊が働いてくださいます。ちょっと注意ですが、信心の世界は自分の世界の神様です。

    信仰は一緒に生きる道です。つながって命が生きる。支えられていることに感謝する、支えるものになるのです。聖霊によって、イエスの心を知る、イエスの言葉が心の入って来るのです。

    聖霊が来られる。わたしたちに注がれる。「聖霊降臨に聖霊が来た」のではありません。聖霊降臨の時から、今も、聖霊はわたしたちに注がれています。
    聖霊は言われます。横になっていないで、寝ていないで、立ち上がり、歩きましょう。

    父に感謝、イエスに感謝、聖霊に感謝します。

  • 主の昇天A  17-5-28 
      その日、おばあちゃんが亡くなった。
    孫がお父さんに聞きます。「おばあちゃんは今どこにいるの。」
    「おばあちゃんは煙になって、今天に昇って行く。夜空の星になるんだよ。」
    「でも、星は夜見えるけど、昼間は見えないよ。」
    「おばあちゃんは昼間は見えないけれど、空にいて、お前を見ている。いつもお前を笑顔で見つめているんだよ。」
    「ふーん。」
    亡くなって世を去った人の事を思う時、いつもこのように考えてしまいます。天にいて、いつもお前のことを見ているよ。

    苦しみのうちに死なれたイエス様は生きておられる。イエス様はご自分が生きていることをいろいろな出来事を通して示されました。 
    お墓でイエスに会いに行ったマグダラのマリアに現れました。
    エルサレムからエマオという村に行く二人の弟子たちに現れました。 
    週の初めの日、家の戸に鍵をかけて、弟子たちが集まっているところにイエスが来られました。「あなた方に平和があるように」と言われました。
    今日読まれた使徒言行録には、新しいいのちに生きるイエス様は弟子たちと一緒の食事をされたとあります。

    食事の事を話したいと思います。
    食事を一緒にする。笑顔で、語りながら、野菜を食べる。肉を食べる。魚を食べる。果物を食べる。全部神様の恵み。この野菜おいしいね。父さんがさっき、畑からとって来たんだよ。母さんが料理してくれたんだよ。おじいちゃんもおばあちゃんも一緒に食事の席についている。屋外で、光がやさしい。風が気持ちいい。天の国の喜びを会食の喜びで表わします。(イザヤ25・6、ルカ16・22)
    イエスも弟子たちと一緒の食事をされます。イエス様は神の国について話される。笑顔のイエス様と一緒に神様の恵みを十分味わうのです。

    使徒は言います。こんな大きな恵みがわたしたちに与えられています。主イエスが神様によって新しいいのちに生きておられる。人の力をはるかに超える力がイエス様に働いている。神様がイエスのうちにおられる。主よ、イスラエルのために国を立て直されるのは今、この時ですか。新しいイスラエルが生まれる。主イエス、あなたが王です。(使徒言行録1・6)
    神の国、イスラエルの出来事は父がお決めになる。あなた方の知るところではない。あなた方は今、あなた方の出会った出来事を語り続けなさい。あなた方はわたしの証人です。神様について、わたしについて語り続けなさい。

    イエス様は天に昇られました。わたしはいつもあなた方と共にいる。

    弟子たちは、天に昇られたイエス様を心に思いながら天を見つめています。二人の天使が聞きます。ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げているのですか。天を見つめていても、どんなに祈っても、イエスはあなたのところには来ません。あなたは証人ではないのですか。人と出会いなさい。語りなさい。人とのつながりの時、イエス様は来られる、イエス様は聖霊のうちに働かれるのです。

    弟子たちは聖霊によって洗礼を授けられました。

    弟子たちは思い起こします。過ぎ越しの食事の時、イエス様は言われました。わたしは去って行く。わたしを見なくなる。わたしが去って行く、その時のわたしの出来事を心に留めなさい。あまりにも大きな悲しみと苦しみがあなたがたを覆います。その苦しみにあなた方はわたしを捨てます。わたしから去って行きます。しばらくして、わたしはあなた方と出会います。殺されて世を去ったわたしがあなたがたと出会う。驚きが喜びに変わります。

    イエス様が昇天される。見えなくなります。イエス様が見えなくなった時、あなた方は自分自身を見つめなさい。あなたはイエス様の力を求めていたのではないですか。イエス様と一緒にいると安心がある。イエス様の力に驚き、その力について行きたいと思っている。イエス様がまことのイスラエルの王だと思っている。イエス様は言われているのです。あなたはわたしの証人である。神様の証人である。証人として歩きなさい。全世界に向かって人々に出会いなさい。証人としてあなたは神に国に向かって歩いているのです。あなたは自分の足で神の国に歩いて行くのです。

    イエス様は2度見えなくなる出来事がありました。
    主が昇天されました。主イエスは言われます。どこにいても、どんな時もあなたを見つめています。



  • 復活節第6主日A  17-5-21
      過越しの食事、最後の晩餐の席です。イエスは弟子たちに言われます。 
    わたしを愛しているならば、わたしの掟を守りなさい。
    掟とは守らなければいけない規則を言っているのでしょうか。

    わたしの掟、わたしの命じることを行わないなら、あなた方はわたしを愛していないことになる。
    愛にそんな条件が付くのですか。掟とは、イエスのみ心ではないでしょうか。

    あなた方は愛されている。支えられている。神様はあなたの父さん、母さんです。神様はあなたの命を包んでいる。あなたの生活を見ている。生き生きと生きてほしい。命の尊さを知ってほしい。清さを求めて生活してほしい。そして、生きるとは、隣人のために働くことだと知ってほしい。
    生きている、わたしたちは神様から命を注がれて生きているのです。神様のために働くのです。

    イエスはわたしの掟を守りなさいと言われる。それは、わたしのあなたを思う心を受け取ってほしい。あなたを愛する心を受け取ってほしいと読んだのです。父さん、母さんの言葉は掟ですか。そんな風には取らない。掟に聞こえたら寂しい。子を愛する思いのうちに語っているのです。

    わたしへの愛のうちにわたしを受け取ってほしい。
    愛:相手の人の心とつながっている。その人の姿を喜ぶ。その人が自分のうちにいる。一緒に生きる。わたしを愛しているのならば
    @イエスの心とつながっているのならば、
    Aイエスの姿を喜んでくれるのならば、
    Bイエスが自分のうちにいるのならば、
    Cイエスと一緒に歩くならば、
    イエスの言葉はいつも心を揺らす温かい言葉ではないでしょうか。

    イエスは言います。わたしは今、あなた方の前にいる。語っている。しかし、わたしは去って行く。
    あなた方はわたしを見なくなる。わたしが去って行っても、見えなくなってもわたしは生きている。
    父が別な方をあなた方に遣わしてくださるよう、父にお願いする。わたしはその方と一緒にあなた方のところに戻ってくる。あなたがたをみなしごにはしない。わたしはいつもあなた方と共にいる。

    このイエスの言葉を聞いた時、別な方とは、あぁ、イエスは聖霊を語っているのだと思いました。
    聖霊は神様です。聖霊によってつながる。聖霊によって命が生きる。聖霊によってイエスがわたしたちと共にいる、イエスがわたしたちと一緒にいることを知るのです。イエスが一緒だと心が感じるのです。

    最後にイエスは言われます。
    わたしは、わたしを愛する人を愛し、その人にわたし自身を現す。

    先程、イエスを愛しているならば、イエスの姿を喜ぶと言いました。
    イエスの神様を語る姿を喜ぶ。イエスの神様の憐みの業、病を癒す、悪霊を追い払う姿を喜ぶ。
    それ以上に、人の悪を受け取り、苦しんで、血みどろになりながら十字架にかかったイエスの姿を受け取るのです。そんな姿になったイエスを愛するのです。

    最後の晩餐で語られたイエスの言葉を心の耳で聞くことが出来ますように。

  • 復活節第5主日A 17-5-14
      今日の話は、訣別の説教と呼ばれるものです。
    イエスと弟子たちは過越しの食事の席におられ、その席で語られたのです。

    イエスは語ります。
    今や、人の子は栄光を受けた。
    時は来た。わたしは去って行く。
    皆、今しばらく、わたしはあなた方と共にいる。
    しかし、わたしの行くところにあなた方は来ることは出来ない。
    今、わたしについて来ることが出来ない。 

    ペトロは言います。
    なぜ、今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。

    ペトロ、弟子たち皆、心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
    どのような出来事が起こっても、その出来事があなたたちに何かを及ばすものであっても、
    その出来事を受け止めなさい。静かにその出来事の中に入って行きなさい。
    わたしは父のもとに行く。そこにあなた方の場所を用意する。そして、戻ってきて、あなたがたを迎える。そこで、あなた方とわたしが一緒にいることになる。
     弟子たちは静かに、不安のうちにイエスの話を聞いている。

    しかし、トマスは言います。
    主よ、おっしゃっていることがわたしには全く分かりません。主よ、どこに行かれるのですか。主よ、あなたに会うための道はどこにあるのですか。どうしたらその道を知ることが出来るのですか。

    主イエスは言われる。
    わたしは道、真理、命。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。

    道:あなたはわたしと出会った。わたしの心を知った。喜びを知った。悲しみを知った、苦しみを知った。共にいる、共に働く。喜びを自分の中にしまっておいてはいけない。
    自分の世界から出て、歩きなさい。自然と、人と出会いなさい。語り合いなさい。自然と一緒に歩く。人と一緒に歩く。

    真理:イエスと共にいることです。神様と一緒にいることです。イエスとつながっている。心がつながっている。イエスの心が入って来る。み言葉が、憐みの業が心に入って来る。空っぽになりなさい。空っぽになった時、イエスが入って来る。父と子・イエスが聖霊のうちに入って来る。
    その時、神様が見える。世界が見える。隣人が見える。自分が見える。道が見える。命が見える。
    命:わたしは生きている。命が与えられたと知る。生きているのだ。自分が生きている。
    あぁ、そうだ。自分の前に、自分を支えるものが生きている。支えられていることを知る。神様は言われる。あなたの命は自分が生きるためではなく、隣人が生きるために働くいのちです。自然のために働きなさい。人のために働きなさい。わたしはすべての人にわたしの命を与えた。
    自分が空っぽになった時、自分の中に住む神様の命が生きるのです。
    すべてのものが、すべての人が一緒に喜んで生きる。自然が生き生きと生きる。人が生き生きと生きる。それが命の喜びです。

    わたしを知るなら、父を知ることになる。あなたがたは既に今、父を見ている。

    フィリポが言います。主よ、おっしゃることがわたしには全く分かりません。
    たとえば、これが父の姿だ、このように父のみ言葉を聞きなさいと分かりやすく教えてください。
    フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、あなたはわたしを見ていない。
    わたしに触れていない。わたしを聞いていない。
    わたしのうちに父がおり、父がわたしのうちにおられることを信じないのか。
    わたしの語る言葉は父からのもの。わたしの行う業は父からの恵み。わたしは自分からは何も出来ない。父の言葉がわたしに注がれる。わたしはそれを語っている。
    父の憐れみの業がわたしの手を通して行われるのだ。

    今、わたしは父のもとに行く。
    わたしを信じる者はわたしが行った業を行う。もっと大きな業を行うようになる。

    わたしたちはあなたへの道を歩みます。
    真理に出会うことが出来ますように。
    命を生きることが出来ますように。

  • 復活節第4主日A  17-5-7
      
    五旬節は大切な祭りです。刈り入れの祭り、収穫を感謝する祭りです。皆、神殿に集まります。
    ペトロは声を張り上げて語ります。皆さん、イエスの出来事を思い起こしてください。イエスは毎日、人に出会い、語りかけました。病を癒しました。イエスは人に神様の優しさ、おおらかさ、温かさを語りました。イエスに出会った人たちはイエスに神様の憐れみの姿を見たのです。人々はイエスの言葉、癒しの業に慰められ、励まされ、希望が与えられました。
    人々は言います。わたしたちは神様の慈しみを知りました。本当の憐れみを知りました。神様は厳しさのうちに、わたしたちを包んでおられる。

    ペトロは言います。そのイエスをあなたたちは十字架につけて殺してしまったのです。そのイエスを神様は復活させられました。イエスは今も生きておられます。そのイエスこそメシアです。
    わたしたちはどうしたらよいのですか。
    悔い改めなさい。罪を赦してもらい、洗礼を受けなさい。
    神の国への道を歩く者となりなさい。

    五旬祭、今日は良い牧者の主日です。わたしたちは羊、そして、イエスは善い牧者です。五旬祭の日、聖霊降臨の出来事に出会います。わたしたちに聖霊が注がれます。わたしたち羊は善い牧者のもとに集まります。教会の出発です。

    羊が群れをなしています。草を食べ、水を飲んでいます。この群れには門があり、囲いがあります。羊に羊飼いがいます。羊は毎日、羊飼いの顔を見ます、羊飼いの声を聞きます。羊飼いは羊の名を呼ぶそうです。羊に名前を付けます。羊飼いに呼ばれた羊は羊飼いについて行きます。ほかの者にはついて行かない。連れて行こうとすると逃げ出してしまう。

    群れに門があると言いました。その門は見えない。その囲いは見えない。門は、囲いは羊飼いを知っているということではないでしょうか。門の中に入る、囲いの中にいる。羊飼いの顔を知っている、声を知っている。羊飼いの心を知っている。それが門になっている、囲いになっているのです。

    羊は毎日羊飼いの姿を見る、顔を見る。声を聞く。羊飼いは一人で100匹くらいの羊の世話をするそうです。羊は食べ物に貪欲だそうです。食べているときは自分しかいない。自分しか見えない。羊飼いは草地に羊を移動させます。そして全体を見る。羊の広がりを見ています。行きすぎないように、牧羊犬を使って羊をはぐれないようにします。何だか、羊は人だと言う例えがよく分かります。

    わたしの門から入りなさい。門の中にたくさんの羊がいます。イエスは言われます。わたしが門である。門から入り、わたしを知りなさい。わたしの草を食べなさい。羊はわたしたち。イエスの草を食べる。イエスのみことばを食べる。イエスのみ心を食べる。

    幼児の食べ物はお乳ですか。
    そうです。お乳を飲んで大きくなります。そのお乳はお母さんの温みのあるお乳です。お母さんの温みのお乳です。幼児は食べ物を食べる以上にお母さんの心を食べているのです。お母さんと一緒にいる。お母さんに抱かれている。お母さんが食べ物をくれる。お母さんと一緒にいる安心です。子供の命はお母さんのもとにあるのです。

    子供には食べ物を用意すればいいと考えたお母さんがいました。子供をテーブル椅子に座らせ、テレビの前に置きました。テーブルの上には食べ物をたくさん置きました。これなら退屈もしないし、食べ物もたくさんある。始めのうちは、お母さんと一緒にテレビを見る。面白がって食べる。そのうちにお母さんは子供をそのままにして出かけてしまいます。毎日、毎日、子供はテレビの前にいる。
    食べ物が載っているテーブル椅子に座っている。
    その子はまったく口をきかなくなってしまったそうです。

    愛がないから生きられない。わたしの囲いの中にいなさい。わたしの声を聞きなさい。わたしの目を見なさい。わたしは羊飼い、羊を集めます。羊の命を受け止めます。羊の命をますます豊かにするために働きます。

    生き生きと生きなさい。喜んで毎日を過ごしなさい。一緒に生きる。生きいるために求めている人に、与える者になりなさい。
    イエスがわたしたちの羊飼い。み心を、みことばを受け止めます。心に刻みます。

  • 復活節第3主日A  17-4-30

      二人の弟子たちはエルサレムを去って、エマオという村に向かって歩いていました。エルサレムを去る、二人はエルサレムで大事なものを失ったのでした。敬愛する主イエスを失った。イエスに従った生活の中で、神様と出会い、神様を知った。神様のへの道は、正しい事をしなければならない、また、典礼のうちに生きて行かなければならないというように思って来ました。
    イエスは言われました。毎日を喜ぶのです。ありがとうの心です。喜びなさい。その時、神様があなたの中に入って来ます。正しいとは、神様に感謝する、そして、隣人にと一緒に生きることです。

    二人は歩きながら、エルサレムでの出来事を語り合っていました。イエスはすばらしい預言者であったが、わたしたちの祭司たち、議員たちによって、引き渡され、死刑を告げられ十字架にかけられてしまった。神の子イエス。神様のみ心、憐みを語り、業を行われたイエス。神様を愛されたイエス。苦しみを、虚しさを味わって死にいたるイエスに神様は何もなさらなかった。あの人こそ、神様の力によって、わたしたちの新しい王、イスラエルの王となると希望のうちに待ち望んでいたのでした。しかし、不思議な事を聞きました。婦人たちが朝早く墓に行ったが、遺体が見つからなかったというのです。

    ふと心が騒ぎました。声が聞こえました。聖書を思い起こしなさい。イザヤ書の「苦難の僕」の個所、アブラハムの出来事、モーセの出来事を思い起こしなさい。救いは苦しみを受けて栄光に入るのではないですか。聖書全体はわたしについて書かれているのです。(ヨハネ5・39~)わた日は預言者と共にいます。預言者の苦しみはわたしの苦しみです。

    二人は村に着きました。食事の席に着きました。その時、過越しの食事がはっきりと思い出されたのです。 イエスはパンをとり、それを裂き、言われました。これをとって食べなさい。これはあなた方のために渡される、わたしの体である。 イエスの出来事が二人に入ってきました。二人は言います。道を歩いていた時、イエスがわたしたちと共にいたのだ。わたしたちに語りかけてくださっていたのだ。わたしたちはイエスに会った。

    わたしたち、二人はエルサレムに戻りました。
    二人の歩いている道はわたしたちの道ではないでしょうか。生活の中でイエスを思う。生きている生活の目でイエスと語り合うのです。
               *          *          *
    救いは、苦しみを受けて栄光に入る。聖書を読む。アブラハムとモーセを考えました。
    アブラハムの驚きと苦しみは、今を捨て、わたしが示す地に行きなさいと言われたことだと思います。
    あなたを祝福の源とする。そして、生活し始めた時、飢饉が起こったのです。次の苦難は何といってもイサクの奉献ではないでしょうか。殺していけにえとしてささげなさい。神様に従う苦しさを思います。
    モーセはイスラエルを導く指導者となりました。その出発は荒れ野の道、40年の旅でした。厳しい、苦しい生活が与えられたのです。荒れ野の生活は苦しみの連続です。なぜその道を歩くのですか。その道は神様への道です。神様と深く出会うためです。神の国への道だからです。

  • 復活節第2主日A いつくしみの主日 17-4-23
      主イエスは復活されました。復活は新しい命への出発です。 弟子たちは日曜日夕方、家に集まっていました。家の戸には鍵がかかっています。イエスの十字架の死が弟子たちの心と体に刻まれています。弟子たちはどうしようもない悲しみに沈んでいます。一方、ユダヤ人たちに、自分たちがイエスの仲間であることを知られたくなかったのです。恐れていました。
    皆の、静かな暗い沈黙のところに、イエスがすっと現れました。イエスが来た。驚きました。イエスは弟子たちの真ん中に立ち言います。「あなた方に平和がありますように。」弟子たちは喜びました。

    イエスの出来事・受難、復活は神様のみ旨です。イエスは言われました。わたしには受けなければならない洗礼がある。洗礼―わたしたちもこの復活祭で新しい仲間の洗礼を祝ったと思います。洗礼は神の子となる出発です。その道を歩く、喜びの出発です。そして、洗礼は神様の思いのうちに歩きますと言う決心ではないでしょうか。洗礼によって厳しい道を歩く。その道を歩くことが洗礼の出来事なのです。イエスは洗礼を受けられた。過ぎ越しの食事を終わり、ゲッセマネで祈っておられた時、父はイエスにわたしの盃を飲みなさいと言われたのです。人のすべての罪、咎を飲み干しなさい。人の罪、咎を背負いなさい。とてつもない苦しみを受け取る、その盃のために命が奪われる。それがイエスに与えられた洗礼ではないかと思うのです。

    わたしたちの命は神様から注がれた恵みです。わたしたちは神様のいのちに生きている。命は喜び、生き生きと生きる。命は温かく、生き生きと動く。しかし、イエスの時代も、今も、わたしたちは神様のいのちを捨ててしまった。命を見つめようとしない。神様をも見つめようとしない。毎日の生活は自分の欲求を満たす、刺激を喜ぶ。力を求める、自分を誇るそのようなところにいるのではないですか。わたしたちはこの世の社会、欲求の世界のうちに住んでいる。欲求の世界は争いを生む。物にのめり込む。父はイエスに命じたのです。欲求の世界に住むわたしたちを、神様のもとに戻しなさい。欲求の世界から買い戻しなさい。買い戻す代金はイエス、あなたの命です。

    エルサレムでイエスは神様の愛を示されたのです。十字架の苦しみがあなたたちへの愛のしるし。あなたたちへの愛があるから襲ってくる苦しみを受け取るのです。十字架にかかる、十字架で命を奪われる弱さ、それが人々はイエスに向ける屈辱。心と体の苦しさをじっと受け取るのです。

    そんなことを思い巡らしながら、平和についえ考えたいと思います。平和だったらいい、平和を大切にしよう。わたしたちは平和を無視しているわけではないと思います。しかし、本当に平和を求めていますか。あなたは平和のために何をしていますか。
    ミサの中で司祭は唱えます。「主イエス・キリスト。あなたは使徒たちに仰せになりました。『わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和をあなた方に与える。』

    平和とは、自分にとって平和とはをもう一度考えます。
    @ 自分の思いを全部話すことが出来るそんな場がある。心の底まで聞いてくれる人がいる。そんな安心がある社会です。自分を聞いてくれる人がいる、嬉しい。だからわたしも聞く人になる。
    A 与える者になる。皆が与える者になるのです。わたしたちは子供の時、父さん、母さんにすべてが与えられていました。見えるもの、見えないもの、そして、人とつながる温かさ、一緒にいる安心、愛情の大切さの中で育ってきました。大人になった、大人であるわたしたちが与える者になるのです。しかし、身内の者に与えるのではない。隣人に与える者になりなさい。隣人とは支えてもらわなければ、生きて行けない人たちです。隣人を自分のように愛しなさい。愛するとは支えることです。これはイエスが定めた新しい掟です。
    B 悪人を受け入れるのですか。悪人にも愛を行うのですか。強盗、詐欺、殺人、そのような人たちを受け入れるのですか。身近にわたしを苦しめる人たち、意地悪をする、大事なことにも?をつく、悪口を言う人たち。暴力をふるう人たちも赦すのですか。その人たちのために祈りましょう。赦せればいい。赦すことの出来る大きな器になればいい。悪人は喜んで、自分からすすんで悪人になったのではありません。正し人になれないと思っているのではないでしょうか。悪人は人を苦しめて満足しています。悪い事をすればするほど、悪い心の世界に入って行きます。
    悪口を言う人は悪口を言った時、自分を安心させているのだと思います。何も悪い事をしないのに怒鳴られたら、怒鳴った人は心にそれなりの大きな苦しみを持っているのだと思うのです。悪い人を受け取れればいい。受け入れられるほど大きな心を持てればいいのです。

    平和とは生きることです。一緒に生きることです。復活への道は平和を作って行く道を歩くことです。与える者になれますように。
    主を見つめ、主の歩かれた道を少しでも歩いて行くことが出来ますように。